Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

勇者~Oの愛した光景

2014-08-23 22:52:27 | 日記・エッセイ・コラム

Oさん、この所、下界は不順な天候が続いています。先の大戦で、原子爆弾の標的となった広島にては、未曾有の大水害が生じてしまい、分っているだけで数十人もの方々が犠牲となりました。謹んでの弔意と共に、まだまだ安否確認の叶わぬ方々も多く、可能なら一人でも多く生還して下されたいと願うばかり。又、辛くも避難された各位へのお見舞いの意も表さないと、と言う所。この地は、終戦後間もなく大型台風に見舞われた事もあり「何故、あの街だけが」との想いも強くありますね。と共に、この後の記事とも実は関係がありまして。

今夜はいよいよ、新潟磐越の地にて、貴方と俺を引き合わせる原動力となった立役者、元日本国有鉄道の蒸気機関車 No,C57180の事に触れようと思います。

戦後の混乱続く1946=昭和21年8月、広島県下にて出生。忌まわしい原爆の惨禍より、土地こそやや離れていたとは言え、僅か1年でもう復興へ向け、この地方の製造業は一歩を踏み出していたのですね。その力強さには、感銘を覚えたものでした。その様な状況を背景に現れた蒸機C57型、No,C57180と僚友達は、我国の蒸気機関車として最強級の足回りを武器に、各地の特急、急行列車の先頭に立って、我国の戦後復興をリードして行きました。同機は現役期、もっぱら旧国鉄・新潟鉄道管理局のエリアを舞台に、新潟、福島、山形、秋田の各県を日夜往来、主に信越、羽越の両本線で長く頑張りを見せました。

終戦直後の部材品質の不良などが祟り、1957=昭和32年暮れより翌年初にかけては、ボイラーの更新などの大手術を受け復調、以後は1969=同44年の最初の引退まで、大きな故障もなく主戦の座を全うしたのはご存じだったと心得ます。

一線を退いた後、旧新津市、現新潟市秋葉区のある小学校にて保存中の所、平成期に至って復帰への道が開かれる事に。前世期末の1999=平成11年春、ほぼ30年の空白を乗り越え、難関の重整備をもクリアして、見事一線に復帰を果たす事となりました。これは、関係各位の血と汗の努力の他、No,C57180自身に、再起への強い執念があったとしか思えないものがありました。その結果としての、輝かしい今があると思うのであります。

勿論、既に経年もある事より、それなりに故障も生じてはいますし、蒸気機関と言う前世代の技術の伝承と言う難しい課題があるのも事実ですが、これまでも、困難に直面しては乗り越えて来た同機と関係の方々。これからも、力強く前進し続けてくれる事を信じたい所です。

この10月、No,C57180は、数年に一度の、全般検査と呼ばれる重要かつ長期に亘る点検整備に臨みます。現役期にも往来した、JR磐越西線と信越線の新潟~会津若松間の観光便「SLばんえつ物語」での今季の活動は9月下旬まで。大方の予想より前倒しの実施となり、その事より、大きな不具合が生じているのでは、との憶測もある様ですが、願わくば来春の桜の時季には、大過なく戻って来てもらいたいと言うのが、正直な想いです。

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コメント
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