Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

欲しがりません「核」だけは

2015-08-09 11:39:35 | 国際・政治

今日8/9は、先の大戦における長崎の原爆忌、そして旧満州国などへ、旧ソビエト連邦軍が国際条約違反の軍事進攻を行って、我々日本人の同胞多数が犠牲となった日であります。どちらも歴史の上では同様に重く、戦乱を経験せずに今日まで参った我々が、永く記憶すべき日であるのは事実でしょう。ただ、後者は終戦の日たる8/15を過ぎてから我らが固有領たる北方四島に侵攻、未だ不法占拠を続けている事実も、併せて認識されるべきてしょう。犠牲となった方々に、今年も改めて哀悼の意を表したく思います。

さて前者の事共につき、地元紙C新聞のコラム欄に関連記事があったのでご紹介しておきたい。

「長崎のカステラ店、松翁軒が長年発行している冊子『よむカステラ』の中で、作家の高田 郁さんがカステラの底のザラメについて書いている。もともと、あのザラメは意図して敷いたのではないそうだ。生地に混ぜ込んだザラメが溶け切らず、沈んで底に残ったものという。その『たまたま』がオツな食感を長崎カステラに加えたか。

70回目の長崎の原爆忌である。同じ原爆でも広島と異なったのは、広島のウラニウム型に対し、破壊力の大きいプルトニウム型使用されたこともあるが、長崎への投下には『たまたま』がつきまとったことかもしれぬ。

広島への投下後、米国は次の目標を福岡県小倉市(現・北九州市小倉区)に定めていた。当日、同市上空は前日の空襲で煙が立ち込め視界不良。この結果、第2目標だった長崎に投下目標を切り替えた。苦すぎる『たまたま』である。

どこに投下されようと許せぬ。されど長崎ではなかったかもしれぬと空想したとき、そこで失われた生命の無念さ、口惜しさが胸に迫る。まして広島への投下後、国がただちに終戦を決定したら、長崎への投下はあったか。

現在、世界には16000発以上の核兵器が存在する。生物兵器、化学兵器などは既に禁じられたが、核兵器を禁止する国際法はない。

長崎後の核兵器の戦時使用はない。だが、それにも『たまたま』と付け加えなくてよい理由を小欄は知らぬ。」

まあ、「平和の誓い」を新たにすべき時であるのは事実なるも、いかにも現代日本の大メディアにありがちな理想論の所も目立ち、勿論全てを手放しで称えられる文面では到底ない。例えば「国がただちに終戦を決定したら・・・」の下りにしても、我国政府や陸軍大本営、それに海軍々令部などへは広島原爆投下の報が速やかに伝えられていたはずだし、当時の鈴木(貫)内閣は、終戦へ向けたポツダム宣言受諾などに向けて、御前会議を初めその調整へと全力で動いていたはずだ。緊急時とは言え、当然相応の時間は必要で「ただちに終戦」は不可能に決まっている。又、当時既に我国周辺において、続く東西冷戦の覇権をめぐって米ソ両国が対峙し始めていた所にも留意すべきだろう。その事が、長崎への原爆使用に微妙な影を落とした所もある。核使用禁止の国際法不在を報じたは良いが、それなら、その背景が、先の大戦の戦勝国の軍事的都合による所だって伝えなければならない。今も続く、国際連合安全保障理事会の常任理事国が、当時の戦勝国で独占されているのが好例だろう。核兵器禁止の事共にしても、戦勝国にとって不都合があるから禁止も規制もされない。「貧者の兵器」と言われた生物・化学兵器が早々に禁止されたのとは好対照ではないか。ここの所も、正しい教育と報道がされるべきだと愚考するのだが。

核武装願望は、実は我国にも一部の国会議員や大企業トップ、それに所謂「原子力ムラ」の有力者など、少数ではあるが存在すると言われる。この連中は、一見もっともらしい核抑止力論を持ち出して、核武装の効用を主張している様だが、そうであれば、①我国が使用を許される核実験場が地球上のどこにあるのか?②原発でも問題視される、核廃棄物の具体的な処理計画をどうするのか?③ ②の事から、万一核関連施設にて重大事故を生じた場合、その環境面の救済等と責任のあり方を真剣に追求しているのか?位はたちどころに我々国民市民に向け、淀みのない言葉で明確に語って頂きたいものだ。その説明ができなければ、核云々に言及する資格はない。他国民はもとより、自国民の生活に脅威を及ぼしてまで画策する事でないのは、何よりも福島原発の大事故が雄弁に物語っているだろう。

俺は集団的自衛権を限定行使できる様法整備を目指す、今の安保法制論議に正面から反対する者ではない。この事に際し、安倍政権にはそれこそ政治生命を賭して、国民市民の多くがが得心できるやり方で、急がずとも必ず法案を成立させて欲しい。ただ、この政権の周囲に、法案の法的安定性を蔑んだり、反対勢力に向け、自己都合での反対見解などの不穏当な言動を展開する一部勢力があるのは遺憾。放置しては、内外に危険に繋がる懸念材料をばらまき、法案成立にマイナスとなる事もあり得よう。安倍大臣と関係閣僚は、こうした所にも目を光らし、こうした言動を繰り返す様なら、閣僚は次の内閣改造で降板させ、議員なら次の選挙で落選させるなどの努力をすべきだろう。問題発言をした当該議員は衆議院。民意と違う言動なら、有権者はその氏名を良く把握し、次の選挙で厳しい審判を下すべきだ。現に、前世紀末に行政改革運動を繰り広げたあるメディアの標語には「行革を妨害する議員を落選させよう」と言うのがあった。形こそ違え、歴史同様、過去の事例から学ぶ事もやはり大切だろう。

今回の最後に、原爆忌を初め戦争と平和を考える事についての拙見解を記してひとまずの区切りとしたい。長らく語られて来た様に、先の大戦の様な「泥沼戦争」は、確かに二度と繰り返されるべき事共ではない。ただ「初めに反戦ありき」の如き、日教組的左翼的姿勢も決して好ましくはない。この事について、亡き文学者 福田恆存(ふくだ・つねあり)さんらが、著書にて早い時期よりその不適当さを指摘、問題にされていたのだが、左派万能の高度成長期にあっては中々注目されて来なかった様だ。ただ一方的に「残虐さ」「凄惨さ」が強調されるだけでは、学ぶ方は本当の得心ができず、時が経つと反発する向きだってあるのではないか。必要なのは、先の大戦が残した凄惨な史実や政府や軍部の大きく適切を欠いた軌跡などをありのままに次の世代に紹介して見せ、彼らの頭で善悪を考えさせ、主体的思考や感情に、伝える方の主観を抑えて伝えて行く事だろう。その意味で一番良いのは「先の大戦や、原爆投下はどうだったのか?」に関連する質問をし易い環境を整えてやるのが良いのではないか、と最近になって思っている所です。

今回画像は、少し前の初夏、滋賀県下にて捉えた、雨天下を行く長距離列車「トワイライトEXP」の様子。有名だった「対北海道連絡」の使命を終えた今は、西日本中心に、観光団体列車として動いているとか。当然の事だが「戦争と平和」を考えるのは難しい。幾多の秀逸な政治家や官僚、学者専門家を動員しても、先の大戦の総括や、これからの安保法制のあり方の見通しは叶わないでいる。画像の様に不透明な状況だが、その一方で「人間のやった事」であるのも事実。良い方向を模索する努力と姿勢は、やはり必要な所でしょう。

コメント (2)
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