依然、猛暑が続いている。もう何度も繰り返し言われて来た事だが、適度の水分補給や適切な空調(エア・コンディショナー)の利用、外出機会をなるべく絞り、極力直に日射を浴びない屋内や地下街にての活を心がけるなど、結局は「自らは 自らで守る」所へ行き着くしかないのかも知れない。ただ、まだ身体の育ち切っていない子供達は、熱中症など 猛暑のダメージを被り易い。親御の各位は、その辺りにも配慮を願いたい。もう一つ、高齢各位の体調が変わった時などへの対処も 同様にされる事を望みたい。
本題です。老後の我国民市民の生命と暮らしを守る、世界一の年金基金「年金積立管理運用独立行政法人 GPIFの 2017=平成29年度収益率と収益額が、共に 3年ぶりの高レベルとなった。国内外の株高や、欧州通貨ユーロに対する円安基調が背景。以下、某ネット記事を引用して見て参りたい。
同法人が 7/6公表した昨年度の業務概況書によると、収益率=6.90%、収益額=10兆 810億円と、いずれも 2014=平成26年度に記録した過去最高の収益率=12.27%、収益額=15兆2922億円以来の好成績となった。資産別では、国内株式=15.66%、外国株式=10.15%と 2年連続のプラス。外国債券=3.71%と 3年ぶり、国内債券=0.80%と 2年ぶりに運用益を上げた。主要 4資産が揃ってプラスとなったのは2014=平成26年度以来だ。
運用資産額は 3月末に 156兆3832億円。四半期ベースで最高を記録した昨年度からは目減りしたが、年度末としては過去最高を更新。前身の 年金資金運用基金として自主運用を始めた 2001=平成13年度からの累積収益は 66兆4413億円となった。名目賃金上昇率を差し引いた運用利回りは、この 17年間に年率 3.01%。公的年金制度の一翼を担う GPIFに求められる同 0.14%を大きく上回った。
高橋則広 GPIF理事長は、資料掲載の挨拶文で 2017=平成29年度の運用結果には 国内外の株価上昇などが寄与したと指摘。「総じて良好な経済環境や堅調な企業々績に加え、仏大統領選後の欧州政治情勢の落ち着きや 米税制改革法案成立による同国景気の押し上げ期待が支えとなり、国内外の株式市場が大幅に上昇したが、年度末にかけては 米通商政策を巡る不透明感から株価が上昇幅を縮小させると共に、外為市場では 特に対ドル円高が進行した」と説明した。(引用ここまで)
賛否はあろうが、これも経済政策アベノミクスの一成果と拙者は見る。近年 GPIFの年金資金運用は 内外株式への比重を高め、この事で 野党各党や安部自公政権に批判的な有識者勢力から懸念が表されて来た。その事自体は一定理解できるが、前述の業務説明は それらの懸念を一応は払拭したと言えるだろう。先日の定例官房長官記者会見でも 年金資金運用に関連した質問があった様だが、その方向性に疑問があったのでここに記す次第。
質問趣旨は、GPIFが運用の外国企業株式中に 軍事防衛関連産業分野に関わる所が複数あり、結果的にせよ 我国年金資金が外国軍事面に流れる懸念があるというものの様だ。勿論、商法初め 一切の法令に触れる様な所はないそうで、菅内閣官房長官も、その様に答弁された由。当然の事だろう。
① 何度か見聞きし 学んで来た事だが、我国にしても、国家として 最もしてはならないのは「自国の国民市民を飢えさせる事」である。年金制度は、高齢になった国民市民の命と暮らしを守る「砦」だ。その為に GPIFの関係各位は、それなりの利権構造を抱えるにせよ、年金資金の拡充へ向け 血を流すレベルの凄まじい努力をされているのも事実ではないか。前掲示の質問は、そうした大いなる努力を蔑ろにするものだ。
② 国内外共 民間企業の特に製造業は、多くの社が軍事・防衛関連の分野を手掛けているものだ。外国株式について見れば、むしろそうした関連と無関係な方が稀だろう。日本国憲法前文や 第 9条などの趣旨を偏狭に解釈し、自国の専守防衛以外に資金が流れる可能性を非難するつもりだろうが、その前に GPIFの活動は 高齢となった自国民市民の命運を握る枢要なものだ。その活動に万全を期す為にも、変動があり得る株式分野への過分に依存を懸念する為の疑義ならまだしも、空想的なまでの理想論からの「尋問」はやめるべきというのが拙見解だ。
件の「質問というより尋問」の挙に出た某新聞記者。実名も知ってはいるが、もう何か晒すのもアホらしい気がするので、ご興味があれば「グーグル」などで検索願えれば、直ぐ行き当たるだろう。国民市民の「現実の利益と幸せ」を弁えない、安直な「人類の理想」を振りかざすだけの暴論は、決して通じる事はないと思うのだが。今回画像は、折々練習撮影に訪れる JR東海道線・稲沢駅を発ち 西方へ向かう下り貨物便の様子を。想えばこの街、今を去る半世紀程前の 拙出生直後に暫く住んでいた、と拙親達は申しております。その頃は勿論、鉄道基地のあったこの街には多くの蒸機が集い、日夜猛煙の気勢を上げていた事を、風聞で聞いた記憶がありまして。