2015=平成27年11月も、拙ブログを宜しくお願い致します。今日11/3は、祝日法の規定による「文化の日」。日本国憲法の公布を祝し「自由と平和を愛し、文化をすすめる日」の趣旨だが、文化の尊重はその通りとしても、これまでも主張して来た様に「自由と平和」が並び立つ事はないものだ。70年1日見直される事のない日本国憲法もそうだが、この「文化の日」の趣旨規定ももういい加減に「自由」の文言を削除すべきではないのか。どう努力しても実現不可能な題目を、いつまでも掲げているのは適切を欠くと言うものだ。「平和が大事」と言う事では、その平和の為に様々な義務や規制を信徒に明示したイスラム経典「コーラン」の方が日本国憲法より余程優れていると愚考するのだが。
ネット辞典「ウィキペディア」を少し調べてみたのだが、そもそも11/3は、明治天皇のお誕生日。よって明治年間は天長節と定められていた。明治帝ご逝去後は「明治節」と規定替えが行われたが、1946=昭和21年の日本国憲法の当初公布日を11/1に予定した所、半年後の施行日が労働者の祭典があるメーデーと重複する事から、特に左派野党の不興を買ったらしく、2日後の11/3に変更されるも、今度は当時我国の統治を行っていた連合国進駐軍GHQより、明治帝お誕生日当日を憲法記念日とする事が好感されず、それ以外の祝日ならOKであるとの意向から、この様な祝日となった経緯がある様だ。こうなった背景には、当時のGHQの皇室嫌いもさる事ながら、戦後を機に労働側の大幅権利拡大を勝ち取り、メーデー祝日化などで政治力を強めようとした左派勢力の露骨な意図に屈した所も見られなくはない。因みにメーデー祝日化は、約3年強の民主党政権時代にも結局実現しなかった。まあ当然の事であろう。
今月初には、約3年半ぶりで日中韓首脳会談が大韓民国ソウルにて実現した。この会談の意義を疑問視する向きも多く、勿論俺もその心情は分るし、一定の尊重もしなければとは思うが、少なくとも「半分は意義あった」と言うのが正直な印象だ。安倍大臣は会談中、中韓いずれの首脳にも過度に傾く事はなかったし、不適切な譲歩もされなかった。日韓間に影を落とす所謂「慰安婦問題」にしても、直ちに結論に至らず、日数をかけて双方が理解できる様丁寧な解決を図ろうとする姿勢は、少なくとも一定の評価をして良いだろう。この問題は良く知られている様に、元々は朝日新聞の「捏造に近い誤報」から生じたものであり、元慰安婦とされる方々の証言にしても「実は、朝鮮動乱下の出来事だった」所も多くあると言う。つまり「従軍慰安婦」と表現するのは不適切な事共だったと言う事だ。又、中国大陸による「南京事件」の史料が国連教科文機関ユネスコの記憶遺産に、大陸側の言い分による犠牲規模がそのまま登録された事にも同様の事が言えよう。史実も明らかでないのに、不用意な謝罪など決してしてはならず、長い日時をかけて調べ直す真摯な姿勢も大事だろう。安倍大臣は「謝罪を子孫の代まで残してはならない」意の事を仰ったが、それとは別に、史実を調べて真実を求める努力は、世代を超えて続けられる必要があると強く思うのだ。又、そうした努力に基づかずに発せられた「河野談話」などは当然見直されるべきだし、中韓両国に向けても、その実態を誠実に語って理解を得る必要があると思う。それを可能にするのが、国民市民レベルの文化的力量と言うものだろう。
もう一つ、此度の日中韓会談で価値ある事実があった。それは、この9月に安倍政権が些か無理をして成立させた「安全保障関連法制」につき、中韓両国首脳より、目立った懸念や不快感が表されなかった事だろう。同法制の成立時には、特に左派勢力より「泥沼戦争に直結する悪法」などとして、過剰なまでの反対行動が繰り広げられたものだが、今回会談で、その主張が虚偽だった事がはっきりした。やはりこれらの法制は、我国の平和と安全を今の情勢に見合った方法で保持努力をして参ろうとする趣旨だと言う事だ。立憲制度を考える上で疑問ありとの見方も一定理解はできるが、それならば、特に国民の権利義務条項などで大矛盾の目立つ日本国憲法を、些かの見直しや検討もせず放置して来た方こそ異常ではないか?と問いたくもなるものだ。
又、日本国憲法は、国際協調主義を謳った前文中で「どの国家も、自国の事にのみ専念してはならず、他国との友好協調も尊重すべき」である事を明示している。安保関連法制は、その事に具体的に応える1つの道筋なのである。この法制に反対する左派野党をメインとする諸勢力は、日本国憲法中、自勢力に好都合な所ばかりを強調してその成立を妨げ、(安保法制の)同憲法に近い所は(まるで過激派や一部の凶悪犯の様に)黙秘を決め込んでいる。これでは話にならない。問答無用だ。
日中韓会談の直前、委員長が訪韓したと言われる日本共産党にしても然りだ。「お前、一体何しに行ったんだよ?」と言うのが素直な所だろう。安保関連法制成立に強行に反対した若手グループ「シールズ」も実は同党の傀儡(かいらい)らしいと言われるし、大人数による反対行動が、今思うと妙に組織だっていたのも、陰で同党の暗躍でもあったのかと勘繰りたくなる。想像で記事にするのは不適当は分っているが、日共委員長は、慰安婦問題で我国が国家的謝罪をする様仕向ける位の発言はした様だ。いいか、この問題は、一人我国だけが関与した事ではないのだ。その史実に背いて、一方的に不適当な謝罪などとは、此度の日中韓会談の妨害工作と見られても仕方あるまい。安保関連法制成立の前後、反対派若手グループの代表とその家族は、ネットて殺害予告を受けた由。勿論、許容される事ではないし、俺も大いに遺憾とは思う。しかしここで発信者に申したいのは、標的にした若手グループの背後を良く調べ、そこに対してもっと合法で効果的な発信をすべきではなかったのかと言う事だ。報道メディアの怠慢もあって、一般に広く知られていないのが残念なのだが、日本共産党は、戦後ずっと破壊活動防止法に定める要監視団体なのだ。つまり、武力で社会のあり様を変えようとする危険意図を持つ集団と見られているのだ。その動かぬ事実を的確に捉え、信念を持って世に発するべきだった。この殺害予告が支持できないのは、そうした誤った手段による所も大きい。世の中を変えたいと思わば、やはり我々国民市民レベルでも、文化レベルを上げる必要があると言う事でしょう。そしてそれは、左派野党と反日メディア(一部外国スパイの可能性もある)によって仕組まれたとされる、安保法制反対行動を冷静な目で見、与しない力を養う事にも繋がるだろう。
今回画像は一昨年の秋、新潟・福島県境で地元知人と共に迎えた、会津へ向かう蒸機列車の模様。今月も、後1回その勇姿を追う事ができたらとも思う。
これもいつも申す事だが、蒸機の進む様を見るたびに「変わらずにいる為には、変わって行かなければならない」の言葉の意味を思い返している所。
動力の蒸気は昔と同じだが、安全、通信などの装置は最新の機器に更新されているのだ。それもこれも「時代が変わっても走り続けられる様に」する為の当然の措置だろう。日本国憲法だって形は違っても同じ事。国是たる平和条項を大筋で守りながら、必要な見直しがされるのは当然の事でしょう。
法律は、宗教ではありません。永世変わらぬ聖典と同じ目で見てはならないのです。そうした事共を区別して見る目を持つ事も「文化」の力でしょう。
ネット辞典「ウィキペディア」を少し調べてみたのだが、そもそも11/3は、明治天皇のお誕生日。よって明治年間は天長節と定められていた。明治帝ご逝去後は「明治節」と規定替えが行われたが、1946=昭和21年の日本国憲法の当初公布日を11/1に予定した所、半年後の施行日が労働者の祭典があるメーデーと重複する事から、特に左派野党の不興を買ったらしく、2日後の11/3に変更されるも、今度は当時我国の統治を行っていた連合国進駐軍GHQより、明治帝お誕生日当日を憲法記念日とする事が好感されず、それ以外の祝日ならOKであるとの意向から、この様な祝日となった経緯がある様だ。こうなった背景には、当時のGHQの皇室嫌いもさる事ながら、戦後を機に労働側の大幅権利拡大を勝ち取り、メーデー祝日化などで政治力を強めようとした左派勢力の露骨な意図に屈した所も見られなくはない。因みにメーデー祝日化は、約3年強の民主党政権時代にも結局実現しなかった。まあ当然の事であろう。
今月初には、約3年半ぶりで日中韓首脳会談が大韓民国ソウルにて実現した。この会談の意義を疑問視する向きも多く、勿論俺もその心情は分るし、一定の尊重もしなければとは思うが、少なくとも「半分は意義あった」と言うのが正直な印象だ。安倍大臣は会談中、中韓いずれの首脳にも過度に傾く事はなかったし、不適切な譲歩もされなかった。日韓間に影を落とす所謂「慰安婦問題」にしても、直ちに結論に至らず、日数をかけて双方が理解できる様丁寧な解決を図ろうとする姿勢は、少なくとも一定の評価をして良いだろう。この問題は良く知られている様に、元々は朝日新聞の「捏造に近い誤報」から生じたものであり、元慰安婦とされる方々の証言にしても「実は、朝鮮動乱下の出来事だった」所も多くあると言う。つまり「従軍慰安婦」と表現するのは不適切な事共だったと言う事だ。又、中国大陸による「南京事件」の史料が国連教科文機関ユネスコの記憶遺産に、大陸側の言い分による犠牲規模がそのまま登録された事にも同様の事が言えよう。史実も明らかでないのに、不用意な謝罪など決してしてはならず、長い日時をかけて調べ直す真摯な姿勢も大事だろう。安倍大臣は「謝罪を子孫の代まで残してはならない」意の事を仰ったが、それとは別に、史実を調べて真実を求める努力は、世代を超えて続けられる必要があると強く思うのだ。又、そうした努力に基づかずに発せられた「河野談話」などは当然見直されるべきだし、中韓両国に向けても、その実態を誠実に語って理解を得る必要があると思う。それを可能にするのが、国民市民レベルの文化的力量と言うものだろう。
もう一つ、此度の日中韓会談で価値ある事実があった。それは、この9月に安倍政権が些か無理をして成立させた「安全保障関連法制」につき、中韓両国首脳より、目立った懸念や不快感が表されなかった事だろう。同法制の成立時には、特に左派勢力より「泥沼戦争に直結する悪法」などとして、過剰なまでの反対行動が繰り広げられたものだが、今回会談で、その主張が虚偽だった事がはっきりした。やはりこれらの法制は、我国の平和と安全を今の情勢に見合った方法で保持努力をして参ろうとする趣旨だと言う事だ。立憲制度を考える上で疑問ありとの見方も一定理解はできるが、それならば、特に国民の権利義務条項などで大矛盾の目立つ日本国憲法を、些かの見直しや検討もせず放置して来た方こそ異常ではないか?と問いたくもなるものだ。
又、日本国憲法は、国際協調主義を謳った前文中で「どの国家も、自国の事にのみ専念してはならず、他国との友好協調も尊重すべき」である事を明示している。安保関連法制は、その事に具体的に応える1つの道筋なのである。この法制に反対する左派野党をメインとする諸勢力は、日本国憲法中、自勢力に好都合な所ばかりを強調してその成立を妨げ、(安保法制の)同憲法に近い所は(まるで過激派や一部の凶悪犯の様に)黙秘を決め込んでいる。これでは話にならない。問答無用だ。
日中韓会談の直前、委員長が訪韓したと言われる日本共産党にしても然りだ。「お前、一体何しに行ったんだよ?」と言うのが素直な所だろう。安保関連法制成立に強行に反対した若手グループ「シールズ」も実は同党の傀儡(かいらい)らしいと言われるし、大人数による反対行動が、今思うと妙に組織だっていたのも、陰で同党の暗躍でもあったのかと勘繰りたくなる。想像で記事にするのは不適当は分っているが、日共委員長は、慰安婦問題で我国が国家的謝罪をする様仕向ける位の発言はした様だ。いいか、この問題は、一人我国だけが関与した事ではないのだ。その史実に背いて、一方的に不適当な謝罪などとは、此度の日中韓会談の妨害工作と見られても仕方あるまい。安保関連法制成立の前後、反対派若手グループの代表とその家族は、ネットて殺害予告を受けた由。勿論、許容される事ではないし、俺も大いに遺憾とは思う。しかしここで発信者に申したいのは、標的にした若手グループの背後を良く調べ、そこに対してもっと合法で効果的な発信をすべきではなかったのかと言う事だ。報道メディアの怠慢もあって、一般に広く知られていないのが残念なのだが、日本共産党は、戦後ずっと破壊活動防止法に定める要監視団体なのだ。つまり、武力で社会のあり様を変えようとする危険意図を持つ集団と見られているのだ。その動かぬ事実を的確に捉え、信念を持って世に発するべきだった。この殺害予告が支持できないのは、そうした誤った手段による所も大きい。世の中を変えたいと思わば、やはり我々国民市民レベルでも、文化レベルを上げる必要があると言う事でしょう。そしてそれは、左派野党と反日メディア(一部外国スパイの可能性もある)によって仕組まれたとされる、安保法制反対行動を冷静な目で見、与しない力を養う事にも繋がるだろう。
今回画像は一昨年の秋、新潟・福島県境で地元知人と共に迎えた、会津へ向かう蒸機列車の模様。今月も、後1回その勇姿を追う事ができたらとも思う。
これもいつも申す事だが、蒸機の進む様を見るたびに「変わらずにいる為には、変わって行かなければならない」の言葉の意味を思い返している所。
動力の蒸気は昔と同じだが、安全、通信などの装置は最新の機器に更新されているのだ。それもこれも「時代が変わっても走り続けられる様に」する為の当然の措置だろう。日本国憲法だって形は違っても同じ事。国是たる平和条項を大筋で守りながら、必要な見直しがされるのは当然の事でしょう。
法律は、宗教ではありません。永世変わらぬ聖典と同じ目で見てはならないのです。そうした事共を区別して見る目を持つ事も「文化」の力でしょう。