世の中には、何事に対しても事なかれ主義の人と、事あれ主義の人がいる。
事なかれ主義の人は何事に対しても現状維持を望み、事あれ主義の人は改革を望む。
アタクシは一貫して事あれ主義タイプなので、何事にも現状維持を拒み騒ぎを引き起こし、物議を醸そうと試みる。
今回は「うな重は現状のままでいいのか」問題を提案して一騒ぎしたい。
この度の衆議院議員選挙とは一切関係ないのであしからず。
うなぎの名店、大はかや
現状のうな重は、重箱にゴハンを敷き詰め、その上に鰻の蒲焼を四つに切って並べてのせてある。
この「四つに切って」のところに問題はないか。
尾頭がない
それがどうかしたのか、と人々は問うであろうが、ここのところで騒ぎを起こしたい。
日本人は、こと魚になるとまるごと一匹、という美学に目覚める傾向がある。
そして切り身を軽蔑する。
たとえば相撲の世界。
優勝した力士はまるごと一匹の鯛を高く上げて喜びを表す。
おめでたい席なら必ず尾頭付き。
定食屋のサンマ定食といえども、皿の上に長々とまるごと一匹。
しかるにうな重の鰻はどうか
はるかに格下のサンマでさえ、皿の上にまるごと一匹悠々とその身を横たえているというのに、うな重は当人の意向も聞かずに、有無を言わせずちょん切られている。
まるごと一匹の美学から言ってこれは明らかにおかしい。
うな重の蒲焼こそ、その地位その値段から考えても、当然まるごと一匹でなければならないはずだ、
事なかれ主義の人はここでこう言うに違いない。
「鰻はホラ、うんと長いからまるごと一匹そのまんまじゃ重箱に入りきらないじゃないの」
ということは、重箱に合わせるために切断したということ?
そういうのを本末転倒というのだ。
サンマでさえサンマの長さに合わせた皿がある。
今や権勢をふるう鰻に、本人専用の器がないというほうがおかしい。
鰻の長さに合わせた、本人専用の重箱を作ればよいだけの話ではないのか。
これまでのうな重はどう見ても「押し込まれている」という窮屈感はまぬかれない。
ここでまるごと一匹うな重の全体像を思い起こしてみましょう。
まるごと一匹であれば、何というのびのび、何という堂々、何という風格。
うな重は和食の重鎮、値段から言えば和食の大代表と言ってもいい存在である。
今からでも遅くない。
これからのうな重は間違っても切断してはならないのだ。
これから全国の鰻屋が一斉にまるごと一匹用の重箱を新しく注文すれば、日本のGDPの上昇にも少なからず影響があるはずだ。
ここでただ一つ問題がある。
うな重のほうはこれで解決したことになるが、うな丼のほうはどうなるのか。
横に長い丼となると、作るの難しいぞ。
う~ん、困った。