
米国は世界第一位の経済大国でありながら、先進国で唯一公的健康保険制度を持たない国である。国民は高額な医療費に対して民間の医療保険で備えるしかないが、国民の6人に一人は無保険で、毎年1.8万人が治療を受けられず死んで行くと言う。問題はそれだけに留まらない。「医療保険」さえ米国では当てにならないのだ。本作はその問題点をレポート。
米国の医療体制に見捨てられた人々

(中央のマイケル・ムーア監督と共にキューバへと向かいます)
保険会社は、「治療は不要」と診断した医師に対し「(保険会社の)支出を減らした」と報奨金を与える一方で、加入者には難癖をつけて保険料の支払いを拒否。政治家には多額の献金で自社に都合の良い法律を作らせ、挙げ句は保険会社の手先となった政治家が公的医療保険制度の成立を「社会主義への第一歩だ」と阻止する。まさに金の亡者が、国民の命をないがしろにしている。愛国者マイケル・ムーア(彼は体制側の痛いところを衝いているだけで、その実、米国を愛して止まない愛国者だよね)は、そうした米国の現状を正すべく、彼なりの手法で金の亡者らを糾弾する。
『ボーリング・フォー・コロンバイン』『華氏911』と見て来たが、本作が一番胸にズシンと来た。なぜなら米国の無慈悲な医療制度を通して見えてくるのは、人間の尊厳を巡る問題だからだ。人の命さえ金次第という資本主義の在り方は果たして正しいのか?許されるものなのか?国民の必要最低限の権利保護の問題において、資本主義だの社会主義だのとイデオロギーを持ち出すのはいかがなものか?それこそ原理主義的な見方が本質を見誤らせているとしか思えない(殊更イデオロギーを持ち出すのは、単に既得権益を守りたいが為の方便なのかもしれない)。
その米国とは対照的なパラダイスとして描かれているのが英国、フランス、キューバ、そして隣国のカナダである。これらの国々では、医者は「患者を治療する」という自らの職務を全うし、国民は生命の危険も生活不安も感じることなく、必要十分な医療サービスを受け人生を謳歌している。その描写は”礼賛一辺倒”でいささかキレイゴト過ぎるきらいはあるが、これくらい彼我の違いを際立たせなければ、(非支配階級の)米国民は自分達の置かれた境遇の不合理性に気づかないのではないか。所謂マイケル・ムーア流のショック療法なんだろう。

「英国はVAT(付加価値税)率が高いから、これだけの社会保障が可能なのだ」との反論が出るかもしれないが、どんなに高い税率でもそれが正当に国民に還元されるのであれば国民は納得するはずである。一方、日本では納めた税金が湯水の如く無駄遣いされて国民に正当に還元されないから、財源不足を理由に税率アップと言われても国民は納得が行かないのだ。
ところで、最近気になるのが平日の昼間にやたらと多い医療保険のCM。平日の日中に在宅でTVを見ている老人を主なターゲット(他に専業主婦など→私だよ!)に「保険で安心」を売り込んでいる。それが殆ど外資の保険会社なのだ。本作『SICKO』を見終わってからは、この状況に何だか不気味な予兆を感じた。これは何を意味するのか?何の前触れなのか?
今年から我が国は団塊世代の大量退職時代を迎えている(所謂2007年問題ですね)。1000万人はいると推定される団塊世代が社会保険料を支払う側から受給する側へ。「年金」「健康保険」と言った社会保障制度は、増える支出に収入が追いつかない、本格的な少子高齢化社会の到来で破綻寸前だ。特に老年層の増加に伴う医療費増大を踏まえて、政府は医療費の大幅削減、介護医療の民間委託を積極的に進めている。それによって国民個々の医療費負担は増え、医療や介護サービスの地域間&階層間格差拡大、或いは質の低下が危ぶまれている。その行き着く先には何が待ち受けているのか?…本作にはその一端が描かれていると感じた。
そんな折も折、奈良県では昨年に引き続き、救急患者のたらい回しで死亡事故が起きた。昨年は妊婦だったが、今度は胎児である。奈良県の問題はひとり奈良県だけの問題ではなく、医師の都市部への偏在など、国の医療体制そのものの問題でもある。「命に地域間格差があってはならない」というのが、公的医療制度の根幹ではないか?増大する一方の医療費も「一切対処のしようがない問題」というわけではなく、過日テレビで紹介されていた夕張市や、本作で取り上げられたキューバにおける予防医学の見地に立った医療の実践により削減が可能なはずだ。
何事も諦めてはいけないのだ。自身に悪い点があれば、他者の良いところを謙虚に見習えば良い。マイケル・ムーアも本作でそのような主旨のことを述べていたのが印象的だった。
◆参考サイト:日本の医療を正しく理解してもらうために
