ユニークな外観の国立国際美術館(参考写真)
天王寺動物園を満喫した後、私達はJR天王寺駅からJR大阪環状線(東日本で言えば、山手線のような路線ですね)に乗って、一路福島駅へと向かいました。約20分(170円)で到着。そこから、徒歩15分ほどで中之島にある国立国際美術館へ。
実はこちらも初訪問。国立国際美術館自体は、1977年に、主に現代美術の作品を収集・保管・展示する目的で開設され、当初は大阪万博に際して建設された万博美術館を施設として活用していたようです。
しかし、コレクションの充実に伴い収蔵庫が手狭になったことや施設の老朽化などの理由から、2004年に現在の中之島西部地区に場所を移して、装いも新たに開館したらしい。
冒頭の写真で一目瞭然ですが、ステンレス鋼材を多用した外観がとにかくユニーク。鳥の翼を広げた(或いは蝶の羽?の)ように見えなくもないのですが、パンフの解説によれば「竹の生命力と現代美術の発展・成長をイメージしたオブジェ」とのこと。しかも驚いたことに、地上部分はまさに巨大なオブジェとして屹立しているのみで、展示施設等は完全に地下に設置された、地上1階、地下3階建て構造となっているのです。
設計を手がけたのは、アルゼンチン出身で、今や米国を拠点に世界的に活躍するシーザー・ペリ氏(シーザー・ペリ&アソシエーツ ジャパン(株))。身近なところでは、羽田空港の第2ターミナルも氏の設計事務所が手がけたようです。そう言えば、大胆な空間の使い方が両者には共通するような…
この美術館、大阪市立科学館と隣接しており、一見すると科学館の付属施設と間違われそうなのはご愛嬌しかし、まあ…入館すると、1階はインフォメーションの窓口と下階に通じるエスカレータ-とエレベーターがあるのみなので、やっぱり初めての訪問なら戸惑うに違いない。「び、美術館はどこ?て、展示室はどこ?」って
1階から地下1階に下るエスカレーターにて
間口は狭いですが、地下に降りれば、そこには予想以上に広い空間が展開しています。
所謂エントランスホールで、入場券売り場を中央に据え、仕切りの殆どない大空間の中に、ミュージアムショップ、レストラン、情報コーナー、ロッカー室、トイレ、講堂等が配置されていました(他にキッズルームや授乳室もあるらしい)。
展示室はさらに下った地下2階と3階にそれぞれ2室、計4室あるようです。今回は地下2階の展示室4で開催されていた、美術館の所蔵作品展「コレクション4 現代美術の一世紀」(2011/3/5-6/5)を鑑賞しました。変貌著しい20世紀以降の現代美術を、戦後ヨーロッパ美術を起点に、アメリカ美術、ポップアート、多様化する21世紀美術、彫刻作品と言うカテゴリーで展観する試みでした。
私は現代美術には本当に疎くて、作品を的確に評する言葉を持たないのですが、19世紀以前の美術と明らかに違うと感じたのは、例えば作家の目の前にある対象を、作家なりの解釈や表現方法で表現するのではなく、作家の脳内で生み出される概念やイメージを、従来の固定観念や美意識や技法や画材に囚われることなく、自由に作品として表出する制作の在り方でした。ホント、何でもあり、なんですよね。人と違うことしたもん勝ち、とでも言うか…発想勝負と言うか…だから、作品を目の前にして、ただただ面白がる自分がいました。
因みに地下1階と2階を結ぶエスカレーターの脇の壁には、大阪万博の際に大阪ガス館に展示されていたというミロの壁画作品(写真)、天井部分からは地下1階から2階を貫く、赤いペイントの、これまた大きなモビール作品がつり下げられていて、無機質な空間の中に、彩りと華やかさを与え、楽しい雰囲気を醸し出していました。
何ともスッキリとした、洗練された大空間。当然ですが、生活感ありありの我が家とは大違いですまあ、美術館のそうした空間構成をひっくるめての"非日常感"が、美術館に足繁く(?!)通う理由のひとつなんですけれどね。
訪ねたのが金曜日だったので、美術館は開館時間が通常より2時間長く(18時30分まで入館可)、動物園の帰りにも時間的に余裕を持って寄れました。
ここで国立国際美術館が建つ中之島について、ご紹介。中之島は近代以降、大阪の政治・文化・経済の中心地~シビックセンターとしての役割を担っています。 『中之島 今昔(イマ ムカシ)案内』と言うリーフレットの解説(はなこによる割愛と補筆あり)によれば…
堂島川沿いに立つ福沢諭吉ゆかりの碑
元々、堂島川と土佐堀川に挟まれた芦萩の茂る中州だった中之島は、江戸時代の初頭、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に、徳川軍が陣を構えたのが、史料に登場した最初である。
秀吉の城下町建設に伴って整備された船場や天満より遅れて開発されたのが幸いして、中之島は広大な敷地を必要とする蔵屋敷(諸大名が貨幣獲得の為に、領内の米穀その他の物産を貯蔵・販売する為に設けた屋敷で、倉庫と販売事務所とを兼ねた。その多くは大津・大坂・江戸に所在)が立ち並ぶ場所となり、我が国最重要の経済エリアとして発展を遂げた。
明治維新以降は蔵屋敷の廃止に伴い、遺された広大な跡地には中之島公園、日銀大阪支店、大阪府立中之島図書館、大阪市中央公会堂、大阪市役所等の公共施設が集約した。それが呼び水となって数々の商業施設が建ち並び、その後も大型オフィスビルや大阪市立東洋陶磁美術館、大阪市立科学館、大阪国際会議場、そして国立国際美術館等が建設され、現在に至っている。
江戸時代の中之島周辺は学問も盛んだった。土佐堀川の南には、商人の出資によって庶民教育の為、郷学校「懐徳堂」が開かれ、官立の「昌平黌(ショウヘイコウ)」を凌ぐ勢いだった。隣町には、蘭医・緒方洪庵の「適塾」があり、幕末・明治維新に多くの逸材を輩出。「懐徳堂」「適塾」両校の精神は、中之島を発祥とする現在の大阪大学に引き継がれている。
また、府立中之島図書館が住友家の、大阪市立公会堂が岩本栄之助の寄付で建設されたことからも判るように、その発展は民間の力に依るところも大きく、中之島は大阪の活力の源泉とも言うべき場所である。
堂島川沿いには朝日放送の社屋も建っています。その脇に小ぎれいに整備されながらも、ひっそりと佇む2つの石碑があります。それが写真の「福沢諭吉生誕地」と彼の思想体系を著した『学問のススメ』のあまりにも有名な一節「天ハ 人ノ上ニ 人ヲ造ラズ 人ノ下ニ 人ヲ造ラズ」の碑です。
当地にかつて、諭吉の父、福沢百助が仕えていた豊前中津藩の蔵屋敷があり、天保2年(1835)に福沢諭吉は当地で誕生したのでした。しかし、諭吉が1歳8カ月の時に父が急逝し、一家は郷里の中津(今の大分県)に戻ることになるのです。中之島で過ごした歳月は短いながらも、この地に近代日本を代表する思想家・福沢諭吉が誕生したことに、何か因縁めいたものを感じますね。
この後、福島駅周辺で夕飯を食べる場所を探したのですが適当なところが見つからず(旅行前に予めネットでリサーチはしたものの、今ひとつピンと来る店がなく…唯一食指の動いた有名な洋食屋は既に予約で満杯)、結局、何も食べずに当夜の宿泊場所、ユニバーサルシティへと向かったのでした。
天王寺動物園を満喫した後、私達はJR天王寺駅からJR大阪環状線(東日本で言えば、山手線のような路線ですね)に乗って、一路福島駅へと向かいました。約20分(170円)で到着。そこから、徒歩15分ほどで中之島にある国立国際美術館へ。
実はこちらも初訪問。国立国際美術館自体は、1977年に、主に現代美術の作品を収集・保管・展示する目的で開設され、当初は大阪万博に際して建設された万博美術館を施設として活用していたようです。
しかし、コレクションの充実に伴い収蔵庫が手狭になったことや施設の老朽化などの理由から、2004年に現在の中之島西部地区に場所を移して、装いも新たに開館したらしい。
冒頭の写真で一目瞭然ですが、ステンレス鋼材を多用した外観がとにかくユニーク。鳥の翼を広げた(或いは蝶の羽?の)ように見えなくもないのですが、パンフの解説によれば「竹の生命力と現代美術の発展・成長をイメージしたオブジェ」とのこと。しかも驚いたことに、地上部分はまさに巨大なオブジェとして屹立しているのみで、展示施設等は完全に地下に設置された、地上1階、地下3階建て構造となっているのです。
設計を手がけたのは、アルゼンチン出身で、今や米国を拠点に世界的に活躍するシーザー・ペリ氏(シーザー・ペリ&アソシエーツ ジャパン(株))。身近なところでは、羽田空港の第2ターミナルも氏の設計事務所が手がけたようです。そう言えば、大胆な空間の使い方が両者には共通するような…
この美術館、大阪市立科学館と隣接しており、一見すると科学館の付属施設と間違われそうなのはご愛嬌しかし、まあ…入館すると、1階はインフォメーションの窓口と下階に通じるエスカレータ-とエレベーターがあるのみなので、やっぱり初めての訪問なら戸惑うに違いない。「び、美術館はどこ?て、展示室はどこ?」って
1階から地下1階に下るエスカレーターにて
間口は狭いですが、地下に降りれば、そこには予想以上に広い空間が展開しています。
所謂エントランスホールで、入場券売り場を中央に据え、仕切りの殆どない大空間の中に、ミュージアムショップ、レストラン、情報コーナー、ロッカー室、トイレ、講堂等が配置されていました(他にキッズルームや授乳室もあるらしい)。
展示室はさらに下った地下2階と3階にそれぞれ2室、計4室あるようです。今回は地下2階の展示室4で開催されていた、美術館の所蔵作品展「コレクション4 現代美術の一世紀」(2011/3/5-6/5)を鑑賞しました。変貌著しい20世紀以降の現代美術を、戦後ヨーロッパ美術を起点に、アメリカ美術、ポップアート、多様化する21世紀美術、彫刻作品と言うカテゴリーで展観する試みでした。
私は現代美術には本当に疎くて、作品を的確に評する言葉を持たないのですが、19世紀以前の美術と明らかに違うと感じたのは、例えば作家の目の前にある対象を、作家なりの解釈や表現方法で表現するのではなく、作家の脳内で生み出される概念やイメージを、従来の固定観念や美意識や技法や画材に囚われることなく、自由に作品として表出する制作の在り方でした。ホント、何でもあり、なんですよね。人と違うことしたもん勝ち、とでも言うか…発想勝負と言うか…だから、作品を目の前にして、ただただ面白がる自分がいました。
因みに地下1階と2階を結ぶエスカレーターの脇の壁には、大阪万博の際に大阪ガス館に展示されていたというミロの壁画作品(写真)、天井部分からは地下1階から2階を貫く、赤いペイントの、これまた大きなモビール作品がつり下げられていて、無機質な空間の中に、彩りと華やかさを与え、楽しい雰囲気を醸し出していました。
何ともスッキリとした、洗練された大空間。当然ですが、生活感ありありの我が家とは大違いですまあ、美術館のそうした空間構成をひっくるめての"非日常感"が、美術館に足繁く(?!)通う理由のひとつなんですけれどね。
訪ねたのが金曜日だったので、美術館は開館時間が通常より2時間長く(18時30分まで入館可)、動物園の帰りにも時間的に余裕を持って寄れました。
ここで国立国際美術館が建つ中之島について、ご紹介。中之島は近代以降、大阪の政治・文化・経済の中心地~シビックセンターとしての役割を担っています。 『中之島 今昔(イマ ムカシ)案内』と言うリーフレットの解説(はなこによる割愛と補筆あり)によれば…
堂島川沿いに立つ福沢諭吉ゆかりの碑
元々、堂島川と土佐堀川に挟まれた芦萩の茂る中州だった中之島は、江戸時代の初頭、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に、徳川軍が陣を構えたのが、史料に登場した最初である。
秀吉の城下町建設に伴って整備された船場や天満より遅れて開発されたのが幸いして、中之島は広大な敷地を必要とする蔵屋敷(諸大名が貨幣獲得の為に、領内の米穀その他の物産を貯蔵・販売する為に設けた屋敷で、倉庫と販売事務所とを兼ねた。その多くは大津・大坂・江戸に所在)が立ち並ぶ場所となり、我が国最重要の経済エリアとして発展を遂げた。
明治維新以降は蔵屋敷の廃止に伴い、遺された広大な跡地には中之島公園、日銀大阪支店、大阪府立中之島図書館、大阪市中央公会堂、大阪市役所等の公共施設が集約した。それが呼び水となって数々の商業施設が建ち並び、その後も大型オフィスビルや大阪市立東洋陶磁美術館、大阪市立科学館、大阪国際会議場、そして国立国際美術館等が建設され、現在に至っている。
江戸時代の中之島周辺は学問も盛んだった。土佐堀川の南には、商人の出資によって庶民教育の為、郷学校「懐徳堂」が開かれ、官立の「昌平黌(ショウヘイコウ)」を凌ぐ勢いだった。隣町には、蘭医・緒方洪庵の「適塾」があり、幕末・明治維新に多くの逸材を輩出。「懐徳堂」「適塾」両校の精神は、中之島を発祥とする現在の大阪大学に引き継がれている。
また、府立中之島図書館が住友家の、大阪市立公会堂が岩本栄之助の寄付で建設されたことからも判るように、その発展は民間の力に依るところも大きく、中之島は大阪の活力の源泉とも言うべき場所である。
堂島川沿いには朝日放送の社屋も建っています。その脇に小ぎれいに整備されながらも、ひっそりと佇む2つの石碑があります。それが写真の「福沢諭吉生誕地」と彼の思想体系を著した『学問のススメ』のあまりにも有名な一節「天ハ 人ノ上ニ 人ヲ造ラズ 人ノ下ニ 人ヲ造ラズ」の碑です。
当地にかつて、諭吉の父、福沢百助が仕えていた豊前中津藩の蔵屋敷があり、天保2年(1835)に福沢諭吉は当地で誕生したのでした。しかし、諭吉が1歳8カ月の時に父が急逝し、一家は郷里の中津(今の大分県)に戻ることになるのです。中之島で過ごした歳月は短いながらも、この地に近代日本を代表する思想家・福沢諭吉が誕生したことに、何か因縁めいたものを感じますね。
この後、福島駅周辺で夕飯を食べる場所を探したのですが適当なところが見つからず(旅行前に予めネットでリサーチはしたものの、今ひとつピンと来る店がなく…唯一食指の動いた有名な洋食屋は既に予約で満杯)、結局、何も食べずに当夜の宿泊場所、ユニバーサルシティへと向かったのでした。