「――武蔵っ」
「…………」
「武蔵っ!」
二度いった。
沖鳴りが響いてくる。二人の足もとにも潮が騒いでいた。巌流は、答えない相手に対して、勢い声を張らないでいられなかった。
「怯れたか。策か。いずれにしても卑怯と見たぞ。――約束の刻限は疾く過ぎて、もう一刻の余も経つ。巌流は約を違えず、最前からこれにて待ちかねていた」
「…………」
「一乗寺下り松の時といい、三十三間堂の折といい、常に、故意に約束の刻をたがえて、敵の虚を突くことは、そもそも、汝のよく用いる兵法の手癖だ。――しかし、きょうはその手にのる巌流でもない。末代もの嗤いのたねとならぬよう潔く終るものと心支度して来い。――いざ来いっ、武蔵!」
以上は吉川英治『宮本武蔵』の名調子だ。
2016年12月15日、日本の宰相・安倍晋三氏が故郷と称する山口県・長門市で(衆議院議員・安倍晋三氏の選挙区は山口県第4区で、長門市と下関市で構成される。巌流島は下関市にある)、ロシアの棟梁ウラジーミル・プーチン氏を迎えて会談した。プーチン大統領は約束の時間より2時間ほど遅れて会場に到着した。
「●△■×☆!!!?」と晋三が言い放った。
「◎○▼▲&&*¥?」。ウラジーミルが傲然と応じた。
というのは冗談だが、12月16日の朝刊各紙を見るかぎり領土問題では何の進展もなかったようである。ただ、衆議院議員・安倍晋三のさらなる選挙地盤固めには役だった。日本から経済協力の約束を引き出した大統領・プーチンも権力の基盤をある程度固めたことだろう。
12月16日午後の首相官邸での共同記者会見で、安倍首相は冒頭の発言でプーチン氏を「ウラジーミル」と呼んだ。ロシア人はよほど親しい仲にならないと名前で呼び合わない。プーチン氏を親しくよぶ場合はウラジーミルでなくてワロージャである。敬意を込める場合は「ウラジーミル・ウラジーミロビッチ」となる。ロシアの小説を読んだことのある人ならだれでも知っている。安倍発言は領土問題に相当の時間を割いた。いっぽうのプーチン大統領は冒頭発言でまず、「シンゾー」ではなく「安倍首相」と呼んで、なれなれしい日本国首相を軽くいなしたうえ、領土問題にはほとんど触れなかった。
戦争で奪われた領土は戦争でしか取り返せないと言われる。ヨーロッパの歴史を見るとそうした例が沢山ある。ただ、19世紀にロシアが植民地アラスカをアメリカ合衆国に平和裡に売り渡した例がある。いつの日かロシアが窮して、ロシア側から北方領土返還と何かを取引したいと言い出すまで、気長に待つしかない――ロシアより先に日本が窮する可能性も大いにあるが。それまでは、領土問題などないと主張するロシアに対して、領土問題は存在すると日本が言い続けるしかない。
(2016.12.16 花崎泰雄)