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news commentary

病める宰相

2020-09-09 23:38:00 | 政治

最初は悲劇、二度目は茶番、とマルクスは書いた。

正確に言えば次のようになる――世界史的な大事件や大人物は二度あらわれるとヘーゲルは言ったが、一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と書き添えるのをヘーゲルは忘れた。『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』の冒頭にそんなことをマルクスは書いている。

世界史的な事件でも大人物でもないが、日本の“永田町政局史”の中で、マルクスのこの御託宣を演じて見せたのが安倍晋三・日本国首相(2020年9月9日現在)である。

安倍首相は2007年9月12日に一度目の辞意を表明し、首相の座をおりている。政治とカネをめぐる閣僚らの不祥事、年金記録問題が起きて、2007年7月の参院選で自民党が惨敗するなどの逆境に立たされた。

この時の辞任表明にあたって、安倍氏は持病の潰瘍性大腸炎には触れなかった。安倍氏は辞意表明の翌日の9月13日に入院、9月24日に入院先で記者会見を開き、体調の悪化によってこのままでは総理としての責任を全うし続けることはできないと辞任を決断した、と理由を語った。

周恩来氏は1976年に国務院総理(首相)在職のまま死去した。

元フランス大統領のフランソワ・ミッテラン氏は1995年に前立腺がんで死去した。

周恩来氏は毛沢東に対して忠実にふるまい、同時に、中国の将来を睨んで毛沢東路線の行き過ぎの調整にあたった。文化大革命で揺れる中国のかじ取り役をこなした。重篤な病をおして、病院から指示を出していたそうである。壮絶な死であった。

ミッテラン氏が死去したのは退任から8か月後の1996年の事だった。のちに公になったことだが、ミッテラン氏は1981年から1995年の任期の早い時期に前立腺がんを発症し、ひそかに治療を続けながら大統領職を務めていた。2期目の終りごろには大統領の職務遂行が困難な状況だったといわれている。ミッテラン氏が生命を賭して仕事を続けなければならないほどの課題があの頃のフランスにあったのだろうか。あるいは、ミッテラン氏にとっては権力者の座にい続けることが命より大切なことだったのだろうか。

さて、安倍晋三首相だが、彼は2020年8月28日二度目の辞任を表明した。辞任の理由は潰瘍性大腸炎が悪化し、国政に支障が生じるのを避けたい、ということであった。2007年の辞任のさいは、病気であったことは数日間語られぬままだった。2度目の辞任あたっては、検査のために病院へ行く姿をあらかじめメディアに報じさせ、潰瘍性大腸炎再発を辞任の理由の前面に持ち出した。

なぜ、安倍氏は二度目の辞任にあたって潰瘍性大腸炎再発を喧伝したのだろうか。安倍氏は首相の座にとどまることにうんざりし、一方で、無責任な政権投げ出しの批判を避けるために、潰瘍性大腸炎を理由にしたのである。評判最悪だったいわゆるアベノマスクを、安倍首相は執拗なまでに着用し続けた。他の閣僚はアベノマスクとは異なる大判のマスクを使っていた。テレビで見る限り、アベノマスクを使っていたのは首相以外には、少数の熱烈な首相取り巻きだけだった。

ところが、辞任表明の少しまえから、安倍首相はこだわりのアベノマスクの使用をやめた。首相官邸に入る安倍氏がアベノマスクに代えて普通の大型のマスクを使っている姿を、テレビのニュースカメラが映し出すようになった。

今にして思えば、ちょうどあのころアベノツッパリの腰が折れたのだろう。

第2次安倍政権も閣僚や与党議員の不祥事が相次ぎ、さらに加えて、森友問題、加計問題、桜を見る会をめぐる安倍氏自身の疑惑が取りざたされた。安倍氏を擁護しようとする行政官庁の首相に対する忖度ぶりが世間の評判になった。

安倍首相は職を投げ出したくなっていたと想像される。彼は何か志があって国会議員になったわけでも、首相になったわけでなく、家業の議員職を継いだだけの身だった。首相のポストへの執着も義務感も、ミッテラン氏や周恩来氏ほど強烈ではなかった。一度目の苦渋を飲まされた潰瘍性大腸炎が、二度目は政権投げ出しの格好の隠れ蓑になった。

辞任表明後も9月16日の臨時国会まで、彼は首相の座にとどまる。余裕しゃくしゃく、首相の仕事をこなしている。9日朝刊の「首相動静」をみると、8日は朝10時前に官邸に入り、分刻みのスケジュールで大勢の人と会い、午後6時まで官邸で働いていた。

(2020.9.10 花崎泰雄)

 

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