毎日新聞が安倍首相陣表明後の9月8日、安倍内閣支持率を世論調査で調べた。内閣支持率は50%に跳ね上がった。前回8月22日の辞任表明前の34%から16ポイント急増した。
安倍氏がいる内閣よりも、安倍氏がいなくなる内閣を支持する、という辛辣な冗談なのだろうか。死者を鞭うたない東洋古来の道徳観がもたらしたものだろうか。政治家がよく使う「禊ぎ」を辞めてゆく安倍氏に与えたのだろうか。「いずれにせよ」は安倍氏をはじめとする安倍内閣の面々の口癖だったが、いずれにせよ、日本の有権者はそのような考え方をするのである。日本の政治家はそのような日本の有権者の中を遊弋している。
「政治はいまや立身出世の方便である」といったのは、イギリスのサミュエル・ジョンソンである。安倍氏の後任総裁に菅氏を選んだ自民党内の選出過程は、一般の会社の役員選出風景と変わることがなかった。総裁選に出た3人の自民党議員の中で、政治のグランド・デザインを語ることが最も少なかった菅氏が圧倒的な勝利を収めた。自民党国会議員の集団は日本で最も根深いムラ型政治の体質を引きずる永田町のクラスターである。自民党国会議員は大臣の椅子を目指して派閥に所属し、大臣や党の役職を経ていつの日か総理大臣のポストを手に入れようと、虎視眈々、機会をうかがっている。それが彼らにとっては自分らしく生きることなのである。
安倍氏が掲げた「美しい日本」の旗も、ほぼ居ぬきのかたちで内閣をひきつぐ菅氏が受け継ぐのであろう。「きれいはきたない」「美しいは醜い」――国家だの、国だのと叫び散らす政治家は油断ならない。なぜなら、サミュエル・ジョンソンに言わせると「愛国主義は悪党の最後のよりどころ」であるからだ。
副総理として菅内閣に残留した麻生氏の悪党ぶりはものすごい。彼は2013年、当時の新聞記事によるとこんな風な発言をしている。
ヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、出てきた。ドイツ国民がヒトラーを選んだ。ワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下でヒトラーが出てきた。憲法はよくても、そういうことがありうる……憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね……
翌2014年安倍内閣は、内閣法制局を人事を通じてねじふせ、それまで集団的自衛権は憲法に違反するとしてきた法制局見解を「合憲」に変更させた。
そういう人たちが2012年の暮れからこの国の政治を牛耳ってきた。したがって、功績よりも弊害が目立った。
国連関連団体が毎年発表している「世界幸福度ランキング」によると、2019年の「美しい国」日本の住人たちの幸福度は104か国中ランキング58位だった。上位には例によって、フィンランドを筆頭に北欧諸国とオセアニアのニュージーランドやオーストラリアが入った。日本は2015年46位、2016年53位、2017年51位、2018年54位、と幸福度世界で中位をさまよっている国である。
幸せをもたらすのは、もちろん金だけではないが、極貧の中でも幸せを感じることができのは、少数の哲人だけだろう。日本の1人当りGDPは2010年の統計では世界第2位で35,534ドルだった。安倍政権が続く中、2018年には39,304ドルで世界26位までに後退した。同年シンガポール64,574ドル、オーストラリア51,334ドル、香港48,451ドル、ドイツ46,667ドル、カナダ46,290ドル。日本が足踏みするうちに、多少の幸運と多少の才覚・工夫と努力で、諸国が日本を追い越して行った。
だが、安倍政権は安倍のミックスは成果をあげたと誇らしげに言いつのった。安倍政権最後の日の9月16日、朝日新聞の「天声人語」は「景気対策に限れば安倍政権は満点には遠いが及第点だったと筆者は考える」と書いた。一方で、13面のオピニオンのページでは原真人記者が「アベノミクスを経済界がもてはやしたのは、円安・株高・堅調な雇用のせいだった」と書いた。だが、円安はドル高とユーロ高が急速に進んだ結果の裏返しにすぎず、雇用が堅調なのはここ10年で生産年齢人口が640万人減ったせいであり、株高は日銀のマイナス金利政策と、上場投資信託の巨額買い入れが相場を支えただけである。アベノミクスは雨乞いのようなものではなかったか。そのおかげで「政府の借金はもはや一朝一夕には解消できないほどに膨らみあがっている。その半分近くは、日銀が輪転機をぐるぐる回してお札を刷ってしのいでいる」ど同記者は書いた。
株価は市井の人々の経済生活と関連が薄い。ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニストでノーベル経済学賞受賞者であるポール・クルーグマン氏は最近の同紙に “Gross Domestic Misery Is Rising” という評論を書き、その中で「株式市場は経済ではない。アメリカ人のわずか1パーセントが株式の半分以上を所有し、所得中位以下の人々が持つ株式は市場の0.7パーセントにすぎない」と説明した。雇用もGDPも経済であるが、経済の1点に過ぎない。エコノミストの一部や政治家の多くが忘れているのは、経済はデータでなく人々の暮らしの問題であることを指摘した。
日本証券業協会の2019年のデータによると、2018年度末の個人金融資産残高は1,834兆円で、現金・預金が全体の53.3パーセント、上場株式は5.6パーセントだった。
スーザン・ストレンジが実体経済とは関係なく動くマネー・ゲームをカジノ資本主義と名付け、その金をマッド・マネーと名付けたのは前世紀の終わりごろだった。株価の堅調と人々の堅調な暮らしは連動しない。
実際に人々の暮らしにかかわる指標を見ると、
- 日本の子どもの貧困率は15.7パーセント(2017年のOECD統計)で世界のワースト23位。
- 日本の教育への公的支出は38か国中37位(OECD調査、2020年)
- 日本の男女平等指数は世界135か国中121位。120位はアラブ首長国連邦。中国106位。韓国108位。
- 国境なき記者団の2019年調査によると、日本の報道の自由度は世界72位だった。自由度の上位はノルウェー、フィンランドなどの北欧諸国が占め、アジアでは韓国が42位、台湾が43位である。順位はともかく、深刻なのは日本の自由度のランキングが年を追って落ちていることである。2010年に世界11位だったランキングが、安倍政権の2014年に59位に落ち、2015年には61位。2019年には72位まで落ちた。プレスには民主主義をまもり、政治的腐敗をかぎつける番犬役が期待されるのだが、プレスの牙を抜き「歯なしの番犬」に仕立てようとする動きが背後にある。
安倍政権の7年余りの間、日本人の暮らしの質は劣化し続けた。あらゆることを「問題ない。問題ない」と、理由を説明することなく退けてきた菅氏が率いる自民党政権に、先にあげた日本の長期劣化指標を巻き返す能力があるか。期待できる要素はどこにもない。
(2020.9.17 花崎泰雄)