1968年8月20日の事だった。ソ連軍を中心にした東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの軍からなるワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアの首都プラハに侵攻した。当時のチェコスロバキアではドプチェク第1書記が「人間の顔をした社会主義」を提唱して政治の自由化を進めていた。その自由化路線を阻止するのが目的だった。
1965年から始まったソ連共産党のスターリン批判の高まりの中で、チェコスロバキアではソ連に近いノボトニーに代わってドプチェクが自由化を推し進めていた。のちに「プラハの春」と呼ばれるようになったこの政治運動には多くの知識人が賛同していた。
チェコスロバキアの自由化路線が加速すると、やがてワルシャワ条約機構からチェコスロバキアが離脱して西ヨーロッパの勢力に加担するのではないかとソ連は心配した。そこで、ワルシャワ条約機構軍をプラハに送り込んで、ドプチェクを排除し、フサークをチェコスロバキア共産党の第1書記にすえた。
チェコスロバキア侵攻を正当化する理由としてソ連が掲げたのが「制限主権論」という理屈だった。「ブレジネフ・ドクトリン」とも呼ばれた。社会主義に敵対する内外の勢力がある社会主義国を資本主義体制の方向へ捻じ曲げようとする場合、その国の社会主義の大義の脅威が発生した場合、社会主義共同体全体に対する安全保障上の脅威が生じた場合、これらは単に当事国だけの問題ではなく全社会主義諸国の共通の問題であり憂慮すべきことがらとなる。社会主義の大義は国家主権を超える、というのがブレジネフ・ドクトリンの要旨である、と当時のジャーナリズムは伝えた。
第2次大戦終了後に、ヨーロッパは2つの陣営に分断され、それぞれ相手に対する警戒を怠らず、冷戦を持続させた。米ソの核戦力を背景にして、米国は西ヨーロッパ諸国と北大西洋条約機構(NATO)を1949年に結成した。対抗して1955年にソ連が東ヨーロッパ諸国とワルシャワ条約機構組織した。
ソ連はスターリン時代の1939年にフィンランドに攻め込み、フィンランドに領土の一部を割譲させた。続いて1940年にはリトアニア、ラトビア、エストニアを併合した。第2次大戦後に米ソ冷戦の時代が始まった。米国はベトナム戦争の泥沼からなんとか抜け出したが、ソ連はアフガニスタン紛争のあと、ゴルバチョフ時代の改革路線を契機にソ連邦崩壊に行きついた。
ワルシャワ条約機構は1992年に解散。加盟のヨーロッパ諸国のすべてがこれまでにNATOの加盟国になった。かつては西側諸国にたいする防波堤だったワルシャワ条約機構消え、ロシアの首都モスクワのすぐ近くまでNATOの勢力圏が迫った。
ベトナム戦争を戦う理由として米国はいわゆるドミノ理論――ベトナムで共産主義を食い止めないと、タイが共産化し、マレーシア、インドネシアなどが次々に共産圏に入る――を声高に唱えた。いまでは、共産主義のドミノ理論は冷戦が生んだ神経症的な神話にすぎないと多くの人が考えるようになった。現在のヨーロッパではアメリカ風の資本主義や自由主義が、かつての東欧諸国をドミノのように倒し、いまやモスクワに迫っていると、プーチンは認識しているのだろう。
ウクライナのネオナチがロシア系住民を迫害しているのでその救済のためにウクライナにロシア軍を派遣した、というプーチンの説明は面妖のきわみだが、「ネオナチ」を「NATO派」、「ロシア系住民」を「ロシア」と言い換えると意味は通じる。ロシアの兄弟国であるウクライナで西欧崇拝のNATO支持派が力をつけてきた。そこでロシアの救済のためにウクライナのNATO加盟を阻止するのが進攻の目的である。こういう言い方をすれば、1968年のチェコスロバキア侵攻のさい、社会主義を守るためにはチェコスロバキアの主権は制限されうるとブレジネフが考えたように、ロシアを守るためにロシアの兄弟国ウクライナの主権は制限されなければならない、とプーチンは考え、行動した。
(2022.4.20 花崎泰雄)