「○○がまた熱出したって
メール入ったよ」
妻の報告にギクリとした。
生後一年五か月の孫娘が
しょっちゅう熱を出している。
先日
娘に連れられて里帰りしたが、
帰宅してすぐ
熱を出し入院、
点滴を受けたらしい。
「大丈夫やろか?」
「うん。大丈夫、大丈夫。
赤ちゃんの頃は
よく熱を出すのよ。
親が忙しい時を狙ってね」
妻は強い。
四人の子供を育てあげ、
社会に
きっちりと送り出したのだから
当然だろう。
伴侶の私も
同じ条件にあるはずが、
こちらは
いらぬ心配ばかりしている。
男と女の差だと
知人に言われたが、
そうではない気がする。
実は最初に授かった赤ちゃんが、
生後半年も満たないのに、
四十度近い高熱を発して、
新婚生活さなかの
私たちを振り回した。
「母体から引き継いだ免疫も
なくなる頃だから
風邪をひいたのよ。
赤ちゃんの熱は
あまり心配しないでいいって
書いてあるわ」
育児の本から得た
付け焼刃の知識を披露する妻に、
「そうか」と安堵したものの、
赤ちゃんの高熱は続いた。
当時喫茶店を営んでいた。
どちらかが
店を切り盛りする必要があった。
私が仕事を引き受け、
赤ちゃんを抱えた妻は
病院に向かった。
「やっぱり風邪だって。
だからいったでしょ」
戻って報告する妻に
安心を覚えた。
ところが
高熱は一向に治まらない。
まだ喋らない赤ちゃんの口は
赤く腫れあがり、
別の病院へ。
ここも風邪の診断だった。
結局高熱は
一週間近く続いた。
懸命に集めた
知人の情報で得た、
評判のいい病院を頼った。
即入院の診断が出た。
しかも子供の難病を治療する
専門病棟がある日赤へ。
それだけでも
私たち夫婦には
絶望を伴う大事となった。
血液の病気だった。
検査が繰り返される
入院生活は一か月近く。
妻は付き添いで
病院に詰めた。
仕事を終えた深夜に
わが子の病室を見舞う私も
困惑しきりで
甘い新婚生活など
どこかへ吹っ飛んでしまった。
長女は最後の検査で
「後遺症の兆候なし」
と、ようやく退院が認められた。
年子で生まれた長男も
体が弱かった。
よくひきつけ
救急車の世話になったことも。
はらはらさせられたが、
それも何とか乗り越えた。
落ち着いた七年目に
授かった次男は、
ひどいアトピー症状で
通院を重ねた。
額いっぱいのできものが
痘痕になり、
血さえ滲んだ。
「こいつのためや。
店を閉めよう!」
と夫婦の思いは一致、
喫茶店をたたんだ。
紫煙に包まれる店に寝かせ
育てていたからだった。
新たに見つけた仕事は
弁当製造工場。
家族のためと
きつい深夜作業も
苦にならなかった。
その五年後に
妻の希望で産まれた末娘は、
小学生の頃に
難病のひとつと診断された。
過酷な検査と治療を
親子は一緒に耐え抜いた。
いま彼女は
大学生活を楽しんでいる。
子供の苦しみを四人分、
真正面に受け止めて
走り続けた妻に、
もう怖いものはないに違いない。
一方の私は
臆病な性格のせいで、
いまだに
大げさな一喜一憂をしてしまう。
「どうしよう?
また熱出しちゃった」
おろおろする娘に、
妻は冷静に励ます。
「赤ちゃんは大丈夫!
どんな大変な目にあっても、
ほら、
みんな生きているんだから。ね」
妻が口にするのは
自分が守った家族のこと、
子供のことだった。
目の前の娘は、
最も悲惨な入院生活を
強いられた当事者なのだ。
妻の強さ明るさを
娘にくれてやりたいが、
親のあかしは
子供と歩む親が
自分の体験を通じて
手にするものだ。
メール入ったよ」
妻の報告にギクリとした。
生後一年五か月の孫娘が
しょっちゅう熱を出している。
先日
娘に連れられて里帰りしたが、
帰宅してすぐ
熱を出し入院、
点滴を受けたらしい。
「大丈夫やろか?」
「うん。大丈夫、大丈夫。
赤ちゃんの頃は
よく熱を出すのよ。
親が忙しい時を狙ってね」
妻は強い。
四人の子供を育てあげ、
社会に
きっちりと送り出したのだから
当然だろう。
伴侶の私も
同じ条件にあるはずが、
こちらは
いらぬ心配ばかりしている。
男と女の差だと
知人に言われたが、
そうではない気がする。
実は最初に授かった赤ちゃんが、
生後半年も満たないのに、
四十度近い高熱を発して、
新婚生活さなかの
私たちを振り回した。
「母体から引き継いだ免疫も
なくなる頃だから
風邪をひいたのよ。
赤ちゃんの熱は
あまり心配しないでいいって
書いてあるわ」
育児の本から得た
付け焼刃の知識を披露する妻に、
「そうか」と安堵したものの、
赤ちゃんの高熱は続いた。
当時喫茶店を営んでいた。
どちらかが
店を切り盛りする必要があった。
私が仕事を引き受け、
赤ちゃんを抱えた妻は
病院に向かった。
「やっぱり風邪だって。
だからいったでしょ」
戻って報告する妻に
安心を覚えた。
ところが
高熱は一向に治まらない。
まだ喋らない赤ちゃんの口は
赤く腫れあがり、
別の病院へ。
ここも風邪の診断だった。
結局高熱は
一週間近く続いた。
懸命に集めた
知人の情報で得た、
評判のいい病院を頼った。
即入院の診断が出た。
しかも子供の難病を治療する
専門病棟がある日赤へ。
それだけでも
私たち夫婦には
絶望を伴う大事となった。
血液の病気だった。
検査が繰り返される
入院生活は一か月近く。
妻は付き添いで
病院に詰めた。
仕事を終えた深夜に
わが子の病室を見舞う私も
困惑しきりで
甘い新婚生活など
どこかへ吹っ飛んでしまった。
長女は最後の検査で
「後遺症の兆候なし」
と、ようやく退院が認められた。
年子で生まれた長男も
体が弱かった。
よくひきつけ
救急車の世話になったことも。
はらはらさせられたが、
それも何とか乗り越えた。
落ち着いた七年目に
授かった次男は、
ひどいアトピー症状で
通院を重ねた。
額いっぱいのできものが
痘痕になり、
血さえ滲んだ。
「こいつのためや。
店を閉めよう!」
と夫婦の思いは一致、
喫茶店をたたんだ。
紫煙に包まれる店に寝かせ
育てていたからだった。
新たに見つけた仕事は
弁当製造工場。
家族のためと
きつい深夜作業も
苦にならなかった。
その五年後に
妻の希望で産まれた末娘は、
小学生の頃に
難病のひとつと診断された。
過酷な検査と治療を
親子は一緒に耐え抜いた。
いま彼女は
大学生活を楽しんでいる。
子供の苦しみを四人分、
真正面に受け止めて
走り続けた妻に、
もう怖いものはないに違いない。
一方の私は
臆病な性格のせいで、
いまだに
大げさな一喜一憂をしてしまう。
「どうしよう?
また熱出しちゃった」
おろおろする娘に、
妻は冷静に励ます。
「赤ちゃんは大丈夫!
どんな大変な目にあっても、
ほら、
みんな生きているんだから。ね」
妻が口にするのは
自分が守った家族のこと、
子供のことだった。
目の前の娘は、
最も悲惨な入院生活を
強いられた当事者なのだ。
妻の強さ明るさを
娘にくれてやりたいが、
親のあかしは
子供と歩む親が
自分の体験を通じて
手にするものだ。