老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

『インビクタス/負けざる者たち』(2009)

2023-06-15 15:53:39 | 沁みる砂時計
1960 ワールド・イン・ユニオン World In Union
ラグビーワールドカップ公式テーマ曲はホルスト『木星』




There's a dream, I feel So rare, so real
私には大きな夢がある とても大切なすばらしい夢

All the world in union The world as one
すべて国々が結びついて ひとつの世界になること

Gathering together One mind, one heart
あらゆる人々が手をたずさえ ひとつの思い ひとつの心に

Every creed, every color Once joined, never apart
すべての信条 すべての肌の色が 垣根を越えてひとつに集まる

Searching for the best in me I will find what I can be
自らの可能性を探りながら それぞれの力を発揮していく

If I win, lose or draw there's a winner in us all
勝っても負けても引き分けても みんなの心に勝者が宿る

It's the world in union The world as one
世界の国々が互いに結びついて ひとつのゆるぎない世界に

As we climb to reach our destiny A new age has begun
運命をつかもうと努力するなら 新しい時代がひらけていく

We face high mountains Must cross rough seas
険しい山を越えようとも 荒々しい海を渡ろうとも

We must take our place in history and live with dignity
いつか来る輝かしい日のために 誇りを持って進んでいこう

Just to be the best I can sets the goal for every man
持てる力をすべて出しきり ともにゴールを目指すなら

If I win lose or draw It's a victory for all
勝っても負けても引き分けても みんなが勝利を手にする

It's the world in union The world as one
世界の国々が互いに結びついて ひとつのゆるぎない世界に

As we climb to reach our destiny A new age has begun
運命をつかもうと努力するなら 新しい時代がひらけていく

It's the world in union The world as one
世界の国々が互いに結びついて ひとつのゆるぎない世界に

As we climb to reach our destiny A new age has begun
運命をつかもうと努力するなら 新しい時代がひらけていく

映画『インビクタス/負けざる者たち』(2009)

アパルトヘイトによる27年間もの投獄の後、
黒人初の南アフリカ共和国大統領となったネルソン・マンデラは、
依然として人種差別や経済格差が残っていることを痛感する。

誰もが親しめるスポーツを通して、
人々を団結させられると信じたマンデラは、
南アフリカのラグビーチームの立て直し図る。

マンデラの”不屈の精神”はチームを鼓舞し、団結させ、奇跡の快進撃を呼び起こす。
それは、暴力と混沌の時代に初めて黒人と白人が一体となった瞬間だった



心が揺さぶられる映画、音楽、詩に出会うと、希望、勇気が湧き出てくる

絶望のなかにあっても、諦めたら、そこで終わってしまう。
マンデラ大統領は、ラグビーチームを鼓舞させ最後まで勝利を信じた。

何ができるか
ひとりではできない
自分はひとりじゃない

命のぬくもりそれは人のぬくもりを感じ
自分を信じる
意味のない人生はない

ひとりじゃない

映画『インビクタス/負けざる者たち』
ワールド・イン・ユニオン
平原綾香「Jupiter」

元気づけられる


介護の世界も金次第

2023-06-14 15:58:58 | 文学からみた介護
1959 ロストケア {3} 必要な介護が受けられない


     葉真中 顕『ロストケア』光文社文庫

「地獄の沙汰も金次第」という言葉がある。
介護も同じである。介護の世界も金次第。

『ロストケア』(54頁)
「残念ながら、介護保険は人助けのための制度じゃない。介護保険によって人は二種類に分けられた、
助かる者と助からない者だ」


老人福祉をビジネスとして民間にアウトソーシング(外部委託)すること。それが介護保険の役割だ(54頁)
介護保険法が施行される前の老人福祉法では、老人福祉や介護の整備は行政の責任であった。
介護保険法施行以後、介護事業所の指定権限は県、市町村にあり、介護事業所の運営は民間業者に任せたことで、
行政の責任は免れ、民間の介護事業所を実施指導の名の下で締め付け、そして介護保険サービスが使いずらくなってきている。

教員の資格に比べケアマネジャーの資格は厳しく、5年毎に更新研修を受けなければケアプランの作成ができない。
訪問看護に比べ訪問介護の介護報酬は低いことも問題。そのことについては後日、記していきたい。

介護保険を使えば介護サービスを一割負担で利用できる、ということになっている。(56頁)
現在は高齢者の年金受給額や所得によって自己負担は1割、2割、3割負担と分けられている。
膨大に増え続けている介護保険費用に対し、高齢者自身の負担を増やすべきだとして自己負担の割合についても2割、3割の枠が作られた。
併せて介護保険料も年々増え続け、それは年金受給額から差し引かれ、年金額は目減りしており、
特に国民年金受給者にとっては厳しく医療費の支出も含めると生活厳しくやりくりが大変になってきている。

実際に介護の現場に身を置くものとして
どの要介護老人も必要なだけ介護サービスを使えたら、と思うことがある。
月5万円未満の国民年金受給者がおられ、同居している息子、娘がいて、働いていると
掃除、洗濯、調理などの生活援助(訪問介護)のサービスが容易に受けられない。
子どもと要介護老人の二人暮らしで収入が10万円以上あると生活保護が利用できない。

自分がいま抱えている要介護老人は要介護2、週3回の透析治療を受けている。
同居している息子は夜間専従のコンビニで働いている。
老父は自営業を64歳まで行ってきた。
高度経済成長のときは羽振りもよく、老後のことは考えておらず国民年金の納付はおざなりになっていた。
所得税や市民税をたくさん納めてきたこともあったのに、いまは月額2万円の年金生活になり、情けない、とある老人は話す。

息子の収入をあてにすることはできない。
2万円のなかから使える介護サービス費用は福祉用具(介護用ベッド)と週3回の通院費は併せて1万円が限度。
週1回の入浴サービス(デイサービス)を利用することが難しい(週1回だと月額6,000円余りになる)
お風呂だけ入れる半日のデイサービス事業所をみつけなければならない。
せめて週1回の生活援助を進めたが、「使わない」、と本人は言う。

最近、格差なんて言葉やたらと聞くが、この世で一番えげつない格差は老人の格差だ
要介護老人になった老人の格差は冷酷だ。安全地帯の高級老人ホームで至れり尽くせりの生活をする老人がいる一方で、
重すぎる介護の負担で家族を押しつぶす老人がいる。・・・・(中略)・・・・
未だに多くの家庭で介護原因のノイローゼや鬱(うつ)が生まれ続けているー」(56~57頁)

介護と両立できる仕事は限られ、家の近くで時間の融通が利く仕事はアルバイトしかない。
それでは介護や生活が成り立たない。あった貯金も底がついた。

福祉事務所の窓口で「働けるんですね? 大変かもしれませんが頑張って」、と言われるだけで
介護地獄から逃れることはできないし、本人も残された家族に負担をかけ申し訳ない、と思い「殺してくれ」と家族に訴える。

せめてあと10,000円のお金があれば、週1回のデイサービス、週2回の身体介護(30分)の介護サービスが利用できる。
そうすれば本当に助かる。現実は介護サービスが使いたくとも使えない。
介護の世界も金次第なのです。

42人の老人を殺した斯波宗典は、「社会の穴」がある(社会の歪がある)、と大友検事に切々と話す。
(自分は年金受給額は10万円足らず。この先妻が大病や事故に遭遇すると、「穴の淵」にいる自分は、もれなく「社会の穴」に落ちてしまう)
社会の穴に落ちたら、なかなかそこから這い上がり抜けだすことができず、孤独のなかに置かれる。

生活保護受給者は介護保険や医療などのサービスは自由に使える。
介護保険料、健康保険料は免除され、介護や医療の費用もかからない。

自宅で看取りをする。
それは本人にとり幸せことだが、在宅で看取るには金がかかる。
往診診療代、訪問看護、訪問介護(身体介護)、福祉用具の費用など
月額にして25,000円~35,000円はかかる(1割負担)。

老人介護は他人事ではなく死のテーマと同様、避けては通れない路なのかもしれない。

介護の影を書き連ね、介護の大変さと暗いイメージを与えてしまったけれど
一方では介護保険サービスにより、数多くの要介護老人や家族も助かっている人もおられる。
貧富の格差、老後の格差に関係なく、誰人も安心して老いて逝ける社会を望んでいる。

コロナ禍や少子化「対策」ということで、現金給付しても、それは焼石の水でしかない。

少子化と老人介護は表裏一体の関係にあり
表現は相矛盾した言葉だが、急ぎかつ時間をかけきめ細かな施策こそが大切だと思う。



小さな小さなサボテンを買ってみました

2023-06-14 10:32:07 | 阿呆者
1958 サボテンの開花が待ち遠しい


サボテンの育て方もわからぬままサボテンを机に飾ってみました


咲きそうなサボテンの花を 道の駅 喜連川 で買ってきた。
休眠期と活動期のバランスをとりながら育てていくのが「コツ」らしい。
育て方がわからないまま、家族の一員として迎え入れてしまった。
花には花の夢があるのでしょう・・・・。
サボテンの花に癒され、生きていければ、と思います。

美味しい~水が飲めて、満面の笑顔

2023-06-13 17:43:16 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1957 何も混じっていない「ただ」の水が飲みたい


小雨に濡れた花 冷たい水を浴び喜んでいる紫色の花(路端で)


96歳の文乃婆さんが2週間ぶりに家に帰ってきた。
「家に帰り~たい」と叫んでいた。

ご主人の写真が飾られている仏壇の前にベッドを置き、起きあがるとご主人の顔を見える。
彼女の隣に息子の簡易ベッドが置かれていた。

最近、誤嚥性肺炎で入院したことから、病院ではトロミを混ぜた水を出されても口を閉じ、飲むことを拒否していた。
病室では、「ただ」の水(トロミが混じっていない水)が飲みたい、と訴えても駄目だった。
喉の渇きを感じ、冷たい水をどれほど飲みたかったか。
体力もかなり落ち、いつ心臓が止まってもおかしくない状態にある。
在宅酸素機器も置き、0.5の酸素を流している。
家族は、本人の願いを聴き、口から水やお粥ではないご飯を食べた。
口から食べると生命力がでてくる。

誤嚥性の防止や栄養バランスも大事だけれど、いまは「本人が欲している(望んでいいる)こと」を叶えてあげたい。
長男夫婦はそう思い、少しでも口から水を飲ませたり、好きな(缶詰の)ミカンを食べさせている。

退院した日には訪問看護師とヘルパーが同じ時間に訪れ
日常のケアや急変時の対応について細かい打ち合わせをした。
翌日には訪問診療の医師が訪れ、声をかけ聴診器を通し本人の状態を診てくれた。

14日間かもしれない。命はいつ途絶えるかわからない。
病院とは違い24時間、最期まで自宅で看取ることを家族は決心してくれたのは
「家で死にたい」、という老母の強いねがい。そのねがいを叶えてあげたい、ただそれだけであった。
呼吸が止まっても慌てず、訪問看護師やケアマネジャーに電話をかけてください、と何度も話をした。

5年前、ご主人を自宅で看取りをした経験があっても、長男嫁にとっては不安は大きい。
帰り際、「何かあったら夜中でも夜明け前であってもいいから、気兼ねなく電話をかけていいですよ」、と
ケアマネやヘルパーは長男夫婦に言葉をかけた。。

文乃さんはご主人とともに終戦後、3人の息子を育ててきた。
「いまの生活があるのは父母が必死に働いてきたお陰」、と長男は話す。
だから、最期まで親の面倒(介護)をするのは当然、妻(嫁)にだけ介護をまかせず
夜は自分が世話をする、といって老母が眠る隣の部屋で仮眠してきた(2年位続いている)。

家族が頑張っている姿をみると、こちらも頑張らねばと思い、ヘルパーや訪問看護師にも言葉をかける。

手までも痩せ細った文乃婆さんの手を握ると、弱い力であるけれども握り返してくれ、手のぬくもりが伝わってくる。
耳が遠くなり、話しかけても聞こえにくいので、A4サイズを半分にした画用紙に言葉を書いたものを文乃さんに見せ、
文乃さんと言葉のやりとりをする。

寝たきりの状態にあっても、彼女は懸命に生きておられる姿に、勇気づけられる。

文字は読めるし、声をだし聴こえる声で話す文乃さん。
そのときの笑顔がなんとも言えない。
1日、1時間、10分、1分でもいいから長男や孫、ひ孫に囲まれ、生きて欲しいと願うのは、みんなの思いである。

病室にはなかった風の流れや光、眼にする風景を感じている文乃さん。






帰る生家がない寂しさ

2023-06-11 13:35:34 | 阿呆者
1956 故郷の廃家



子どもの頃 自分が住んでいた故郷の家を思い出す

「故郷の廃家」 作詞 犬童球渓 作曲 ウィリアム・ヘイス(アメリカ)

幾年(いくとせ)ふるさと 来てみれば   咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
門辺(かどべ)の小川の ささやきも   なれにし昔に 変らねど
あれたる我家(わがいえ)に   住む人絶えてなく

昔を語るか そよぐ風   昔をうつすか 澄める水
朝夕かたみに 手をとりて   遊びし友人(ともびと) いまいずこ
さびしき故郷や   さびしき我家や


十九の春 連絡船で津軽海峡を渡り 青森駅から急行列車に乗り仙台駅で降りた。
仙台駅前の交番で安宿の旅館を紹介してもらい
半年間その駅前旅館で3畳間の物置部屋に住み掃除をした後、福祉の大学に通った。
その後蒲団袋と段ボール箱一つタクシーに乗せ、同級生の貸家に転がり込んだ。

福祉学科を卒業し47年が経った。
老いたいま、故郷を棄てた自分に
イマサラ故郷に帰りたい、と思っても
故郷の生家と土地は人手に渡り
帰る家がない寂しさ。

老いたいま、故郷に帰り住みたいと思うも
それは叶わぬ願い。

恋しいやふるさと なつかしき父母(旅愁)
その父母はもういない 親不孝だった自分。



通った桂中学校の門柱だけ残った。校舎は取り壊された



子どもの頃よく歩いた昆布橋
蘭越町昆布からニセコ町(旧 狩太町)西富につながる橋 
国道5号線


当時通った中学校は廃校となり 取り壊され いまは無い
桂川の辺で炊事遠足をした(桂川は学校の裏側に流れていた)
メニューはカレーライスだったが
自分たちの悪友男グループはジンギスカン鍋にしたら 担任の先生に怒られた。

ジンギスカンは焼くだけだったので他のグループより 早く食べ終えてしまった。
暇だったので女子グループからカレーライスを催促したら、また 先生に怒られた。
いい思い出だった。

炊事遠足の写真を撮ろうと思い親父からカメラを借りた。
フイルムが絡み、心配になりカメラのお裏蓋を開けてしまった。
家に帰り親父に話したら また怒られた。
親父の大切な画像が入っていた、とお袋から後で聞き
本当に悪いことをしてしまった、と反省した。
あれから55年の月日が過ぎた。

その父母は いまはもういない。
43歳で腸閉塞(大腸癌)で他界した父、認知症とリウマチを患い急性肺炎で亡くなった母(郡山市にある南東北病院)
病室で父母を看取ることはできたことが最後の親孝行だった。





介護殺人で救われた人がいた

2023-06-10 16:00:37 | 文学からみた介護
1955 ロストケア {2} 喪失の介護


路端に咲いていた花たち

離婚した羽田洋子(38歳)は生まれたばかりの颯太を連れ、
年金暮らしの母(71歳)が住む家に戻ってきた。
あれから6年が経ち、母は駅の階段から転げ落ち、腰と両足の骨を複雑骨折した。
それがきっかけで母は歩けなくなり寝たきりになり、いま思えばあれが(介護)地獄の始まりだった。

洋子は仕事の他に子育ての他に母の介護まで背負うことになった。
離婚したとき、乳飲み子を抱えた娘を受け入れてくれた母。
今度は私が寝たきりになった老母を受け入れる番だと思い、献身的に(介護を)尽くした。

認知症を患った母は、心を尽くして介護をしてくれている娘の名前も顔もわからなくなっていた。
認知症は母の人格そのものを変え、母が母でなくなっても、「家族だから、面倒をみなくてはいけない」。
そんな義務感だけが残り、空しさと疲労だけが残った。

母の介護が辛く、この介護地獄から抜け出したいと思いながら、
あとどれくらい(介護地獄が)続くのだろう?
いつまで耐えなければならないのか? 先の見えない介護。

老いて寝たきりになり認知症になり「生ける屍」になっても、
母は死なないなんて、こんなに絶望的なことはない!(『ロストケア』光文社文庫 45頁)
そんなふうに考えてしまう自分が心底嫌になった。

裁判の中で検事から質問されても、洋子は心のなかでは
母が毒殺された事実に対しても「くやしさ」も「無念」もなかった。
母の死をきっかけに、介護地獄から解放された。

洋子は、思った。
「母の死によって洋子が救われたのは間違いはない。
そして身も心も自由を失い、尊厳を剝ぎ取られたまま生きていた母にとっても、
やはり救いだったのではないだろうか」
(『ロストケア』光文社文庫 329頁)

42人の要介護老人を殺した斯波宗典は、
「殺すことで彼らと彼らの家族を救いました。僕がやっていたことは介護です。喪失の介護、
『ロスト・ケア』です」
(『ロストケア』光文社文庫 316頁)。

人を殺すことは許されるのか?

介護地獄であり、もう限界、特別養護老人ホームにお願いするしかない!、と老親を棄てた訳ではない。
それでも老いた実親や義父義母の介護を終え振り返ったとき、自分も生かされてきた、ことに
気づかされ、自身の老いの生き方や死に方を考えるきっかけになったことに感謝する家族もおられる。

孤独のなかで介護し続け、その愚痴やストレスのはけ口があるかないかで、気持ちの負担が違ってくる。
介護の重荷から解放されたわけではないけれど、話を聴いてくれる、相談に乗ってくれる人がいる、
それは家族だけでなく老いた人にとっても大きな心の支えとなる。





介護現場に溢れる悲鳴、介護殺人

2023-06-09 20:07:15 | 文学からみた介護
1954 ロストケア {1}




映画『ロストケア』あらすじ
早朝の民家で老⼈と介護センター所長の死体が発⾒された。
犯⼈として捜査線上に浮かんだのは死んだ所長が務める訪問介護センターに勤める斯波宗典(松山ケンイチ)。
彼は献身的な介護士として介護家族に慕われる⼼優しい青年だった。
検事の大友秀美(長澤まさみ)は斯波が務める訪問介護センターで老⼈の死亡率が異常に高いことを突き止める。
この介護センターでいったい何が起きているのか?
大友は真実を明らかにするべく取り調べ室で斯波と対峙する。
「私は救いました」。斯波は犯行を認めたものの、⾃分がした行為は「殺⼈」ではなく「救い」だと主張する。
斯波の⾔う「救い」とは⼀体何を意味するのか。
なぜ、⼼優しい青年が未曽有の連続殺⼈犯となったのか。
斯波の揺るぎない信念に向き合い、事件の真相に迫る時、大友の⼼は激しく揺さぶられる。
「救いとは?」、「正義とは?」、「家族の幸せとは?」、
現在の⽇本が抱える社会と家族の問題に正面から切り込む、社会派エンターテインメント映画。

映画を見逃したので、光文社文庫 葉真中 顕『ロストケア』を読んだ。
介護に従事する一人として、衝撃的な小説だった。
彼はなぜ43人もの人間を殺害したのか?

介護における光と影。
介護現場に溢れる悲鳴、現代社会の歪など考えさせられた。

次回( ロストケア {2} )は子どもを育てながら認知症の母を介護している羽田洋子の苦悩、葛藤を紹介していきたい。
家族介護者が抱えている葛藤などを見つめていきたい。



家に帰りたい~

2023-06-08 23:34:45 | 沁みる砂時計
1953 家に帰りたい~


第2の故郷 筑波山(画像は本文とは関係ありません)


主治医から「食べない。点滴だけでは6分の1程度の栄養しかとれない。廃用性症候群もみられ老衰の状態にある」
長男は「明日にでも退院させて欲しい」、と訴えるも聞き入れてもらえず駄目だった。
今日にでも連れて家に連れて帰りたいくらいだ、という思いは強かった。

結局は来週の月曜日に退院となった。
個室で痩せた老母(96歳)と面談、缶詰のミカンを食べさせようと老母に寄り添う。
自宅の畳で逝かせたい、と願う息子。
本人も最期は自宅で死にたい、と願っている。
息子の呼びかけに応えようと、老母は一粒のミカンを口にした。

「12日に退院できるからね」
「あと三日だね」、とはっきりした言葉で話す。

それでも最後は病棟中に響きわたる声で「家に帰りたい~」と叫んでいた。

訪問診療、訪問看護、訪問介護(毎日、1日2回)、介護用ベッド。
訪問介護も家族のサービスに応じて対応する。
往診の医師を軸にしながら看取りの体制をとった。
24時間体制をとり、急変時は訪問看護を通し往診の医師が訪れることになった。

救急車を呼ばない、ことで確認した。

自宅での看取りは末期癌の人も含め、両手両足の指を超える。

どこで死にたいか
老母は「家で死にたい」、と主治医にもはっきりと主張されていた。



夢? 希望? 妄想?

2023-06-08 09:30:09 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1952 夢? 希望? 妄想?


私は植物に関しても全くの無知で、「美しい紫色の花に見惚れていました。あなたの名前を知らず大変申し訳ございません」。


にんげん、寝ているときは至福の時間(とき)。
いい夢見は余計に眠ったまま夢の世界に留まりたい。

老人の寿命も延び、おくやみ欄をみると90代の人が増えてきた。
今日の福島民報のおくやみ欄では106歳のお婆ちゃんもおられ大往生の人生。
最後まで元気だったのか、それとも介護を受けていたのか、おくやみ欄からではうかがい知れない。

自分はいつまで生きられるか、わからない。
長生きはしたいけれど、残された時間、何をしていくのか・・・・。

短編夢世界では、これからのデイサービスの在り方を数人の人と熱く語りあっていた。
これから老人は「冬の季節」を迎え、子どものように厚い政策は期待できない。
「介護は金がかかる」、と悪者のように扱われ、要介護老人もその家族も介護従事者も光が閉ざされたまま。

国民年金だけで暮らしている高齢者は、介護に使うお金があまりなく、どう支援したらよいかいい知恵が浮かんでこない。

夢のなかでは、介護に金がかかりすぎる、という前に、地域社会のなかにある資源を活用していく方法はあるのではないか。
少子化で、小学校、中学校は「使わない教室(空き教室)」がある。
また、年に総会の他数回しか使わない公民館やコミュニテイーセンター(集落会館)が地域ごとに数多くある。

小学校や中学校、コミュニテイーセンターなどを小規模デイサービスや介護予防教室に活用するなら
集落単位(小学校単位)ならば、高齢者はお互いに顔馴染み、会話も盛り上がる。
仕事を終えた元気な老人(高齢者)は、介護の初任者研修(昔のヘルパー2級)を取得する。
その費用は無料、市町村社協(社会福祉協議会)や介護事業所などが研修を担当。

元気な高齢者が小規模デイサービスやヘルパーに参加していく。
コミュニテイーセンターや公民館は調理室(ガスレンジ、キッチンなど)があり、
軽い認知症や要支援の人ならば元気な老人と一緒に調理をすることもできる。

夢のなかでの戯言で、それは理想だよ、と言われてしまいそうだが、夢を追い続けてみたくなった。

自分は70歳、何ができるのか、と逃げ腰になってしまう。

できるところから。
過去を振り返るより、前を振り向き、
まず地域の高齢者は何を欲し、何を求めているのか

「これがあったらいいな~」という気持ち、言葉を落穂拾いの行為を見倣い
そして誰かの手をお願いし、訪問介護でできなかったサービスの掘り起こしを
最後の仕事して「やってみよう」、と夢のなかで被害妄想のように大きくなっていた。

老人パワーをどう介護の世界に巻き込むか
自分も老人。
腕力や脚力、体力は子ども以下だけれど、智慧はまだ衰えない。

自分一人ではできない
どうにかして若い人を見つけ
同志を見つけるところから始まる。
いま、物忘れがある頭のなかで、被害妄想の夢を膨らましていくいる自分。

大風呂敷を広げてしまった

まだ十年の時間がある、まず、「やってみよう」


 
 「mother」の一場面

死ぬまで生きるしかない

2023-06-07 05:23:59 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1951 高いクリームを買っても 皺(しわ)は伸びない


早朝散歩のとき 野生の鹿? に遭遇


まだケアプランを作成していない84歳の女性から、寂しくなると電話をかけてくる。
急ぎの用事はないのだが、なにかサービスを使いたいような感じで話すのだが、
翌日訪問すると、彼女は「まだサービスは使わなくても大丈夫。躰がしんどくなったからお願いするから」、と。

誰も彼女の家に訪れる人はいなく、その代わりに私に「来て」と誘惑する。

「死に物狂いで働いてきた、自分の幸せを考えずに生きてきた。養女を育ててきたが、優しい言葉もかけてくれない」。

「84歳になった。いつも玄関先の壁にかけてある鏡をチラ見するだけ。
手鏡で自分の顔を見たら、皺がたくさんあり、そして染みだらけ。
皺と染みの顔をみてビックリ。高いクリームを買って顔に塗っても皺は伸びない」。

左右の脚が痛く、その上坐骨神経痛がある。
車(軽自動車)を駐車している所まで歩くのも大変(自宅から50㍍先にある)。
そこまで休み休みしながら歩いていく。

16年間、自分の車のなかに巾着袋を置いている。
巾着袋のなかには運転免許証、健康保険証、実印、通帳用印鑑、預金通帳、マイナンバーカード、財布が入っている。

家を空けて歩くこともあり、貴重品は家に置くよりは車に置いた方が安心だ、と話す。

「それ、危ないよ、16年間盗まれなかった(車上荒らし、盗難)けれど、今日あるかもしれないよ」
「今日、車から巾着袋持ってきた方がいい」、と何度も念を押した。

運転免許証はあと1年半で有効期間が切れるので、それまで車を運転する。
「運転するのも大変」、と話す84歳の婆さん。
「車がないと通院や買い物ができない」
車の運転ができない同年代の婆さん友達から電話がかかり、遊びに来てね」、と誘われることもある。
交通事故が心配、本当に大丈夫かな・・・・・?

彼女は、「死ぬまで生きるしかない」、と話す。
本当にしばらくぶりの訪問者だったので、話は延々と続き、90分の雑談で、
彼女に対して、月1回ヘルパーが来て、買い物や掃除を使うよう約束をした
(安否苦確認もある、本当は週1回利用させたいのだが、彼女の気持ちを尊重し1回になった)
問題が起きてからでは遅い

ケアプランの作成の有無に関係なく(介護給付費は0円だけれども)、月に1回以上訪問することにした(自分のなかで)
また地域包括支援センターから、「それは入りすぎだよ。(高齢なケアマネジャーなのだから)躰無理しないほうがいい」、と苦言を頂くこともある。
(3年前に自分が申請し、要介護1の認定を受けている)

「躰がしんどく運転も億劫になったときは、日曜日でも夜でも電話してね」、と彼女にお願いする。

私の年齢(とし)はいくつ、と聞かれた
「70歳です」
「若いわね(嬉しい言葉です、妻は若いわね、と言ってくれません)」
「私が70のときは皺も染みなく、顔の肌はツヤツヤしていた(本当かいな?)」

「まだまだ躰が動くわね」、と激励されてしまった。




老いに生かされてきた

2023-06-06 05:29:15 | 沁みる砂時計
1950 老いに生かされてきた


.
白髪混じりの60才過ぎの女性が相談に訪れた。
自分の年齢も60才を越え体力的に限界です。

義母はリウマチを患い、歩くこともままならない。
“ボケ”もではじめ、夜間大きい声で独りしゃべりをしたり、
おむつを外し布団の上にオシッコをしたりなど、
隣の部屋にいても落ち着いて寝ることができないのです。

年老いた義母にとって“家”が一番いいとわかっていても・・・・、
これ以上女手一つで義母の面倒を看ていくのは困難です。
長い間義母の面倒を看てきて、いろいろと苦労もありましたが、
“義母に生かされてきた”という思いです。 

13年前に主人が亡くなり、ずっと義母との二人暮らしでした。
血の繋がりがない義母であっても、義母の存在は一つの心のはりになっていました。

自分の親は、(他人である)長男の嫁に世話になり、
自分は(他人である)夫の親の世話をしている。

自分の疲れがとれたら(老人保健施設から)義母を引き取り、
また面倒を看たいと思いますので、それまでお願いしたい」、
としみじみ話されました。


老母親の想い、子の想い

2023-06-05 13:09:01 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1949 老母親の想い、子の想い 



.齢(よわい)を重ねるにつれ、土田光代さん(仮名86歳)は、息子との二人暮らし。
物忘れや家事の一つひとつを最後まで成し遂げることが怪しくなってきた
 
長男の不二雄さんは、
新幹線が停車するK市駅の近くにあるデパートに勤めているため、
日中は一人 家で過ごす。
数年前から認知症が進み、
息子宛てに電話がかかり、息子が家に居ても、「家には居ない」と受話器を手にしながら話している。
紳士服売場での仕事は時間通りに終えることができないため、
家路に着くのは21時を過ぎてしまうことも多い。

家のなかは静寂であり、老いた母親はもう寝床で眠りについていた。
キッチンに行き電気釜の蓋(ふた)を開けてみると、
手つかずのご飯が残されており、
夕食を食べていないことがわかる。

「長男がお腹を空かし、そろそろ帰って来るだろう」からと
光代さんは台所に立ち肉や人参、ジャガ芋を鍋に入れガスコンロにかけ火をつける。
思いとは裏腹に、鍋は真っ黒に焦げ、
その鍋はキッチン下の収納庫に置かれてあった。
その後も、味噌汁を温めようとして、
鍋を焦がすことがときどきあり、
家が燃えてはいないかと心配しながら仕事している・・・・。

また浴槽の湯はりをしようと、湯を入れ始めるが、
「お湯をだしていること」を忘れてしまい、
浴槽から溢れ、流れ出していることが週に1、2回ほどあった。

昨年までは便所での用足しを出来ていたが、
今年に入り便所での「用足の仕方」を忘れできなくなってきた。
紙パンツと尿とりパットを着けるようにした。
濡れたパットを枕下や敷布団の下に、紙おむつは箪笥のなかに隠したりした。
それを注意すると「私ではない」と哀しい声を上げて泣くこともあった。

同居している息子、娘や息子夫婦、娘夫婦たちは、
認知症を患っている親に対し、
「何もせずに“じっと”座って居て欲しい」と懇願する。

何もしないで居てくれることの方が子ども夫婦にしてみれば「助かる」のだが・・・・。
子どもから世話を受けるような身になっても、
老いた母親は「わが子を心配」し、

煮物や味噌汁を作ったり温めたり、
浴槽の湯をはったりするのである。

物忘れなど惚けていても「家族の役に立ちたい(誰かの役に立ちたい)」という気持ちを持っている
しかし、ガスコンロに鍋をかけたことや
浴槽にお湯を出していることを忘れてしまい、
反対に息子や息子嫁などに手を煩わせてしまう結果に陥ってしまう。

認知症の特徴の一つは、
鍋をかけたことや浴槽にお湯を張っていたことを忘れただけでなく、
忘れてしまった、そのことさえも忘れてしまうのである。
「出来ていた」ことが「出来なくなった」り、
ひどい物忘れにより生活に支障がでることで、
親子関係や家族関係のなかに葛藤や軋轢が生じてくる。

認知症になってしまった母に対し上手く対応できるのは難しく、
問い詰めたり怒ったりしてしまいがちである。

これが「他人の関係」ならば案外上手くいくけれども、
それはいくら「他人の関係」であっても、
認知症を抱えた人は、「命令」や「指示」、「怒ったり」するような介護者には寄りつかなくなり,
その人から離れて行ってしまい、
「家に帰る」と言って落ち着かなくなることさえある。

訪問介護サービスの一つに「生活援助」がある。
同居家族が居ると簡単に「生活援助」のサービスは利用できない。
(特例給付サービスで利用できる場合もある。ケアマネジャーに相談してみる)

同居家族の有無にかかわらずその家にヘルパーが来て、
認知症のお年寄りと一緒になって
調理や掃除、洗濯などの家事を行うサービスができたらどんなにいいか、と思う。

誰のための介護保険サービスなのか。

認知症があり、調理の手順や仕方を忘れてしまい「出来なくなった」けれど、
ヘルパー傍に居て手助けし一緒に行うことで、「出来ない」ことも「出来る」ようになることもある。
また「できる」「できない」のことだけに眼を奪われるのではなく
誰かと(ヘルパーと)一緒にかかわり、話したり、共同作業をすることで、
その人は、満足感や喜びを感じていくことで、
認知症のことを忘れ、穏かになり心までが落ち着く。



人生の砂時計

2023-06-04 05:44:31 | 沁みる砂時計
1948 沁みる砂時計


Google「砂時計」無料画像から引用しました


老いた現在(いま)、何故か砂時計を見ていると「人生の砂時計」に映ってしまう。

砂地に水がこぼれ落ちると瞬く間に染み込むように、
老いを意識するようになってから人と「ひと」とのかかわり、
路端に生きる小さな生物や自然の風景から心のなかにしみじみと感じてしまう。

もうその出来事に再会することはないかもしれないだけに、
そのことに感謝し、そこで遭遇した一瞬の時間(とき)にときめいてしまう。

齢七十を越え、躰は衰え、左膝はサポートを巻き
snoopyのイラストが入った杖をつきながら
阿武隈川沿いの小路をbeagle元気と歩けるのはいつまで続くか、その先はわからない。
それだけにいま自分の足で「歩ける」ことに感謝せずにはいられない。

孤独のうちに施設で最期を迎えた「風変りな老人」が残した一編の詩

2023-06-03 05:02:04 | 沁みる砂時計
1947 孤独のうちに施設で最期を迎えた「風変りな老人」が残した一編の詩



孤独のうちに施設で最期を迎えた「風変りな老人」が残した一編の詩 (2016.06.18)

老人ホームで孤独に最期を迎えた男性が残したという一編の詩が、今年の初めに海外メディアを少しだけ賑わせました。
訪れる家族もなく、老人ホームの職員たちもあまり深く関わろうとはしなかった老人。
価値のある遺品などはありませんでしたが、彼が人生を振り返ったその詩、老いについて本人が表したその詩は、確実に人々の心に残りました。
その詩がこちらです。

「風変りな老人」
皆さんには何が見えていますか? いったい何が? あなたは何を考えていますか、
私を見ているそのときに? 風変りな老人…そんなに賢くもない どんな性格なのかもわからない、

遠くをただ見つめている 食事をこぼしたのは誰かと聞いても、何も答えない
あなたが大きな声を出すと、私は同じ目に合えばいいと思うんだ

あなたが何をしても、気づいた様子もない いつも靴か靴下を片方なくしている?
あなたがやりたいようにやらせる相手 抵抗することもあるけどね お風呂や食事に見合うほどの1日だった?

あなたはこう思っているんだろう? あなたにはこう見えているんだろう?
目を開けてみてみるんだ。あなたは私のことなんて見てはいない。

私のことを話そうと思う。
こうしてじっと座っているうちにね あなたの命令通りに動いているうちに あなたの思う通りに食事をしているうちに

私が10歳の子どもだったとき、父と母、 きょうだいたちと一緒だった 愛し合っていたよ

私が16歳だったとき、足に翼が生えていた きっとすぐに愛する人と会えるものだと思っていた

新郎になった20歳のとき、心は飛び跳ねていた 守ると決めた結婚式の誓いを覚えながら

25歳のとき、子どもたちが生まれた 道しるべと安全で幸せな家が必要だった

30歳のとき、子どもたちは急激に成長していったよ 共に過ごす運命にあった 永遠に続くはずの絆だった

40歳のとき、息子が成長して旅立った でも妻が側にいたから、悲しくなんてなかった

50歳のとき、孫が足にまとわりついてきたっけね 子育てについてはよく知っているよ 妻も私も

世界は暗闇に覆われた 妻はもういないんだ 先のことを考えると恐怖で震えた
子どもたちはみんな子育てをしていた そして私はかつて知っていた愛について考えた
今や私は老人だ そして自然は残酷だ 年を取るってことはバカみたいにみえるものだ
ぼろぼろになり、優雅さや力強さが失われた肉体 単なる石でしかない かつてはそこに心を持っていたものだけど
古ぼけた残骸の中には、まだ若い人間が宿っているんだ

そして再び、ぼろぼろになった心が一杯になる 喜びを覚えている 痛みを覚えている そして人生を繰り返し愛しみ、生きるんだ
早すぎるほどに過ぎ去った年月を考える そしてすべてははかないって事実を受け入れる
じゃあ目を開けてごらん 開けてよく見るんだ 風変りな年寄りをじゃない よく見るんだ…私を!!


真偽は不明
老人ホームで亡くなった104歳の男性、Mak Filiser氏の遺品整理をしていた職員が、この詩を見つけたそうです。
そして内容に感銘を受け、コピーをして職員全員に配り、やがて世界に知れ渡るようになった……と言われています。
この話が実話かどうかははっきりしません。
もし実話ではないとしたら、誰がどんな気持ちで、何を伝えたくて、この詩を書いたのでしょうか?

自分は『老いの詩』をネットで検索したとき、この詩に遭遇しました。
自分もこの詩に共感し、拙いブログ『老い楽の詩』に掲載した次第です。

今や私は老人だ そして自然は残酷だ 年を取るってことはバカみたいにみえるものだ
ぼろぼろになり、優雅さや力強さが失われた肉体 単なる石でしかない かつてはそこに心を持っていたものだけど
古ぼけた残骸の中には、まだ若い人間が宿っているんだ

そして再び、ぼろぼろになった心が一杯になる 喜びを覚えている 痛みを覚えている そして人生を繰り返し愛しみ、生きるんだ
早すぎるほどに過ぎ去った年月を考える そしてすべてははかないって事実を受け入れる


この最後の言葉(詩)に衝撃を受ける。

「石でしかない・・・・古ぼけた残骸の中には、まだ若い人間が宿っているんだ・・・・生きるんだ」

まだ齢七十の自分
へこたれてはいけない
百四歳の老人の生き様から「爪の垢を煎じて飲め」、と自省せねばならない









口から食べたい

2023-06-02 20:06:06 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1946 口から食べたい



激しく降りしきる雨のなか
老いた妻は軽自動車のハンドルを握り 病院に向かった。
数カ月前 老いた妻は膀胱脱を手術されたばかりの躰。

長年連れ添った夫。
幾たびかの苦難を乗り越え
苦労の数よりもはるかに少ない幸せに喜び生きてきた。

その夫が食道癌を患い、経鼻経管になり
8mmの細い管が胃まで届き、夫の命を繋いでいる。

その管のお陰で体力を快復した夫
入院前の顔表情に戻ってきた夫に安堵した妻。

消化器内科の医師は言葉を選びながら平易な説明をしてくれる。
80代半ばを過ぎ、年齢的に食道から胃までを開腹手術することは難しく、
放射線治療を主体とし、ときには抗がん剤投与を併用させ
可能性としての話だが、大腸癌や胃癌に比べ食道癌の放射線治療は効果がある。
食道癌を抑える放射線治療は、口から食べらるようになるかもしれない。

食道癌小さくなり、8mmの管が抜去され
濃厚流動食であってもいいから「口から食べたい」、と
夫は医師に向かい自分の気持ちを吐露した。

「口から食べたい」
その言葉の思いを秘め、生きる光を見つけた。

もう駄目かと諦めかけた妻
希望が出てきた、と話してくれた。