学力の向上,そして朝の学習というわけで,反復練習が盛んです。ひたすらになされるその努力は尊いものですし,たいせつだとは思いますが,気になることがすこし。
ある学校の場合。教室から詩を声高に暗唱する声が響いてきます。声がまったくの一本調子。もうすこし内容を味わい,こころの奥底に届けたいと思う詩なのに,詩が暗唱する道具と化してしまっているようなところがあって,いささかがっかり。ここには,小さな頃にそらんじた事柄はいくつになっても記憶になって残るものだとか,脳を活性化するのだとかといった,一種鍛錬主義的な発想が流れているように思えてなりません。
暗唱をとおして,ほんとうに,子らは詩が好きになっているのでしょうか。
先頃,たまたまその教室で学んでいる子と,個人的に話す機会がありました。「朝タイムで暗記している詩のうち,いちばん好きな詩はなにかな」と問うて,「それを唱えてくれないかな」といったところ,返ってきたのは「そんなの,ないよ」のひとこと。この子からはてっきりきちんと返ってくるだろうと予想していたのですが,これにはいささか拍子抜け。唱えるのが恥ずかしいからそういったわけではありません。まったくないようなのです。
暗唱に力を入れるのなら,指導者は詩のこころを併せて伝えるひとこと,ふたことを付け加えられないのでしょうか。感想を引き出して,子ども同士の内面を軟らかく交流させられないものでしょうか。学ばせたいことが大人の側にあって,それが子らの学びにいつの間にかすり替わってしまってはいないでしょうか。こうした状況では,真の学びは成立していないのです。でも,子どもは学んでいるつもりにさせられています,きっと。
音読して味わう,味わいながら暗唱する,そんな静かなひとときがほしい詩を,勇ましい声で,それも声を揃えてそらんじるなど,わたしには到底できません。たぶん,「さん,ハイ」という形式的な掛け声で暗唱が始まるのだろうと想像しています。
いろんな学び方,学ばせ方があることは承知していますが,詩を学習材としてとり上げるときは,やはりこころの栄養,発達の滋養につながるように工夫を凝らしていただきたいなと感じています。子どもに内面に共感し,主体的な力を底から引き出していくために,学習材を効果的に生かす工夫を重ねていただきたいものです。
話は変わります。過日,知人である,別の学校の校長先生と話す機会がありました。小規模校のよさを生かすために,毎日の下校時,多くの子が集まっている場で一日の反省を数人にしてもらうのだとか。みんなの前で語る,それを聞きとる,そんな伝え合うこころを地味に耕し続けたい,それが職員への小さな刺激にもなるだろう,というような話をなさいました。
学校規模によらず,わたしも同じ試みを続けてきたものですから,共感できる部分が多いと感じました。各種の集会や催しのときも,そうした関係づくりは同様です。この方の学校に率先垂範できる指導者があり,真摯な導きがあることをうれしく思った次第です。
運動会の練習のときもまったく同じです。一方的に教師が指示して練習を繰り返し,子どもになにも語らせないような学びを“学び”とは呼びがたい,そうわたしは感じてきました。そう感じて,先生方に指導の改善をお願いしてきたものです。このことは既に書いたことです。
学習者である子どもの目線をいつも気にかけながら,その内面をかたちづくっている襞に,すこしでも届くようなはたらきかけが求められます。真に子どもの傍に立つには,それを感じる感受性が欠かせません。 感受性が錆び付いてはどうしようもありません。
(注)写真は本文とは関係ありません。