(お別れ)
写真の先生であった友人が、下痢が止まらないので、
掛かり付けの病院へ行った。3月のことだ。
しばらく元気な様子の電話で、ボクの撮った写真の
辛口の批評などしていたので、問題ないと
高をくくっていた。
17、18日とボクの留守の間に、電話があったが、
何時もなら留守電に伝言を残すのに、今回は無言のままであった。
19日ボクが散歩に出かけている間に、又電話があったのを、
カミさんが受けた。
友人の奥様からで「主人がボクと話をしたいといっています」と、
言ってきた。それも出先からだという。
帰宅時間を伝えてあるというので、
いつもより予定を早く切り上げて帰宅した。
友人が自宅からでなく、出先からというので、
こちらから電話することもならず、手持ち無沙汰で電話を待った。
架かってきた電話の向こうには、奥様がいて
「主人がお話したいことがあるので・・・」と電話を代わった。
友人は電話口で
「まだ退院できないでいる。体力が無くて手術が出来ない。
薬も使うことが出来ないでいる。??????
その時はよろしく頼む。」という。
「?」の部分は何を言ったか分からない。
それっきり電話口で音は聞こえるが何も話さない。
こちらから、しばらく「もしもし」と呼び続けたが
返事は無かった。
やおらして、奥様が電話口に代わって出てきた。
「最後に何を話したのか分からなかったのですが、
容態は良くないのですか?」と尋ねると、
「三月に入院して、すい臓にガンがあり、臓器のあっちこっちに
転移して、三ヶ月の寿命だと、医者に告知されており、
本人も知っているのですよ。
私は怒ったのです。そこまでなるには、体に自覚症状があったはずなのに、どうしてこんなになるまで黙っていたのですか?と。」
返す言葉が無かった。奥様の言葉にではない。
友人の先ほどの電話は、
ボクにそれとなく(お別れ)を言いたかったに違いない。
電話で奥様に「大事にしてください」とのみ答えて電話を切った。
(お別れ)なら、電話ではあまりにも味気ない。
顔をあわせて目を見ながらしたいものである。
最後にお会いしたのは、昨年の6月、有楽町のギャラリーで、
友人が写真の発表会をした時で、もう一年になる。
翌日、さっそく友人を訪ねることを決めた。
もう間に合わないかもしれない。何もお話しすることも無い。
でも、逢っておきたい人である。
そして西行が詠んだ歌はどんな意味があるかぐらいは、
話してみたい。
ねがわくば 花の下にて はる死なん
そのきさらぎの もち月のころ
お釈迦様が亡くなられた同じ日に、私も死にたいと
望んだ西行の心。
また、吉田松陰の辞世の歌、
身はたとい 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
留めおかまし 大和魂
近代日本の夜明けに、沢山の優れた人たちを世に送りだした
松蔭の心は、時の流れに逆らったように見えたが、
実は次の新しい夜明けに必要な人であった。
そして友人が、戦後日本の荒波の中で、
50年に渡り苦境に耐え、
世界第二の経済大国―日本に残した足跡は、
計り知れない功績があり、
後世に十分役立っていることを伝えたい。
そして人生は、生まれた時から必ずたどり着く
死への旅である。悲しいことも苦しいことも無い。
きっと、今は芭蕉の句が頭に浮かぶことだろう。
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐり
そしてゆっくり休んで過ぎし日を夢見て、
思い起こして欲しい。
あなたの人生は、自分では、何もなく空しく見えるが、
あなたの功績は偉大なものだったことが、
子供たちの心に残るに違いない。
お会いして、思ったより顔色のよい友人の顔を見て
これでボクも満足できる。
いずれまた、虹のかかる雲のかなたでお会いしできれば
これに優る幸いはない。
写真の先生であった友人が、下痢が止まらないので、
掛かり付けの病院へ行った。3月のことだ。
しばらく元気な様子の電話で、ボクの撮った写真の
辛口の批評などしていたので、問題ないと
高をくくっていた。
17、18日とボクの留守の間に、電話があったが、
何時もなら留守電に伝言を残すのに、今回は無言のままであった。
19日ボクが散歩に出かけている間に、又電話があったのを、
カミさんが受けた。
友人の奥様からで「主人がボクと話をしたいといっています」と、
言ってきた。それも出先からだという。
帰宅時間を伝えてあるというので、
いつもより予定を早く切り上げて帰宅した。
友人が自宅からでなく、出先からというので、
こちらから電話することもならず、手持ち無沙汰で電話を待った。
架かってきた電話の向こうには、奥様がいて
「主人がお話したいことがあるので・・・」と電話を代わった。
友人は電話口で
「まだ退院できないでいる。体力が無くて手術が出来ない。
薬も使うことが出来ないでいる。??????
その時はよろしく頼む。」という。
「?」の部分は何を言ったか分からない。
それっきり電話口で音は聞こえるが何も話さない。
こちらから、しばらく「もしもし」と呼び続けたが
返事は無かった。
やおらして、奥様が電話口に代わって出てきた。
「最後に何を話したのか分からなかったのですが、
容態は良くないのですか?」と尋ねると、
「三月に入院して、すい臓にガンがあり、臓器のあっちこっちに
転移して、三ヶ月の寿命だと、医者に告知されており、
本人も知っているのですよ。
私は怒ったのです。そこまでなるには、体に自覚症状があったはずなのに、どうしてこんなになるまで黙っていたのですか?と。」
返す言葉が無かった。奥様の言葉にではない。
友人の先ほどの電話は、
ボクにそれとなく(お別れ)を言いたかったに違いない。
電話で奥様に「大事にしてください」とのみ答えて電話を切った。
(お別れ)なら、電話ではあまりにも味気ない。
顔をあわせて目を見ながらしたいものである。
最後にお会いしたのは、昨年の6月、有楽町のギャラリーで、
友人が写真の発表会をした時で、もう一年になる。
翌日、さっそく友人を訪ねることを決めた。
もう間に合わないかもしれない。何もお話しすることも無い。
でも、逢っておきたい人である。
そして西行が詠んだ歌はどんな意味があるかぐらいは、
話してみたい。
ねがわくば 花の下にて はる死なん
そのきさらぎの もち月のころ
お釈迦様が亡くなられた同じ日に、私も死にたいと
望んだ西行の心。
また、吉田松陰の辞世の歌、
身はたとい 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
留めおかまし 大和魂
近代日本の夜明けに、沢山の優れた人たちを世に送りだした
松蔭の心は、時の流れに逆らったように見えたが、
実は次の新しい夜明けに必要な人であった。
そして友人が、戦後日本の荒波の中で、
50年に渡り苦境に耐え、
世界第二の経済大国―日本に残した足跡は、
計り知れない功績があり、
後世に十分役立っていることを伝えたい。
そして人生は、生まれた時から必ずたどり着く
死への旅である。悲しいことも苦しいことも無い。
きっと、今は芭蕉の句が頭に浮かぶことだろう。
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐり
そしてゆっくり休んで過ぎし日を夢見て、
思い起こして欲しい。
あなたの人生は、自分では、何もなく空しく見えるが、
あなたの功績は偉大なものだったことが、
子供たちの心に残るに違いない。
お会いして、思ったより顔色のよい友人の顔を見て
これでボクも満足できる。
いずれまた、虹のかかる雲のかなたでお会いしできれば
これに優る幸いはない。