楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

春は、もう来ているか

2014年01月31日 09時00分31秒 | 日記


(蝋梅)



・ろう梅の 造花のごとき 寒さかな




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早く 暖かくなって欲しいなあ!

2014年01月28日 09時00分02秒 | 日記


(紅梅)


・紅梅の 日向に一輪 また一輪

(沈丁花の蕾)


・花開く 時期を思案の 沈丁花




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白金高輪に残る肥後 熊本藩細川家下屋敷跡(忠臣蔵を歩く 最終章)

2014年01月25日 09時07分15秒 | ひとり歩き旅
(白金高輪の肥後熊本藩下屋敷跡に残るスダジイ)
(スダジイの幹)

(白金高輪に残る肥後熊本藩下屋敷跡)

泉岳寺の大石蔵之助の銅像横にある昔農道の様な細い道を進む。
左右は学校の運動場とお寺の墓地を囲む高い塀がある。
しばらく進むと、やや開けて、左は民家に囲まれ、右は正源寺の境内だ。
お寺を回るようにして進むと、
マンション(後で調べた所、アジアの大使館)にぶつかり、
左折すると広い道路に突き当たる。
突き当たる手前の左側に、古びた自然石の碑が建っている。
東京都港区役所の二丁目の掲示板の前である。
古くてよく読めないが、
どうやら「川端玉章〇〇」と刻まれているように見える。
(狭い道)
(狭い道を抜けた高輪二丁目掲示板と川端玉章の碑)
(川端玉章とかろうじて読める碑)
川端玉章は明治時代の日本画家で、岡倉天心が東京藝術大学の前身、
東京美術学校に日本画の教師として迎えられ、
後に帝室技芸員(今で言う人間国宝のようなもの)になった人で、
この川端玉章のお墓が正源寺にあるとのこと。(港区)

目の前の通りを渡り左へ少し進むと、右折できる露地がある。
奥を覗くと、左右に大きな木が並んでいる。
右側は椎の木が何本も生えており、高い塀で囲まれている。
これは高松宮邸東側で、正面出入り口の道路には交番がある。
(右高松宮邸)
(高松宮邸正面入り口)

左側は高い木に囲まれた高輪アパートというが、
原宿や代官山にあった、高級マンションを思い浮かばせる佇まいである。
その奥に金網で囲まれた肥後 熊本藩邸跡の広大な林がある。
縦横およそ100mあろうかという藩邸跡は、高台だけが残っており、
低地には港区立高輪中学のグラウンドと校舎がある。
林は、巾10m間隔で左へ約100m、直進約100mという形で残っている。
(左側の高輪アパート)
(旧細川家のスダジイからみた細川邸跡の林)

さて、本題の忠臣最後の場所には、門が設置されており、
東京都教育委員会の説明板に、「大石良雄外十六人忠烈の跡」として、
(この地は、赤穂事件で大石蔵之助良雄ら十七人が、
預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部です。
赤穂事件とは、元禄14年(1701)三月十四日に起こった殿中刃傷事件と、
その翌年十二月十四日から十五日にかけての吉良邸討ち入り
及びその一連の事件のことを言います。
――中略――
細川家は、大藩の威厳と識見をもって優遇し、
お預かり四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。
元禄十六年(1703)二月四日午後二時、
上司のお目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から、
切腹の申し渡しを受け、大石蔵之助が一同を代表して
「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合せ存知奉り候」と礼を述べました。

切腹場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、
背後に池を背負った位置でした。)とある。
(肥後 熊本藩下屋敷跡)
(熊本藩屋敷跡の大木)
(自刃せる義士左の如し)
(残っている邸内切腹の場所跡)

熊本藩邸跡を囲んで散歩道路が作られている。
散歩道の終わりにと言うか最初にと言うか、港区高輪支所の五階部分の横に、
「旧細川家のシイ」として、東京都の天然記念物と指定され残されている。
(高さ10.8m、幹周り8.1m、枝張り南北に5.8mで幹が空洞であったので、
大規模な外科手術をして今日に至っている。)
(旧細川家のシイの木)
(旧細川家前の散歩道)
(旧細川家前の散歩道2)

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忠臣蔵の討ち入りその後(忠臣蔵と細川家展より)(忠臣蔵を歩く 10)

2014年01月21日 09時00分08秒 | ひとり歩き旅
(白金高輪の肥後熊本藩下屋敷跡のスダジイ)


(泉岳寺以降の義士たち)
忠臣蔵は、大石良雄以下47士が討ち入りを果たし、
吉良上野介の首を主君の墓前に供える所で、
各種エピソードは終わっている。

その後を知りたいと思っていた所、
忠臣蔵と細川家について、
泉岳寺後の赤穂義士たちの動静を記した古文書展が、
文京区目白台の永青文庫で催されていたので、
ここで知り得たことを、紹介しておきたい。

主君の仇討ちが終わった報告をした大石蔵之助以下四十七士は、
泉岳寺から大目付 仙石伯耆守邸に自首した。
老中寄り集まり評議の結果、ひとまず赤穂浪士は細川綱利、松平定直、
毛利綱元、水野忠之の4家に分割してお預けにすることが決まった。

細川家では、浪士ではなく義士として丁重に扱ったという。
赤穂浪士がとった行為は、儒学的には士(さむらい)の道であるが、
徒党を組んだのは法を破るものであるというのが、
当時の意見であったという。
17人の身柄受け取りに当って、医師、足軽、駕篭かきなど、
総勢875人を仙石の屋敷に派遣している。
わずか17人の引き取りのためとは言いながら、
875人の派遣は、
吉良家を応援するものの反撃を警戒しての事であろうか、
多すぎるように思われる。

「大石以下17名を、肥後熊本藩当主 五代細川綱利は江戸藩邸に預かりました。
他藩では、赤穂浪士を罪人同然の扱いをしたようですが、
細川家では彼らを客分として扱い、帯刀を許し、
綱利の命で三度の食事も二汁五菜で厚くもてなしました。」
(忠臣蔵と細川家展の細川護煕氏あいさつ文より)

(現在残る肥後熊本藩 細川家下屋敷跡)(白金高輪) 


二汁五菜は、武家の正式な食事で、
本膳と二の膳に汁物が一品ずつ、おかずが二品ずつ置かれ、
別の膳に焼き物が出た。

記録では、細川綱利は、
「このたびのことは、忠義の至り、館に預かる事は武門の本望、
心易く、くつろぎ、数ヶ月の辛苦、昨夜の疲れを休めるよう」と、
ねぎらっている。

(討ち入りしたのは、藩の下級武士が多く、
上位のものが脱落したことを、
蔵之助は恥じていた。堀部弥兵衛は77歳で、
三代前から仕えてこの年になったこと、
討ち入りでは自分の志ばかりで大した働きは無く、
門番をしたに過ぎないと言っている。)(堀内伝右衛門覚書「赤穂義臣対話」より)

また、
「元禄十五年十二月十四日は、芝居では雪だった事になっていますが、
実は当日雪ではなく、前日に降った雪が一尺ほど残っていたようです。
また、芝居では、
炭焼き小屋に隠れていた上野介を眉間の傷で判明した事になっていますが、
本当は上野介が着物に炊き込めていた特別のお香で、
それとわかったと言います。
細川家の資料の中には江戸時代265年間、
担当者が毎日書きとめた日記などが含まれていますので、
父護貞の話はそれらによったものと想われます。」(同上細川護煕氏あいさつ文より)

討ち入りの日の雪は、本当は前日降ったものが残っていたものだったことや、
上野介を確認するのに、炊き込めた香によるものだというのは初耳だ。

この(忠臣蔵と細川家展)は、
2013年12月14日より2014年3月23日まで開催されている。

また、「切腹の折には、畳三畳の上に白ふろしきを敷いて、
大石蔵之助より切腹するも、
切腹する人が替わる都度、畳は新しく替え、介錯人も替えた。」

「切腹が終わった後、清めようとした所、17人は守り神であるから、
清めるには当らない」といったという。
(お預かり人始終覚書より)とある。

(切腹の現場の案内板)


その後、
宝永4年(1707)小川恒充作 「忠誠後艦録」6巻に、
忠臣蔵後始末を綴ってあるが、
「他家については分からないが、
細川家における扱いについては、ほぼ記述に間違いが無い」と、
細川綱利(1645~1714)が語ったという。

偶然、文京区目白台の永青文庫で(忠臣蔵と細川家展)が開催されており、
永青文庫からの展示物からの抜粋と感想を取り混ぜ報告します。

*永青文庫は、肥後熊本藩54万石の大名細川家に伝わる美術品の宝庫。
西暦1300年から700年の伝統を持つ同文庫は、
約11万2千点を持って構成されたコレクションとして知られる。
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泉岳寺(忠臣蔵を歩く 9)

2014年01月17日 09時00分00秒 | ひとり歩き旅
(泉岳寺山門)


(泉岳寺)
JR田町駅の手前左手にある第一田町ビル、三菱自動車のビル前に、
勝海舟と西郷南州会見の碑がある。

碑には、西郷吉之助書とあり、
「江戸開城 西郷南州 勝海舟 會見之地」と揮毫されている。

ここで江戸城 無血開城への相談がなされた田町薩摩藩邸のあった場所である。
当時は、すぐ海につながっており、
国許の薩摩より船で運ばれてくる米などを陸揚げした場所であると同時に、
一旦事ある時には、すぐさま海に逃れることが出来るように、
海辺近くに藩邸を選んだようである。
(勝海舟と西郷南州会見の碑)

(勝海舟と西郷南州会見の碑2)

(JR田町駅への案内看板)

(JR田町駅入り口)

話は余談になるが、同じような理由で、
各国公使館も海辺の寺院を選んだようである。
街道筋の本陣(諸大名の宿泊施設)も、
逃げ出すことが出来る裏口があることが絶対要件であったらしい。

話を戻して、赤穂義士四十七士は第一京浜を、
浅野家の菩提寺である泉岳寺へ向った。

やがて左側に高輪大木戸跡が見える。
ここは東海道経由で江戸に入る入り口で、
高札場があり江戸町内における定めなどが張り出されていた。
五街道のうち、東海道、甲州道中の大木戸跡が残されている。
大木戸跡は無いが、中山道にも大木戸があった事は、資料上解かっている。
(高輪大木戸跡)

(高輪大木戸跡の石垣)

(地下鉄泉岳寺駅)

(泉岳寺中門)


まもなく地下鉄「泉岳寺」駅で、左折すると、泉岳寺中門が見える。

赤穂浪士47人の一行は、12月14日吉良上野介義央の邸に、
討ち入りをかけ、首尾よく上野介の首を、
浅野家菩提寺の泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供え、
主君無念のあだ討ちが出来た報告をした。

これを記念して、
毎年12月14日は義士祭が行われる広告が泉岳寺中門に見える。
この日には本所松坂町の吉良邸より泉岳寺までのウォーキングが催される。

中門をくぐると、泉岳寺の山門が見える。
山門奥には本堂があるが、その手前右手に大石内蔵助銅像が建っている。
浪曲師 桃中軒雲右衛門の発願で建てた物だそうであるが、
手には巻物を持っており、
これは赤穂浪士四十七士の連判状であるといわれる。
(泉岳寺中門をくぐると山門が見える)

(泉岳寺山門)

(大石蔵之助良雄の像)

(大石蔵之助が手に持つ連判状)


またまた余談で恐縮であるが、
忠臣蔵のいろいろなエピソードは、口さがない江戸っ子が噂して、
講談や浪花節に面白おかしく、取り入れられたそうだ。
「赤垣源蔵東下り」の酒の上で、武士が雲助の駕篭かきに土下座した話、
父母がラジオで聞く浪曲でしか、ボクの記憶にはない。

泉岳寺本堂前で手を合わせ、左手の四十七士の墓地に進む。
何時行っても、この墓地には線香の煙は絶えない。
特に12月14日は、周りが見えなくなるほどの線香の煙で覆われる。
(泉岳寺本堂)

(史跡 赤穂義士墓所入り口)


義士の墓地入り口に、「史跡 赤穂義士墓所」の石柱があり、
石垣で囲まれた墓所通路がある。
通路の右手、石垣の外側に、「血染めの石、血染めの梅」の案内があり、
田村邸内の浅野内匠頭自刃の場所にあったものと記されている。

一段上の場所に、「大石主税の梅」の木がある。
大石主税は三田松平隠岐守邸内にて、同士九人の者と、
この梅の樹下にて切腹せしと伝えられている。

(田村邸にあったとされる自刃の血染めの石と梅)

(大石主税の梅)


その先に「首洗いの井戸」があるが、
吉良邸にもあったことを考えると、主君の墓前に供える前に、
もう一度この首を洗ったのであろう。
余談ですが、この首洗い井戸を囲む石垣に、
「川上音二郎」の名が入った石があるところを見ると、
石垣は明治になって作成されたものであることが解かる。

隣に「義商 天野屋利兵衛 浮図(*)」の石碑がある。
天野屋利兵衛は大阪商人で赤穂義士討ち入りの槍を作り与えたことで知られ、
「天野屋利兵衛は男でござる」と、討ち入りが終わるまで、
これを白状しなかった事で有名な人。

(*)浮図=(ふと)と読み、供養塔を指す。
(首洗い井戸)

(首洗い井戸2石垣に川上音二郎の文字が見える)

(天野屋利兵衛の供養塔)

(墓所入り口の門)


墓所入り口の奥にある門は、
浅野家上屋敷の裏門に当るものを移築したという。
入ると義士に捧げる(線香)を売っており、
一束100円也で、線香に火をつけて渡してくれる。
中に進むと、右手に浅野内匠頭公の墓と夫人の墓があり、
隣に石垣で囲まれた四十七士の墓があり、
墓の配置図が墓所に入る手前に示されている。
大石蔵之介良雄と息子の大石主税の墓、
この二つだけは屋根付きの蓋堂の中にある。

赤穂四十七士の面々は、吉良上野介の首を墓前に差し出し、
感涙に咽んだものと想われる。

その後、大石良雄以下16名は肥後熊本藩 細川家下屋敷に収容され、
切腹して、この物語は終わる。

(浅野内匠頭公の墓)

(浅野内匠頭公夫人の墓)

(墓の配置図)

(四十七士の墓)

(大石蔵之助の墓)

(大石主税の墓)(左側の小さい供養塔)

(堀部安兵衛の墓も見える)

(横川勘平の墓)

(神崎与五郎の墓)

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