楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

中山道の芭蕉句碑(芭蕉の道を歩く番外記)

2024年08月17日 04時21分27秒 | 芭蕉の旅


(芭蕉の句碑)
旧中山道を歩いていると、芭蕉の句碑が目につく。
最初が、上州の新町にある八坂神社であった。

(新町の句碑)


・傘(からかさ)に 押しわけ見たる 柳かな  芭蕉

であった。

八坂神社には大きな柳の木があって、垂れ下がる柳の枝を傘で
押し分けて見たと言うのである。

(軽井沢の句碑)

軽井沢の芭蕉句碑には、

・馬さへ ながむる 雪のあした哉   (芭蕉)

(芭蕉「野ざらし紀行」中の一句。
雪ふりしきる朝方 往来を眺めていると、多くの旅人がさまざま風態をして通っていく。
人ばかりでない駄馬などまで普段と違って面白い格好で通っていくよ。
碑は天保14年(1843)当地の俳人によって建てられた。)(軽井沢町)とある。

追分宿の芭蕉句碑には

・吹き飛ばす 石も浅間の 野分けかな  芭蕉翁

とある。


(旧中山道追分宿の句碑)

説明によれば、
大自然石に雄渾な文字で、更科紀行中の句が刻まれ、
芭蕉百年忌に当たる寛政5年(1793)佐久の春秋庵の俳人たちが
建立したとものといわれている。(軽井沢町教育委員会)


また、八幡宿には、

・涼しさや すくに野松の 枝のなり  芭蕉翁

があった。

(八幡宿の句碑)

普通庭にある松は枝振りなどが、美しく曲げられているが、
(この松は真っ直ぐに伸びた枝が自然でとても良い、
それが涼しげである)という意味であろう。

次に旧中山道 洗馬宿のはずれににあった石碑で

・入梅(つゆ)はれの わたくし雨や 雲ちぎれ 芭蕉

とあった。

(洗馬宿の句碑)

この意味がわかりにくい。

(中山道 平沢宿の句碑)


さらに中山道の平沢なるところにある芭蕉句碑には、

・送られつ をくりつ果ては 木曽の秋  芭蕉

と読める。

しかし、芭蕉句集には、

・送られつ 別れつ果ては 木曽の秋
がある。

どちらかと言うと、(別れつ)の方が意味が解りやすいし、
一つの文章に同じ言葉を二つ入れない方が
ベターという事から考えても、
(別れつ)の句の方が良さそうである。

このように、芭蕉は旧中山道上に沢山の句碑を残している。
以前、歩いていた木曽路には、多く芭蕉句碑に出会った。
(調べた範囲では、長野県だけで256個の句碑が存在する。)

芭蕉の句は、ボクが知っている範囲(高校生時代に知った)では、
紀行文の中にある自然を詠んだ句が多く、
とても理解しやすい俳句が多いと思っていた。

たとえば、
・あらとうと 青葉若葉の 日の光
・荒海や 佐渡によこたふ 天の河
・いざ行かむ 雪見にころぶ 所まで

などである。

また同時に、自然が織り成す余韻が心にしみ込むような俳句で、
これまたとても解りやすい。

たとえば、
・古池や 蛙とびこむ 水の音
・しずかさや 岩にしみいる 蝉の声

などである。

(古池や~の句碑/清澄庭園)

緑色の藻が浮かぶような古い池の傍を通りかかると、
岸にいた蛙が逃げるようにして、「トポン」と池にとびこんだ。
とても解りやすい。
また「蝉の声」は山形の立石寺で詠んだといわれるが、
高いところにある山寺の閑(しず)けさが伝わってくる。

記憶に残っており、すぐ出てくるだけでもこれだけある。
例を引けばもっとあるに違いない。

しかし前述、洗馬宿の
・入梅(つゆ)はれの わたくし雨や 雲ちぎれ

の句は、「わたくし雨や」がどうも意味がわからない。
2008年10月に、この石碑を見てから、考え続けてきた。

仕方なく、芭蕉の句の解説書に手を出して読んでみたが、
残念ながらこの句の解説を、見つけることが出来ず今日に至っている。

とうとう、芭蕉の恋句(岩波新書)、芭蕉俳句集(岩波文庫)を手にして、
勉強に励んでいる。

「おくのほそ道」を歩けば、芭蕉の気持ちが解るかもしれない、
そう思って、歩いているが、
芭蕉の心が分かるだろうか・・・

はなはだ疑問である。



(後ろに芭蕉の木が見える)


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山形の酒田市・日和山公園~終わりが山居倉庫(芭蕉の道を歩く 80)

2024年07月20日 05時10分44秒 | 芭蕉の旅
山形県の酒田市と聞くと、
思い出すのが日和山公園の灯台と北前船。
北前船の水夫たちは日和を見るために山に登り海と空を眺め、
航路の安全を願った。

酒田市が発展していったのは、
この北前船を動かした川村瑞賢。
米を運び帰りに塩、
土台となる石、鉄、都の雅の衣類などを
運んだ豪商であった。

(日和山公園の灯台と北前船の図案のマンホール)


(商いをした北前船の模型でも20人くらいは乗れる)

(反対側から見た北前船の模型)


(日和山公園の灯台。)


その日和山公園にある芭蕉像と句碑。


句碑は、
・暑き日を 海に入れたり 最上川

この「暑き日を・・」の句にぴったりの
写真も展示されていたので、

拝借。


「おくのほそ道」で、
「川舟に乗(のり)りて、酒田の湊(みなと)に下る。
淵庵不玉(えんあんふぎょく)と云う
医師(くすし)の許(もと)を宿とす。

・あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ
・暑き日を 海に入れたり 最上川」とある。

ここの「淵庵不玉と云う医師」というは、
本名:伊東玄順、医号:淵庵、俳号:不玉という人物。


(不玉亭案内標柱)


(不玉亭跡の碑)


曾良の旅日記では
「十四日 寺島彦助亭へ被招。俳有、夜に入りて帰る。暑甚。」
ここでの芭蕉の俳句
・涼しさや 海に入たる 最上川

歩いて近江屋三郎兵衛の宅跡も観たが・・・

(近江屋三郎兵衛宅跡の碑)


最後が、酒田市で有名な山居倉庫。北前船に載せた米の貯蔵庫であった。

(コメを貯蔵した山居倉庫)

山居倉庫の反対側


山居倉庫内にあるレストラン、「夢の倶楽」で昼食後解散した。



ボクは荘内ナンバーを始めて見たので、

パチリ、

そしてバス、新幹線と乗り継いで帰京した。
体力がなくなり、ツアーに依存しましたが、
ツアーについて一緒に行くことも難しくなりました。

「おくのほそ道」は
この後倶利伽羅峠から、
富山、小松、那谷、山中 他とつづき、
最後、大垣となりますが、私こと
年齢でこの後を訪ねるのは難しいと思います。

もしマイ・ペースで行くことが叶えば、
「おくのほそ道」つづきを綴りたいと思います。

お付き合いいただきありがとうございました。

羽黒山で頂いたお守りの袋。

・もろもろの 罪穢れを 払ひ給え 清め給え



楽しい人生の一日、一時間を
有効に
過ごされますように・・・















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最上川から清川へ(芭蕉の道を歩く 79)

2024年07月10日 04時36分11秒 | 芭蕉の旅
本合海から乗船した芭蕉と曾良、
船に揺られて清川で下船する。

(乗船した本合海の芭蕉・曾良像)

(本合海の最上川)

「おくのほそ道」では、
「最上川は、みちのくより出でて、山形を水上とす。
 ごてん・はやぶさなどおそろしき難所有。
板敷山の北を流れて、果ては酒田に入。
-中略ー
白糸の滝は青葉の隙ひまに落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。
水みなぎって舟あやふし。」
とある。

ボクたちが最上川の乗船場に着いたとき、
「水みなぎって舟あやふし。」どころか、
最上川は渇水状態で舟下りができない状態と言われ、
やむなく、行けるところまで行って、
Uターンして帰ってくるという案で我慢することとなった。

舟下りの感覚だけは得られたものの、
「ごてん・はやぶさなどおそろしき」などという所は無く、
水不足で、流れの荒々しい所は一切なく、
また、青葉の間に見えるはずの白糸の滝も水不足で、
青々とした木の緑しか見えず、
仙人堂の鳥居が小さく見えただけであった。

(最上川舟下りの御一行様)


芭蕉が下船したという、
清川は廃校となった小学校の後に、
関所もあり芭蕉像もあり、
その脇を最上川が流れている。

(清川関所への道)


清川小学校の最上川寄りの裏庭に堤防に向かって
清川関所跡の標柱がある。

(清川関所の案内)


(松尾芭蕉と清川の案内)

松尾芭蕉と清川の案内によりますと、
「俳聖芭蕉は、元禄2年(1689年)6月3日
本合海よりこの地に上陸し、清川を通って羽黒に向かいました。

・五月雨を 集めて早し 最上川

この名句は、その船の中で作ったものと、
言われています。
清川は往時、最上川の水駅として栄え、
この地に清川関所がありました。
その往時を偲ぶものは榎の古木と
隣の井戸だけとなってしまいました。」とある。

案内の中の英文は、90歳になって日本に帰化した、
芭蕉研究家ドナルド・キーンによる
「おくのほそ道」の英訳本の一部かと思ったが、
これはR.H. Blyth氏によるとあるが、
ボクはこの方を知らない。

・五月雨を     Collecting all
 集めて早し             The rain s of May
 最上川                 The swift  Mogami River

英語の直訳: 五月の雨を
       すべてを集めて       
       早い最上川 

ドナルド・キーン氏の英訳では、次のようになっている。

Gathering seawards                       直訳: 夏の雨を 集めて海へ
The summer rain,how swift it is!      なんて早いんだろう!
Mogami River                最上川は 

本題から外れてしまった。
元に戻そう。

(関所前の井戸と芭蕉像上の榎の葉)



(中央の木の左横にある白い清川関所の跡の碑)

(清川関所の門)




その横に庄内藩清川関所(船見番所)がある。


(船見番所)

(芭蕉が乗ったであろう川下りの舟の模型)


出羽三山神社入り口.

(出羽三山神社入り口)

(芭蕉も訪れた案内、隋神門前)

(隋神門)

(隋神門前で山伏と記念写真を撮る観光客)

(隋神門の奥、五重塔へ通じる下り階段)

この先は羽黒山五重塔を見て頂きたい.


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猿羽根峠(さばねとうげ)と新庄の「柳の清水」(芭蕉の道を歩く 78)

2024年07月03日 04時32分22秒 | 芭蕉の旅
「おくのほそ道」で芭蕉・曾良の旅は、
梅雨の雨に行く手を遮られているが、
大石田から猿羽根峠(さばねとうげ)を越えて、
新庄に行き本合海から船に乗り、
最上川を下っている。

猿羽根峠には奥の細道で芭蕉が通った道の案内もあり、
ボクたちはバスで移動。

(猿羽根峠旧道の案内)


案内によれば、
「松尾芭蕉は大石田から、
この猿羽根峠を越え新庄に向かった。
大石田からは高野一栄と高桑川水が
猿羽根峠にある阿弥陀堂まで見送ってくれた。」とある。

猿羽根峠の頂上には、その地蔵堂があり、
そこの阿弥陀堂を訪ねた。

羽州街道の一里塚脇の道路を左に入る場所にある石塔には、
「猿羽根山地蔵堂」とある。

(一里塚跡)

(猿羽根山地蔵堂)


案内に沿って地蔵堂に向かう。

(阿弥陀堂1)


(阿弥陀堂2)


猿羽根峠を越えて芭蕉は新庄に入り、
渋谷甚兵衛(俳号:風流)宅を宿とした。

・水の奥 氷室尋ねる 柳かな 芭蕉翁

これを風流亭での芭蕉の挨拶の句としている。

それが「柳の清水」に句碑として立ち、
観光客が句碑に群がっている。

(柳の清水と句碑)

(芭蕉句碑は日陰で読めなかった)

碑陰には、大島蓼太の俳句、

・涼しさや 行く先々へ 最上川  蓼太

これは陽当たりが良く読むことができた。

(柳の清水の句碑の裏面に陽が当たって読めた。)


(上の写真の拡大)

(渋谷九郎兵衛 盛信亭跡の碑)

翌日二日 昼過ぎより九郎兵衛(俳号:盛信)に招かれる。
誠信亭では、

・風の香も 南に近し 最上川  翁

を詠んでいる。
なお、句碑は先に行った猿羽根峠の地蔵堂の手前に残っている。

(「風の香も」の句碑)



新庄から本合海に移動して、
芭蕉はここから最上川の船に乗り酒田へ向かっている。

(おくのほそ道 風景地:本合海)

(芭蕉乗船の地:本合海の芭蕉・曾良の像)




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最上川の大石田(芭蕉の道を歩く 77)

2024年06月22日 04時04分33秒 | 芭蕉の旅
「おくのほそ道」を訪ねて、大石田→酒田へ行ってきました。

芭蕉は、
「最上川のらんと、大石田という所に日和を待。
ここに古き俳諧の種こぼれて・・・」
と書いている。

芭蕉は最上川の川下りの船に乗ろうと、
大石田に滞在中、俳諧の指導を頼まれ、
「おくのほそ道」には「わりなき一巻を残しぬ」と書いているが、

曾良の旅日記 俳諧書留には、
「大石田、高野平右衛門亭にて

・五月雨を集めて涼し最上川   翁
・岸にほたるをつなぐ舟杭   一栄
・瓜畑いざよふ空に影待て   ソラ
・里をむかひに桑の細道    川水

を初めとする四吟歌仙を高野一栄亭で
興行されたものである。

現在、高野一栄亭址の裏手には、

・さみだれをあっつめてすずしもがみ川 芭蕉

の句碑があり、
裏手の句碑の先は堤防で、
その堤防の先は最上川を臨む。

そのわずか川上に橋があり、
「大石田河岸船番所跡」がある。

(大石田河岸船番所跡と最上川) 橋の袂から映す。

(最上川にかかる橋)


(橋の袂から高野一栄亭址裏の最上川の下流をみる。)


(堤防下の高野一栄亭址の句碑の標柱)


(「さみだれを」芭蕉真蹟歌仙の碑の案内)

(「さみだれを」の碑)

(句碑を拡大したものの、写真の撮り方が悪く文字は読めない)


最上川にかかる橋を北へ行くと、
乗船寺がある。

大石田で思い起こすのは戦後
ここに疎開してきた歌人の斎藤茂吉。
茂吉は郷里の上山市に疎開して終戦を迎えた後、
大石田に移住し、多くの歌を残した。
住まいを聴禽書屋(ちょうきんしょおく)と名付け、
現在は町立歴史民俗資料館の一部となっている。

大石山乗舩寺には茂吉の墓がある。
「浄土宗 大石山水路院 乗舩寺」という。

(乗舩寺境内案内に見入る旅人)


(乗舩寺本堂)

(境内にある茂吉の歌碑)

歌碑

・最上川逆白波のたつまでに
 ふぶくゆふべとなりにけるかも 茂吉

なお、乗舩寺にある釈迦堂には、
日本では見るのが珍しい釈迦の涅槃像があって、
観光客の見物が多く見学待ちで時間がかかった。

(釈迦堂の案内)


(釈迦堂)


(釈迦の涅槃像)


同じ大石田にある石水山西光寺は時宗の寺で、
最上三十三観音第二十九番札所である。


(仁王門)

(阿形の仁王)


(吽形の仁王)

(本堂)

・さみだれをあつめてすずしもがミ川 芭蕉

(句碑)

脇句の
・岸にほたるを繋ぐ舟杭 一栄



日照りが強くて、汗を流しながらの見学であった。




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