楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
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ユーザーは良く知っている

2025年02月22日 04時52分37秒 | つれづれなるままに考えること

ボクの住んでいる集合住宅には19台置ける駐車場がある。
つい最近、この駐車場に置かれている車の
メーカーを数えて見てビックリした。

トヨタ7台、36.8%
ホンダ4台、21.0%
ダイハツ3台、15.8%
マツダ2台、10.5%
日産2台、10.5%
スバル1台、5%
合計19台。100%

今、ホンダと日産の提携の話題で騒がれているが、
ホンダが日産を子会社にすると話を持ち出した。
その理由が上の表でよく解る。

ボクがサラリーマンになったころ、日本の乗用車は、
日産のダットサンがよく出回っていた。
トヨタが日産に対向してコロナを発売したころの話だ。

街を走る乗用車はタクシーがほとんどで、
自家用車を持つ人はよほど豊かでないと持てず、
高値の花であった。

庶民はもっぱら自転車で、やがて原動機付自転車が出来て、
原付自転車が大流行した。
この原付自転車を売り出したのがホンダで
原付自転車から、バイクになりオートバイを軸にして発展し、
オートバイはホンダと言われるようになると、
ホンダは軽四輪に向い、
小型乗用車市場へ参入してきた。

モ-タリゼーションの発展に伴い、
マツダは貨物の三輪自動車から、
走行安定性のある四輪へ、そして貨物から乗用車へ、
スバルは軽自動車スバル360から、
各社が小型自動車へ参入してきた。

庶民も収入が増え自動車を買えるようになり、
東京オリンピックが開催された1964年ころは、
新幹線も開通し、高速道路も開かれたころは、
スピードが要求され、エンジンの改良が進んだ。

乗用車は、統合された日産プリンスのスカイラインGTR、
次いでトヨタのソアラなどを中心に、
各社の乗用車も普及していった。

このころから自動車は東京では日産、
愛知ではトヨタ、広島ではマツダが主力で、
各社市場の占拠率を競っていました。

現在では、上の駐車場の台数を見ると、
1.トヨタ
2.ホンダ
日産は後ろから数えた方が早い順位です。
ホンダが日産を子会社にとの話にはうなづける状況です。

一か所だけでは、不公平で、
いつも散歩するスポーツの森公園の駐車場にあった車を、
調べたところ、たまたま同じ結果となりました。

市場に出廻った総台数を調べた訳ではありませんので、
これが正しいとは言えませんが、
ユーザーは、よく知っているのですね。

(スポーツの森公園の駐車場)
Ⅰ.トヨタ 5台 33.3%
2.ホンダ 5台 33.3%
3.日産  2台 13.3%
4.マツダ 2台 13.3%
5.外車  1台  6.6% 
合計  15台 100%



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ボケ防止

2025年02月15日 15時05分10秒 | つれづれなるままに考えること
ボケの始まりは記憶できる力と言う。

(ボクの勝手な認知能力のテスト)
まず最初に、「昨日の夕飯は何を食べましたか?」の質問に、
「間髪を入れず」に答えられれば大丈夫。

ボクが勝手にやっている認知能力維持の訓練です。

以下は
精神科医の先生の話。
そこで認知力高上の訓練には、
昨日の「ポジ練」を毎日三つ挙げよう、と言うのである。

ここでハタと困った。
ポジレン?が思い出せないのである。
これって認知症の始まり?

千葉大の先生が話された講義であるから、
スマホで検索すれば、答えが出てくるに違いない。
そう思ってスマホで調べた。

「・ポジティヴ思えることを、
思い出したりするセルケアの練習法のこと」
と出てきた。

何のことは無いポジティヴな練習方法=ポジ練→ポジレン。
「褒めたいこと」「楽しかったこと」「感謝したいこと」
この三つを寝る前に思い出す。

それがポジレン!!

言葉を短くしないで、(ポジティヴな練習方法)にして置けば、
こんな苦労しないですものを、
今どきの学生には簡略してポジレンの方が受けるから、
このように話されたに違いない。

人は、
物事をネガティヴに考えるのが得意ですが、
それをポジティブに考えようという目論見です。

ボクがこの間、転んで少し右頬骨を地面で打って、
今、右頬に内出血の後が黒ずんで見えます。

この時、たまたま眼鏡をしていなかったので、
頬を打っただけで済みましたが、
眼鏡をかけていたら、眼鏡が割れて、
眼がつぶれていたかも知れない。

或いは打ち所が悪くて頭がい骨を、
骨折をして命を落としていたかも知れない、
そう考えるのがネガティヴな考え。

(少し急いで転んだから、
以後はどんな時でも急がないようにしよう。
もう高齢になって、急がなければならないことは、
何もないのだから)

そのように考えるのがポジティヴな考え。
これからは全てポジティヴに考えることにしよう、
千葉大の先生は、毎日ポジレンで、
ポジティヴなことを3個思い出してみよう、
と言うのだ。

それで少しは認知症への進み方が遅くなる。

毎日を陽気で明るく過ごそうと考えるのが

ポジレン。

これで行こう!!



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山茶花がよく咲いている

2024年12月23日 05時02分16秒 | つれづれなるままに考えること
山茶花がよく咲いている。

(白い山茶花1)



(ピンクの山茶花2)

(ピンクの山茶花3)

山茶花が散る頃、花びらで地面が白や赤の花の色にそまる。

この花を見ると友人を思い出す。

この時期になると、この友人から必ずと言ってよいほど、
ゴルフのお誘いが来るのだ。
友人は、大学のゴルフ部で腕を磨いた。
ボクはゴルフも下手で彼から見れば初心者並みなのだ。
彼がメンバーになって居るゴルフコースは、
四つほどあって、
プロ級の人たちがラウンドするコース、
距離が有って、ボクなんか難しくて、とても回り切れないと言う。
そのうち二つは、メンバー同士がプレイする、
やや上級のコース。

ボクがいつも連れて行かれるコースは、
メンバーの方たちが、
ボクのような初心者や、
取引先のお客様を接待するときに、
一緒にラウンドできるようにできた、
易しい優しいコースだ。

ゴルフ場の入り口に
「上着の着用をお願いします。」
と書かれている。
紳士のクラブのようである。

(赤い山茶花4)

彼はハンディキャップがシングルで、
君のような下手な人と回ると、
自分もスコアが悪くなると言いながらも、
ボクを年に一度は誘う。

彼のゴルフは、トータルスコアが90打になると、
舌鼓を打って残念がるのだ。

ボクは彼に手取り足取りで教えられながらラウンドして、
やっと120打そこそこで終了できる。

昼ごはんの時は二人でビールを飲みながら、
お互い独身の頃、
遊び歩いた話に花を咲かせた。

でも、その彼も2020年には鬼籍に入って、
山茶花が散る頃になってもゴルフの誘いは、
もう二度と来ない。

残念!!





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ヤシの実ー島崎藤村から東海林太郎そして・・・

2024年11月16日 05時02分38秒 | つれづれなるままに考えること
なぜ「椰子の実」を思い出したのか、
未だに分からない。

wikipediaによれば、
「椰子の実」は1898年(明治31年)の夏、
1ヶ月半ほど伊良湖岬に滞在した
柳田國男が恋路ヶ浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語り、
島崎藤村がその話を元に創作したものである。

1936年(昭和11年)7月、
日本放送協会大阪中央放送局で放送中だった
『国民歌謡』の担当者が作曲家の大中寅二を訪問し、
この詩に曲を付すよう依頼し、7月9日には曲が完成した。
以上は(wikipediaより)

歌ったのは東海林太郎で、
ポリドール・レコードで録音した。

椰子の実 東海林太郎

東海林太郎と言えば、
ボクは「名月赤城山」や「赤城の子守歌」で、
昭和初期に大流行し、東海林太郎が一躍有名になり、
明治生まれの父や母がラジオを聞いていたのを覚えている。


赤城の子守唄 昭和9年 東海林 太郎 (しょうじたろう) 唄


この歌を聞いて、在りし日の父母を思い出し、
目頭が熱くなった。

(とうさん! かあさん! 
 あなた方のお子さんは6人いましたが、
 今は、次女と長男だけになりました。
 二人は元気?に生活しています。
 どうぞ、安心してくださいますように・・・)

と祈るばかりである。




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ボッチ死って?

2024年11月14日 04時58分13秒 | つれづれなるままに考えること
今朝がたラジオを聴いていて、
インタヴューを受けている女性が、
「ボッチ死の館」を描いた作者だということが分かった。

話を聞いているうちに、
以前イラストレーターの仕事をしていた人が、
漫画を描こうという気になって始めたらしい。

やがてご主人を無くし、
ある時 周りを見ると、
ご主人を無くした女性がずいぶん沢山いることに気づいた。

住まいは多摩ニュータウンの集合住宅である。
太平洋戦争後の若者たちが結婚して住む家に困っている時代、
関西の千里ニュータウン、東京の多摩ニュータウン、
高島平団地など大型の団地が出来て、
沢山の人たちが住んだ。

その人たちが高齢化して、
平均寿命が短い男性が先に他界して、
残された女性たちが「ひとりぼっち」で住んでいる住宅が増えた。

やがて、そのご婦人たちも、一人また一人と寿命が尽き、
「一人ボッチ」で亡くなって行く、
これが表題の「ボッチ死」で、
そうした一人ボッチの人たちが大勢いる、
多摩ニュータウンの団地を「館」と呼び、
漫画として描いたのが、「ボッチ死の館」である。

集合住宅は、隣の人は誰なのか、
顔も知らない、最近は個人情報が漏れることを嫌い、
各戸に表札は出さないので、
どんな人が住んでいるのかも分らない。

一人ぼっちで、ある日急死しても、
隣近所の人たちも、気にも留めないで、
少し日にちが経って、異様な臭いが漂うことで、
真相がわかる。

そんなニュースが重なったりして、
集合住宅内で、コミュニケーションをとるよう、
考えられ始めている。

ここまではラジオのインタヴューで聞いたが、
後は眠ってしまったので、
この漫画を買って、どんな内容か、
読んでみたいと思っています。





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