楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

石橋宿の開雲寺(旧日光街道を歩く 56)

2016年10月29日 05時30分37秒 | ひとり歩き旅
(「石橋」の信号)


93km地点の先の信号「石橋」を右折するとJR石橋駅になる。
石橋宿から、次の雀宮宿までの旧日光街道には目立った建造物もない。
ただひたすらに歩くだけだ。

信号の手前右側に、本陣・脇本陣と並んであったようであるが今は見当たらない。
痕跡でもないかと探したが見当たらなかった。
この辺りが石橋宿の中心であったように思われる。

本陣は土地の広さや間口から考えると、
あるいは古いお稲荷さん?がある駐車場から、
どうもお茶屋さんがある辺りにあったように思えるのですが・・・・。

(お稲荷さんが見える駐車場)

(駐車場にあるお稲荷さん?)

(本陣かと思われるお茶屋さん)


JR石橋駅はこの「石橋」の信号を右折した所にある。
この信号を直進すると、右手に開雲寺の参道と山門が見える

(石橋の信号)


(開雲寺参道と山門)

(開雲寺山門)


山門をくぐると本堂が見え「葵の家紋」がでかでかと目につく。
これは江戸時代徳川将軍の日光社参の時、休息所となったお寺で、
三代将軍家光の社参の時御殿所が建てられ、後に下賜されました。
そのため寺紋に葵が用いられ、
土塀が城郭様式なのはこれに由来します。(資料による)

(本堂)

(葵の紋)


(寺をめぐる塀A)

(寺をめぐる塀B)

(銃眼)

(矢を射かける穴)


山門をくぐると左手には「三体地蔵堂」があり、
これは(安産、育児)(日限)(眼病)にご利益があるらしい。

(三体地蔵堂)

(日限)(眼病)

(安産、育児)


三体地蔵堂の右手に松が手を差し伸べている。
三代将軍家光がお手植えの松とその石碑である。

(三代将軍 家光お手植えの松)

(家光お手植えの松の石碑)


「石橋」の信号に戻り、JR石橋駅方向へ移動する。
駅前通りの商店街は「グリム通り」で、
グリムの里の旗がはためく華やかな気分にさせてくれる。

(「グリムの里」旗)

(「グリムの里」旗がはためく通り)


(石橋町はドイツのシュタインブリュケンと姉妹都市を結んでいる。
ドイツのシュタインブリュケンはグリム童話で名高いグリム兄弟の出身地で、
石橋町では、グリムの里づくりが進められており、
街中にはグリム通りがあったり、
JR石橋駅前にはグリム童話にちなんだ建造物が見ることが出来る。)(資料より)

JR石橋駅の階段には「からくり時計」が設置されており、
グリム童話作品の主人公が中に作られている。
一番上には、シンデレラと王子様の像が、二番目の窓にはオオカミと七匹の子ヤギの像が
時間が来ると動き出すのであろうか。

(グリム通りの案内)

(「グリムの里」旗がはためく通り)

(JR石橋駅の階段にあるからくり時計?)

(「からくり時計」の中の像)


グリムの童話で最も親しまれているのは
「シンデレラ」
「オオカミと七匹の子ヤギ」
「赤ずきん」
「ブレーメンの音楽隊」 etc.
であろうか。

時計を見ると14時半、秋の夕日は「釣る瓶落とし」と早いので、帰途に就く事にした。

家に帰って万歩計を見たら34000歩あった、約20kmである、

最初 道に迷った1万歩が恨めしい。

道に迷わなければ、雀宮宿まで行けたであろうに・・・・。

くれぐれも残念である。

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蓮行寺から「石橋」の信号まで(旧日光街道を歩く 55)

2016年10月26日 04時43分10秒 | ひとり歩き旅
小金井北の信号を右折すると蓮行寺の山門が見える。

(蓮行寺山門)


そもそも日光街道は、
日光に家康のお墓が有る東照宮があるからだとばかりボクは思っていた。
ところが、考えて見ると家康存命中に日光街道はできていたのだから、
お墓がある所為ではない。

家康が戦勝祈願を二荒山(ふたらさん)神社にしていたからだ。
(ふたらさん)神社は別の呼び方として(にこうさん)神社、
これを(日光)としたようだ。

(ようだ)と言うのはこの話はボクも聞いた話であり、確かめたわけではない。
宇都宮にも二荒山神社があるから、宇都宮の二荒山神社と区別するために、
日光二荒山神社としたのかも知れない。

徳川家康亡き後、天海僧正によって東照宮が造営され、
一旦、家康は静岡の久能山東照宮に葬られたが、
一年後日光東照宮に改葬されたので、
以後、徳川家康の墓参りは、毎年行われたようで、
その際、歴代将軍は、日光御成り道が利用された。

そのためか日光街道沿いの神社仏閣には徳川ゆかりの言い伝えや、
事実が数多く残っている。

ながながと日光街道について述べてしまったが、
表題の蓮行寺も徳川将軍にまつわる言い伝えが残っているからだ。

(ここ蓮行寺は、元徳元年(1329)、日秀上人の開基で、
一節には日行上人の創建ともいわれます。
徳川将軍の日光社参の際には、
宇都宮城主がこの寺で出迎えることになっていたと言うことです。)
(関東地方整備局宇都宮事務所の資料による)

蓮行寺の山門をくぐると正面に本堂があるが、
途中左側に手水場がり、さらに、その左奥が枯山水の庭となっている。
徳川将軍を出迎えた寺院であったからだろうか、
枯山水には鶴が餌を啄(つい)ばんでいる姿が見られ優雅に感じた。


(珠栄山蓮行寺)

(手水場横の枯山水に鶴)

(枯山水と本堂)


蓮行寺を出ると足元のマンホールが、この田舎にしてはモダンであった。

国道4号線に戻り、約300m先の右側、やや奥まった所に薬師堂がある。
奥まったと書いたのは、手前の左手には、上町公民館となっており、
境内右手には、写真を撮る腕前が悪くて、見えますでしょうか、
歴代住職の墓石や地蔵さんが並んでいます。
一節には薬師堂ご本尊は、奈良時代の僧、行基の作と言います。
薬師堂の中を見ましたが暗くて見ることが出来ませんでした。

薬師堂裏手は畑になっており、数百メートル先には東北本線の高架が見えます。
街道を少し歩くと左手に超モダンな建物が、畑のど真ん中に見えてきます。
近づくとこれが下野市役所です。

(マンホール)

(薬師堂)

(薬師堂薬師如来の扁額)

(出来たばかりに見える下野市役所)


下野市役所を通り越して少し先にJR自治医大駅右の信号を過ぎると、
右側に巨木の松が並ぶ林が続きます。
そして(下石橋)の信号を過ぎると左手に丸大食品のマークの看板が見え、
慈母観音像見えてきます。

(JR自治医大駅の看板がある信号)

(巨木の松がある林A)

(巨木の松がある林B)

(巨木の松がある林C)

(下石橋の信号)

(慈母観世音の銅像)


さらに進み、右側に古い長屋門や合掌造りの家などが見ますが、
これはとんかつ屋さんの建物です。

やがて左側に、国道4号線を造った時の名残でしょう、
お寺さんの墓域を道路が横切った感じに、道路わきに墓石が立ち並びます。
そのお墓が並んでいる先に屋根付きの石造群が見えてきます。
道路には背中を見せて並んでいます。
石造群の先に見えるのは、(下石橋北)の信号の立体交差が見えてきます。

(立派な長屋門は街道沿いのとんかつ屋さん)

(道路に背中を見せた石造群と先に見える立体交差)


石造群が背中を見せていると言うことは、
本来の旧日光街道は、この石造群を挟んで反対側にあったと推測されます。

石造物群の表側を見ると、青面金剛の庚申塔やお地蔵さま、
右の頬を手で押さえ物思いにふける半跏思惟像(はんかしいぞう)など、
近隣の村落にあったものが集められた10体のようだ。

(10体の石造群)


(下石橋北)の立体交差を越えて、先に進むと左手に往時を偲ばせる黒塀に、
その黒塀に見合う古い門が見える。
またその先にも由緒ありげな家屋が見える。
旧家であったのであろう。

(黒塀と門)

(由緒ありげな家屋)


すぐ左手には愛宕神社が見えてくる。
(愛宕神社は、創建天平宝字3年(759)と言う古社で、
境内には天照大神、八坂大神、スサノウノミコト、熊野大神の4社が祀られている。
この神社の境内は愛宕山古墳と言われています。)(関東地方整備局宇都宮事務所の資料より)

(愛宕神社の鳥居)

(愛宕神社)


この辺りで東京から93km地点、この先の信号が「石橋」で、
右折するとJR石橋駅。

(東京から93km地点の標識)

(「石橋」の信号)





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慈眼寺(じげんじ)ー金井神社(旧日光街道を歩く 54)

2016年10月22日 04時45分58秒 | ひとり歩き旅
小金井の一里塚を過ぎて旧日光街道は国道4号線と合流している。
進むと慈眼寺(じげんじ)の看板がある。

七福神の一つらしく、門前に布袋様の石像がある。
その並びに庚申塔、二十三夜塔などが並んでいる。

(旧街道が合流している国道4号線)

(慈眼寺の看板)

(布袋様の石像)

(その他の石造群)


左奥に山門が見え、慈眼寺と刻んだ自然石が置かれている。
山門には「関東八十八ケ所霊場 第二十番札所 多宝山慈眼寺」と書かれた木札が掛けれている。

(山門)

(自然石の慈眼寺、真言宗智山派とある)

(関東八十八ケ所霊場 第二十番札所)


資料によれば、
(慈眼寺は上野の国の豪族 新田義兼で新田一族の祈願所として建立され、
ご本尊の十一面観世音は京都の醍醐寺より請来し、厄除の観世音で知られた。
建久7年(1198)に創建された古刹です。
境内には、江戸時代の建造物として観音堂や鐘楼が現存しています。
また、本堂南側には徳川将軍社参の際の御成り御殿がありました。)とある。

山門を入ると、すぐ左手に朱色の観音堂があり、通路を挟んで右手に古式の鐘楼がある。

(朱色の観音堂と十三重塔、通路を挟んで奥に見えるのは本堂)

(通路の脇にある灯篭には徳川の三葉葵紋が描かれている)

(朱色の観音堂)

(千手観世音の扁額)

(奥にある本堂)

(本堂の扁額 慈眼寺)

(屋根に見える葵の紋)

(右手の鐘楼)

(奥から見た江戸時代の古い鐘楼)


千手観世音を観音堂の隙間から覗いて見たが見ることが出来なかった。
しかし、観音堂の左手に石造りの立派な観世音があるので、我慢いただきたい。

(観世音菩薩)


鐘楼の手前には弘法大師の立像があり、足元に仏足跡がある。

(弘法大師立像)

(仏足石)


慈眼寺を出てすぐ隣に「村社 金井神社がある。

金井神社は一間三方入母屋造りの建築様式で、
壁面には天保~嘉永期(1830~50年代)の製作と推定される
壮麗な彫刻が施されている。
古くから小金井宿の鎮守として信仰されてきた。(資料から)

(「村社 金井神社」の石柱と鳥居)

(奉納された灯篭の数々)

(灯篭と鳥居)

(神社拝殿)

(金井神社の扁額)

神社の本殿は、厳重に赤い板で囲まれており、中が暗くて見えない。
しかし現在にカメラはレンズさえ入れば多少暗くても見事に映し出してくれる。
彫刻は何が刻まれているか、何か物語のように見えるが・・・

(金井神社本殿の壁面A)

(金井神社本殿の壁面B)

(金井神社本殿の壁面C)


なお、神社名の「金井」は「金(キン)が湧き出す井戸」と言う意味があり、
転じて、願いが叶うに通じると言う。
縁起が良いとされ、初詣、七五三などお祝いに参詣される。

金井神社の先隣に、小金井宿旧本陣跡を示す門構えが残されている。
この旧本陣には、明治22年(1889)には国分寺村が発足したとき、
村役場が置かれていました。(資料による)

(小金井宿旧本陣跡の門構え)

(小金井宿旧本陣跡の門構えB)


この先街道を偲ばせる古い家が散見される。倒壊しそうな建物には危険防止の作画してあった。
この辺りでが日光街道東京から87km地点である。

(古い家)

(東京から87km地点の表示杭)


その先に、朝方、道路に迷って出てきた小金井北の蓮行寺が右手奥に見えてくる。


(小金井宿から雀宮宿までの旧日光街道は観るべきものがほとんど見当たらない。
それでも我慢して歩きとおしましょう。宇都宮宿より先には、
観るべきものが沢山ありそうですから。)
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小金井宿から石橋宿へ (旧日光街道・奥州街道を歩く 53)

2016年10月15日 03時10分15秒 | ひとり歩き旅


JR小金井駅を下りる。
前回改装中であった駅舎も綺麗になって養生シートが外されている。
駅前に「C57蒸気機関車の車輪」が展示してあったのを思い出した。

(JR小金井駅)


(C57機関車の車輪)


綺麗に整備された駅前ローターリーを回って先に進む。
駅を振り返ると、前回気がつかなかった観光案内所が目についた。
戻って、下野市(しもつけし)小金井の観光案内地図を頂く。

道路を先に進むと国道4号線と交差するが、
地図によれば旧日光街道は、もっと先の交差点を右折する様になっている。

やがて左手に、女性の銅像らしきものと電車の客車が展示してある公園らしきところが左手に。
その先に信号がある。地図によればここが旧街道(?)と思い右折する。
旧街道にしては、どうも道が広すぎる。

(女性像と客車がある公園)

(悠久の翔の女性像)

後で解ったことであるが、公園は日酸公園と言う。
(日酸公園の地図)


仕方なく右折すると、
みずみずしい茄子が如何にも「秋茄子は嫁に食わすな」と言いたげな茄子畑。
しかし、旧街道にしては立派な広い道路である。
(茄子畑)


かなり長いな距離を歩いて道路は突き当たり、右折して国道4号線に出る。
「小金井北」の信号を渡った先にお寺の門らしきものが見える。
道路案内に「蓮行寺」とある。

(奥に見える蓮行寺の門)


地図によれば蓮行寺は、JR小金井駅を出て約15kmある。
旧街道には、蓮行寺までには見るべき一里塚や本陣跡、他に寺社がある筈である。

スタート時点でどうやら道を間違えてしまったようだ。
女性の裸婦像に見とれたり、畑の秋茄子に見とれていてはダメで、
街道歩きに専念していない証拠である。
年齢の所為にはしたくないが、昨日まで歩けるだろうか、
途中で動けなくならないだろうかなどと、
変な考えに凝り固まっていたに違いない。

気を取り直して、スタート地点に戻ることにした。
国道4号線を戻ると、「村社 金井神社」「慈眼寺」などがある。
地図をよく見て見ると、国道4号線の内側の道が右手に見え、
その先に国分寺小学校がある。
この道が旧日光街道と見当をつけて、その道に入る。
道路幅と言い旧国道らしく感じる。
なお進むと左側にこんもりとした木が見える。
(史跡 小金井の一里塚)

大木に近づくと「史跡 小金井の一里塚」がある。
JR小金井駅から最初に出会うはずの遺構であった。
さらに旧街道らしき道路を進み、JR小金井時駅からきた道路にでる。
やれやれ振出しに戻ったのは良いが、9時にスタートしたのに、
10時半になってしまった。それにもう一万歩も歩いている。
自分が間違ったのだから仕方がない。


それでは旧日光街道の歩きなおしを始めよう。
JR小金井駅を西口に降り、目の前の直進道路を進むと国道4号線に出る。
その交差点、右向こう角に「こぐま生花店」があり、
裏手に「平野不動産」がある。

(こぐま生花店)

(平野不動産手前の道を右折)

(旧街道を右折すると見える大きな木)


生花店と不動産店との間にある道路を右折すると、
前方に一里塚らしき大きな木が茂っているのが見える。
ここが旧街道でその先が小金井の一里塚である。
道路を直進すると、一里塚は小さな畑に遮られ、
畑の向こうにその塚はある。

(小さな畑と左右にある一里塚)


一里塚は道路を挟んで左右にあるものであるが、
左右の間は空間になっていて塚に植えられた榎が影になって日よけになる、
保育園児の格好の遊び場になっている。
片言も話せないチビが、ボクを見てニコニコして手を振っている。
こんな子供たちを見ていると気持ちが和み癒される。
保育士の方が見つけて「こんにちはと挨拶しましょう」と言うと、
子供は、こっくりと頭を下げた。

塚と塚の間の道路は、そこにだけの空間となっており、前後には道らしきものはない。
二つ並んだ一里塚は東西にある。東側の塚のさらに東側を、
国道4号線が南北に走っている。

国道4号線へ出て見ると、何のことは無い歩道上に
(小金井の一里塚)左の案内看板があるではないか。

(小金井の一里塚の案内)


この案内看板を見て、何も旧街道を探さなくとも4号線を歩けば一里塚はすぐ見つかったのに、
そう思うと、どっと汗が出るは急にお腹もすいてきた。
小金井の一里塚の案内看板の先にマクドナルドの看板が見えるので、
腹ごしらえに入った。

もう11時を回っている。

この先どうなることやら・・・・

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パソコンの異常と再出発について

2016年10月13日 17時58分34秒 | 日記
9月3日使用中のパソコンのディスプレイに異常が発生。

メーカーにパソコンを修理に出しました。

連絡によるとCPUからの接続に不具合が生じ、

修理代5400円也。


修理期間約2週間で、当初は手持無沙汰でいましたが、

PCが無い事にだんだん慣れて、他の事で気を紛らせていました。

修理が終わってPCが帰って来ても、無い間に慣れた生活に魅力を感じ、

しばらく手も付けずにいました。



10月になって旧日光街道を小金井宿から石橋宿まで歩きました。

その記録を掲載して、元のパソコン生活に戻ることになりました。



実に45日ぶりです。

急に涼しくなってきました、

風邪など引かぬように頑張ろうと思います。

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