(吉水神社)
金峯山寺から―吉野山のいわゆる中千本からー上千本へ向かう途中左手に、
吉水神社の鳥居がある。
看板に世界遺産とある。
[吉野の世界遺産とは、「紀伊山地の霊場と参詣道」は、
「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」の3つの霊場と「大峯奥駈道」、
「熊野参詣道小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路」と
「高野山町石道」の参詣道で構成されています。]
(世界遺産 吉水神社、その鳥居)
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(吉水神社の石柱)
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鳥居をくぐると参道の坂を下り、また上ると吉水院の門前に至る。
(吉水神社の参道の下り坂)
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(吉水神社の参道のぼり坂、「従是 吉水院」の石碑)
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(吉水院門前と「天莫空勾践時非無范蠡」の十文字)
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門前右手に「天莫空勾践時非無范蠡」と、
児島高徳の有名な十文字の漢詩がある。
この十文字は、
「天(てん) 勾践(こうせん)を空(むな)しゅうすること莫(なか)れ、
時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず」と読む。
これは後醍醐天皇が元弘の変に敗れ、隠岐の島に流される途中、
忠臣 児島高徳が桜の木に刻んだ十文字の漢詩。
後醍醐天皇と忠義の家来 児島高徳の間にこそ理解が出来る漢詩で、
これを伝え聞いた後醍醐天皇は、感動に莞爾として微笑まれたと言われる。
このいきさつは、「太平記」に詳しいと思われる。
また。十文字の漢詩は、中国の春秋時代、
越の国王・勾践と忠臣范蠡の臥薪嘗胆の故事になぞらえて作った詩で、
その史実は、中国春秋の時代(紀元前405年から約370年間)の事らしい。
吉水神社は、昔は「吉水院」といい、
1300年ほど前、役行者が創立した修験宗の僧坊であった。
吉水神社の書院には、兄頼朝の追手に逃れた義経が静御前と弁慶とともに、
この吉水神社の書院に隠れ住んだと伝えられている。
(義経の鎧(重要文化財)
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(弁慶思案の間)
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また、南北朝年間には後醍醐天皇が吉野に御潜幸になり、
吉水宗信の援護のもとに、へき地の吉水院を南朝の皇居とされた。
南朝五十七年の歴史はここより始まり、
現存する南朝唯一の行宮となっている。
(南朝の皇居の看板がある書院前)
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(後醍醐天皇の玉座)
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金峯山寺から―吉野山のいわゆる中千本からー上千本へ向かう途中左手に、
吉水神社の鳥居がある。
看板に世界遺産とある。
[吉野の世界遺産とは、「紀伊山地の霊場と参詣道」は、
「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」の3つの霊場と「大峯奥駈道」、
「熊野参詣道小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路」と
「高野山町石道」の参詣道で構成されています。]
(世界遺産 吉水神社、その鳥居)
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(吉水神社の石柱)
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鳥居をくぐると参道の坂を下り、また上ると吉水院の門前に至る。
(吉水神社の参道の下り坂)
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(吉水神社の参道のぼり坂、「従是 吉水院」の石碑)
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(吉水院門前と「天莫空勾践時非無范蠡」の十文字)
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門前右手に「天莫空勾践時非無范蠡」と、
児島高徳の有名な十文字の漢詩がある。
この十文字は、
「天(てん) 勾践(こうせん)を空(むな)しゅうすること莫(なか)れ、
時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず」と読む。
これは後醍醐天皇が元弘の変に敗れ、隠岐の島に流される途中、
忠臣 児島高徳が桜の木に刻んだ十文字の漢詩。
後醍醐天皇と忠義の家来 児島高徳の間にこそ理解が出来る漢詩で、
これを伝え聞いた後醍醐天皇は、感動に莞爾として微笑まれたと言われる。
このいきさつは、「太平記」に詳しいと思われる。
また。十文字の漢詩は、中国の春秋時代、
越の国王・勾践と忠臣范蠡の臥薪嘗胆の故事になぞらえて作った詩で、
その史実は、中国春秋の時代(紀元前405年から約370年間)の事らしい。
吉水神社は、昔は「吉水院」といい、
1300年ほど前、役行者が創立した修験宗の僧坊であった。
吉水神社の書院には、兄頼朝の追手に逃れた義経が静御前と弁慶とともに、
この吉水神社の書院に隠れ住んだと伝えられている。
(義経の鎧(重要文化財)
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(弁慶思案の間)
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また、南北朝年間には後醍醐天皇が吉野に御潜幸になり、
吉水宗信の援護のもとに、へき地の吉水院を南朝の皇居とされた。
南朝五十七年の歴史はここより始まり、
現存する南朝唯一の行宮となっている。
(南朝の皇居の看板がある書院前)
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(後醍醐天皇の玉座)
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