太平洋戦争が終わった時、
ボクは9歳だった。
食糧難で配給の食糧では、餓死する人がいた。
食べ物を闇市で手に入れるなんて、
曲がったことが出来ない、
裁判官や検事、警察の偉い方などなどは、
餓死寸前に
皇居前の広場で切腹自殺・・・
何人もいたのが新聞に載った。
子供のボクの記憶に残るのは、
配給になる食糧と言えば、大豆、砂糖・・・
これが三食のご飯となる。
大豆は炒って醤油をかけて味を付け、ボリボリ食べた。
大豆はまだよい方で、
キューバからの支援でキューバ糖なるものが配給された。
どこから手に入れたのか、
母が大鍋に一握りの小豆にたっぷり水を入れ、
そこへキューバ糖を入れる砂糖水。
母は、「ゼンザイよ」と言って食べさせたが、
丼に小豆は1個入っていればOK。
小豆の味がするだけの砂糖水をがぶがぶ飲んで、
学校に出かけた。
家族は全部で8人、
大なべの偽ゼンザイも瞬く間になくなった。
父は朝食は会社で提供されるから、
と言って何も食べずに会社に出かけた。
その頃表題の「東京ブギウギ」を笠置シズ子さんが歌って、
国民の気持ちを明るくさせてくれた。
1947年と言うから昭和22年のことだ。
笠置シヅ子 東京ブギウギ
この歌で、世の中随分明るくなった気がする。
ご飯の代用食のお芋の朝食になってから、
会社で朝食が出ると言って、
朝食を食べなかった父が食べるようになった。
母が耳打ちしたことによれば、
会社で朝食が出ておらず、
父は子供たちに少しでも多く食べさせようと、
自分は朝食抜きにしたと言う。
子を思う父の気持ちにハッとした・・・
生涯忘れられない。