楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
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     ・おくのほそ道を歩く

授業参観:道徳 2(学校教育 5)

2006年10月28日 08時23分00秒 | つれづれなるままに考えること
(道徳 2)

翌週、別の公立中学校の道徳の授業参観をした。受付で署名して上履きを借り、
1,2,3年生の教室の場所を訊き、前回のように各学年の授業を参観した。

まず、最初に女生徒と出会った。すぐ
「こんにちは!」と元気よく挨拶され、
「どちらに御用ですか?」と訊ねられた。どちらと決まったこともないので、
返事に間が空いてしまったが、
「今日は授業参観に来ました」と答える。そうしたら1.2.3年生の
部屋の位置を丁寧に教えてくれた。すごく気持ちよい対応であった。
最近、学校に不審者が侵入して起こす事件があるが、
見知らぬ人が構内にいたら、きちんと声をかければ、
防犯の一助になるな、などと考えながら、
「ありがとう、あなたは何年生ですか?」ときくと、2年生と言う。
後でお邪魔しますといって別れた。
階段を上がり下りしながら、教室を確認して、一年生の教室に行くと、
男子数人がふざけて取っ組み合いをしている。
抑えられた子が、抜け出したところで、ボクとばったり出くわすと、この子達も
「こんにちは」と一斉に声をかけた。そのように学校で教育されているのであろうか?
「中学生になって、まだこんなことしているの?」と取っ組み合いのことを聞くと、
「ハイ!とても楽しいです」と答えて、ばたばた走ってどこかへ行ってしまった。
悪びれず、はきはきしていた。

鐘が鳴り、授業がはじまる時が来た。先生らしき人が来たので、
「授業参観させていただきます」と言うと、軽く会釈された。
先生が教室に入ると、
「起立、れい!」で始まる授業がはじまった。規則正しい。
生徒は誰も後ろ向きの人はいない。学校備え付けの道徳の教科書で
授業が始まる。前回参観した学校は、特別なプリントが教材であったが、
今回は教科書に沿って授業は進む。
ちゃんと教科書はあるのだ。

教科書の内容は、向井千秋さんの話「宇宙のめだか」。

先生が「向井千秋さんを知っていますか?」と聞いたら
生徒の一人が答えた「アメリカで代理出産をして、今、
戸籍の件でもめている人」
先生「それは 向井あきさんでしょう」生徒たちの笑い声。
他の生徒が答えた「スペースシャトルで宇宙に行った人です」

教科書には、宇宙に行っためだかの卵が孵る様子が描かれている。
そして、向井さんが宇宙から眺めた日本、
宇宙船に乗りたいと思った夢の実現に向けての
努力の様子が書かれていたようだ。

夢と希望は持ち続けよ!そのための努力を怠らなければ夢は実現する。

そんなことを教えたい意図がはっきりしている。
これなら道徳教育としてOK。ボクは勝手に太鼓判を押した。

しかし、前回述べたような学校と比較すると今回参観した学校とでは、
雲泥の差があるのは歴然としており、
学校によって教育指導がこんなに違っては、
前回訪問した学校で教わる児童にとって不幸なことである。

私立中学校に生徒の四分の一が行ってしまうのも
無理はない。

孫娘は、来年中学に進学するが、今回参観したような学校に通わせたいものだ、
そう思った。




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授業参観:道徳 (学校教育 4)

2006年10月24日 08時07分00秒 | つれづれなるままに考えること
(授業参観:道徳)
道徳、昔は修身といった。この時間にこんなことを教えていますと、
教育委員会が授業を公開している。その授業を参観した。
中学生の授業を参観する人の数は、保護者会などと違ってまばらであった。
1年から3年まであるのに10人に満たない。
親はどんな道徳教育をするのかほとんど関心がないようである。

学校に入ると受付があって、そこでサインをして、1~3年生のどのクラスの授業を参観してもよい。
スリッパを貸していただいて、校舎に入る。
1年は1階、2年は2階、3年は3階、年齢によって?危険防止のため?
どのように階層を決めているのか解らない。

騒いで取っ組み合いをしている人、飛び跳ねて追いかけっこをしている人、
黒板に訳の解らない落書きをしている者、本を読む人、かたまって雑談をしている人たち、いろいろである。
沢山の人たちの中、各学年でたった一人「こんにちは」と挨拶をする人がいた。
挨拶をしたのは都合3人だけ。
途中、何人かの大人に出会ったが、先生であろう、さすがどの方も
「いらっしゃいませ」と挨拶をされた。

1年生の授業。何時始まったか解らない。
教室の後ろの黒板に明日の注意事項が書かれている。
体育:運動着を忘れないように。
国語:(読めない字が羅列してある。)
社会:×××・・・

先生「明日の注意事項を忘れないように」
こんな言葉で授業は始まった。全員机に座っているが、
後向きになっておしゃべりしている子が二人いる。
注意事項といっても、何が書いてあるか分からない項目があるが
先生はお構いなし。後ろ向きでおしゃべりしている子がいても、
注意もしない。はたしてこれで良いの?不思議に思う。
道徳の授業以前に学ぶことはありそうである。

何が書いてあるか分からない項目にはかいた人を注意し、
書き直させるぐらいのことは必要だ。
他人とのかかわりを大切にする心構えを持たせるつもりなら。
後ろ向きでおしゃべりをしている子供にも注意をする必要がある。
教わるものの態度ではない。

ボクがサラリーマンになって十年後から毎年のことであったが、
新入社員教育で、部門の紹介と社員としての心構えなどを
話す講師を仰せつかった。持ち時間は1時間。
受講生の中には、学生生活の延長気分で、
この中学生と同じように後ろ向きになって話している人が毎年いる。
ボクは、話を始める前に、自分の立場をしっかり説明する。
その間に後ろ向きの人が態度を改めないと、話をやめてじっとその人を見つめることにしている。
ものの数秒のことである。
この場合、沈黙ほど注目を集める方法はないことを、ボクは良く知っている。
回りがシーンとなったのに気づいて、後ろ向きの人が姿勢を正したら次のように話す。
「過ぎ去った時間を取り戻すことが出来ないように、ボクの話を聞き漏らしたら、
二度と聞くこと出来ません。今後、会社内でいろいろな体験する中で、
聞いておいてよかったと思う人が、どんなに多いかをボクは知っています。
また、ボクは好きで講師を買って出たわけではないのです。
やりたくないけれど、会社のメイレイですから、ここに来ています。
この時間に本来の仕事をしていれば、この一時間で何百万の売り上げが出来るかわからないのです。
それを置いておいて、ここにいるのですから、少なくもその金額の値打ちはあるのです。
話すほうもしっかり話しますから、聞くほうも、しっかりお聞きください。」と。
まず姿勢を改めさせる。

その昔、ボクは教師になりたかった。大学で教職課程を専攻したが、
最初の一年で教師になることを断念した。
その理由は、教職課程の必修科目の中にある教育哲学がDであったからだ。
人にものを教える立場に立つ人の人生哲学があるいは教育哲学が、0点では、
教師の資格なしと自分で判断したからだ。

(その頃、100点以外は0点と考えていた。先生は絶対で採点も絶対間違いはないと思っており、
採点するのは人間で間違いを犯すのも人間であるという、疑いを持たなかった。
以前も以後もボクの人生哲学は変わっていないが、今でも間違っているとは思えない。)

人に物を教えるとき、真に必要とすることを教えるという立場を貫く。
話は面白くないかもしれないが、今後欠かすとサラリーマンとしてやっていけない内容だから、
静かに聴いてもらえる。
いつも午後1~2時の持ち時間が多い。なのに、居眠りをする人は誰もいない。
教育部の課長さんが講師の見張り役で聞いているのに、毎年同じような時間に、
講師をさせられたのは、話の内容が面白かったからに違いないと、
勝手に自負している。

さて、中学の道徳の授業であるが、何を言いたいのかさっぱり理解が出来なかった。
言いたいことを(教えたいことを)真綿に包んで、さらにその上に毛布をかけたような教材なのである。
小4の子供を持つ娘に話をすると、
今の教育は問題を提起して、子供たちに解決策を発想させる、そんなやり方だという。
ボクも頭は良いほうではないが、良くないボクには何を教えたいのか解らない、
まして子供にわかるはずがないのである。

授業後の生徒を捕まえて、何人かに
「今の授業で何を教わったの?」
と訊いたが、誰も回答できなかった。

娘いわく「そう思ったらそれを改善するように行動すればよいのでは?
パパらしくない」
たった一校、この一回の授業参観で結論を出すわけにもいかない。
すぐさま教育委員会を訪ねて、授業内容がさっぱりつかめない。
どんな教え方をしていて、何を教えたいのか?
教えたいことに相応しい教材なのか? 
質問した。
自治体の教育委員会では、1~3年生にわたって教えたいことは決めてあるが、
教材は各学校に一任してあるという。
それでは、教えたいことは同じでも、学校によって教材が違うから、
習熟度は学校によって変わるということになる。
わかりやすい教材を使って授業をしたところと、そうでないところに
格差は出来て当然だ。

そんないい加減なことでよいだろうか・・・


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授業参観:英語 その2(学校教育 3)

2006年10月16日 08時19分00秒 | つれづれなるままに考えること
(授業参観:英語 その2)
前回の続き。公立中学一年生の授業参観をした。英語の授業である。
この学校は中高一貫校で、指折りの進学校であることは先に書いた。

そこで疑問に思ったのが、発音の問題。
この発音で英語は通じるのだろうか?

授業参観の後の懇談会で、英語の先生にお尋ねした。
「英語の発音はどのように教えていらっしゃるのですか?」と。
どうも特に教えていなくて、月に何回かネイティヴ・アメリカンが来て、
授業があり、その授業の中で発音は教わるらしい。
「ボクが英語を習ったときは、夏休みまでの三ヶ月間、英語の教科書はありましたが、
先生が教科書と同じ内容で、英語を発音記号でプリントして、
発音を一つ一つ教えながら授業が進みました。
だから今でも新しい単語が出てきても、発音記号を見てどう発音するかが解ります。
今勉強している子供たちが、新しい単語が出てきたとき、
どのように発音すればよいか解りませんね。」と。
それ以上はボクも追求しなかったが、教育委員会にはしっかり意見を申し述べておいた。

「鉄は熱いうちに打て」のことわざ通り、習い初めに教わったことは終生忘れないという。
特に言葉は、その研究結果が示すとおり、小学生から中学生にいたる年齢に身につけると
よい結果が出るといわれる。
この間に覚えた言葉こそ、真に身に付くのという。
言葉は使って理解してもらわなければ、何の役にも立たない。
読み、書くことは出来ても、会話で自分の意思を伝えることが出来ないのであれば、
それこそ身振り手振りで、日本語を話して自分の意思を伝えることで用は足りる。
それとも、会話をしてくれる電子辞書で、解決しようと言うのであろうか?

自分のことで恐縮であるが、セガレは中学、高校、大学も公立であった。
親が言うのもはばかられるが、すべてよい成績で学校を卒業したと思っている。
その息子が大学卒業旅行をした。バイトで貯めたお金にボクが多少援助して、
ひとりで30日間、ヨーロッパを歩いた。いわゆるバックパッカーと言うやつだ。
帰国後話を聞くと、英語がほとんど通じなかったと言うのだ。
「情けないなあ、ボクなんか一度も通じなかったことはないよ!」というと
「嘘だ~、通じるはずがないよ!」と言った。

もう一つ、四年前、甥がギリシャにおける日本大使館勤務になった。
親戚のみんなに(ギリシャに遊びに来てね!)と言って、三年の海外出張は終わったが、
その時、姪の大学生の息子が、そのギリシャに単独で遊びに行ったときのことである。
この子も中学から大学まで公立で、勉強は良く出来た。
彼が帰国後話したことによれば、行きは日本からで問題なかったが、
帰りはギリシャからで自分の英語が通用しないため、
飛行機に乗るだけで大変苦労したと語った。

セガレも姪の息子も、発音を勉強するために、帰国後、そろいも揃って
アメリカ人が教える英語学校に通ったのである。

ボクは60歳定年後、アメリカ、カナダ、イギリス、ニュージーランド、
オーストラリアの英語圏を旅したが、英語が通じなかった経験は一度もない。
その他の国でも楽しく会話できている。
それは中学で最初に教わった英語の発音のおかげである。
60年も昔のことであるが、その時、教えていただいた先生が、
今はどうしておられるか知らないが、
先生に感謝したい。




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授業参観:英語 その1(学校教育 2)

2006年10月11日 08時28分00秒 | つれづれなるままに考えること
(授業参観 英語:単数と複数)
指折りの進学校の英語の授業に参観した。二クラスでともに中学一年生。
この時期、英語は習い始めて三ヶ月目(6月)のはずである。
内容としては、This is、These are、 That is、Those areの単数
複数形違いを表現する場面であった。机や椅子の絵を描いたカードを
見せて、This is a desk.These are desks.
あるいは、That is an umbrella.Those are umbrellas.
生徒は答える。次に先生は聞く、生徒もここからは始めてらしい。
What color is this unbrella? 
生徒:茶色はなんて云います?
先生:This color is brown.
こんな会話を見て、「さすが、生徒は優秀だ」と思った。
茶色の英語を知らなくて、先生からbrownと教わって、
すぐ「That is brown.」と答えたからだ。
その中で「オヤッ」と思ったことがある。
この発音で果たして英語は通じるのだろうか?

その昔を思い出す。
今から60年前、どこかの学校の先生が、中学の英語教育の模範授業の
デモンストレーションを行うことになり、どういう訳か、
生徒は中学一年の僕たちのクラスが選ばれたことがある。
夏休み始まる直前のことのように記憶している。

挨拶から始まって、その先生は、全ての授業を英語で進めた。
聞きそびれてはならないと、必死で先生を見つめ話す内容を聞いた。
おおよそ進める授業の内容はわかったが、唐突に
「Are you human being?」と僕に質問が飛んできた。
僕は困った。「human being」の意味が解らなかったからだ。
沢山の英語教師が、授業参観に来ていて、返事に詰まったボク見て、
どっと笑った。それで恥ずかしい思いをしたことがある。
英語を習い始めて、たかだか三ヶ月。沢山の英単語を知っているわけではない。
笑われることによって、僕は混乱してどう返事をして良いか余計わからなくなった。

教育は、こうあってはならない。
わからない人には、解るように教えるのが教育である。
通じない言葉は、通じるようにしなければいけない。

たった一度、恥ずかしい思いをしただけであるが、
以来、ボクは解っていても、一度も手を挙げることはしなかった。
手を挙げた全員が間違っており、正解はこうなのにと分かっていても手を挙げたことはない。
解る人が居なくて、しーんと静まり返って先生が順番に指さして正解を求め、
順番がボクに回ってこない限り、回答はしない。

学校教育は、社会にでてから何が役に立つかは、具体的になかなかわからないものである。
ピタゴラスの定理なんかどこかで役に立っているのだろうか?
数学にあったリミットやら、インテグラル、シグマはどこかで知らぬ間に
役立ったのであろうか?
数学では、加減乗除、なんパーセント?何割?ということの方が役立つ。
役立つといえば、言葉は基本で一番役に立つ。
日本語をまともに使える。読める、書ける、話せる、の基本が
出来ていることが最も重要である。
社会に出てこれくらい役に立つものはない。
書き言葉を話し言葉で使うのは奇妙であるし、話し言葉を書き言葉で
使うのは見苦しい。

つぎに外国語。
日本人のほとんどが英語を習う。
しかし、きちんと使える人は極めて少ない。
日本では、高等学校を卒業する人は全人口の98%という。
中高一貫して英語は必修科目であるから、
(日本人のほとんどは、英語を六年間も勉強する。
だからほとんどの人が英語はわかります。)
と外国人に話すと、一様に(嘘だぁ)という顔つきをする。
日本人にそう話したって、同じ顔をする。

どうしてこうなるかというと、島国の日本には英語を使う機会がほとんどないからである。
ユーラシア大陸では、国と国が隣接しているから、他国人と接する機会が多く、
どうしても英語を使う機会が増える。

ミャンマーやフィリッピンあるいはインドの飢えに苦しむ人たちが
(学校教育を受けたのだろうかと思われるような人たちが)、
テレビカメラの前で、窮状を訴える英語をぺらぺら話す。
日本人は教育を受けているのに、このようには話せない。
それでも最近は昔より英語を話せる人が増えた。
外国に出て使わざるを得ない人たちが増えたからだ。
あるいは外国に出かけていって英語を勉強するからである。

ボクはどうゆうわけか、外国人に道を聞かれることが多い。
最初は彼らが言っていることが解らなかったが、慣れるとたいしたことはない。
それでも時々外国人同士が、道を尋ねておいて、
「この日本人英語が話せるんだ」と話しているのが耳に入ることがあるのは、心外に思うが、
それほど日本人は英語を使える人が少ないということだ。

それでも、英語が読める。書ける。話せる人の数は、人口の割に、
また 教育制度の割には、きわめて少ない。
その一因に、学校教育での英語が,
使っても通じないところに一因があると思われる。





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