(言問西交差、靴屋さんの左が日光街道)

(浅草新吉原)
さて、(言問橋西)の信号は五差路になっているが、
直進と左折の間にある左斜めの道が日光道中である。
今は寄り道をして、信号を左折して、
江戸時代から遊離の里として有名な吉原を見物しようと思っている。
以前にも触れたが、台東、江東、墨田、江戸川区方面にはとんと疎く、
吉原や本所、向島だの、小説には記されていても、
それが一体何処なのか判らなかった。
樋口一葉の「たけくらべ」の吉原は何所にある?
みかえり柳や吉原大門はまだ残っているのか?
池波正太郎の「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が、
若い時代に「本所の銕(てつ)」と呼ばれたときの本所とは何所だ?
柳の木の向こうからぬっと出てくる辻斬りがいたという吉原の土手は何処?
漫画「あしたのジョー」に出てくる泪橋は何処に?
こんな事さえわからない。
興味津々で出かけてきたこの町は見るもの聞くもの目新しい。
(言問い通りの天麩羅や)

(言問橋西)の信号を左に折れ、言問通りを進む。
信号をいくつか過ぎて、(西浅草三)の信号を右折、
次の信号(千束五差路)を斜め右へ入っていくと、
右手にお稲荷さんの赤い旗がひらめいていて、
石灯籠と石垣で囲った神社らしきものが見える。
これは吉原弁財天である。
(千束五差路)

(吉原弁財天)

(吉原弁財天2)

何も知らずに入ってきたが、実は吉原遊郭があった当時は、
吉原大門からこの吉原弁財天まで、花魁道中が行われた場所であった。
つまり吉原の出口に来てしまったのである。
吉原弁財天には毎日掃除をしにくる有志の方が居られて、
聞くところによると、
この弁財天の通りが、吉原の目抜き通りであったそうである。
「もともと吉原は江戸時代(元和三年(1617)、幕府は日本橋葺屋(ふきや)町、
(現日本橋人形町二丁目付近)に、江戸では唯一の遊廓開設を許可した。
遊廓は翌年、営業を開始したが、葦(よし)の茂る所を埋め立てて造ったところから、
初めの頃は葭原(よしわら)と呼ばれた。
その後縁起の良い文字にかえて、吉原となった。
明暦二年になると町奉行から、
吉原を浅草日本堤へ移転するよう命じられ、
翌三年この地に移転して、浅草新吉原と呼ばれるようになった。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、
華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが昭和33年
「売春禁止法」の成立によって廃止された。」(台東区教育委員会)
そして今ボクは、その浅草新吉原の弁財天のある吉原弁財天に来ている。
(弁財天のお地蔵様)

この吉原弁財天については、「新吉原花園池(弁天池)跡」として、
台東区教育委員会の説明板が掲示してあったので、
内容を記しておきたい。
(江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、
明暦三年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋め立て、
日本橋の吉原遊廓が移された。
昭和33年までの300年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、
特に江戸時代には、さまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池町に弁天祠が祀られ、
遊廓楼主たちの信仰を集めたが、現在は浅草七福神の一社として、
毎年正月には多くの参拝者が訪れる。
池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、
大正二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、
490人が溺死したと言う悲劇が起こった。
弁財祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため、
大正15年に造られたもの。――後略)(台東区教育委員会)とある。
(観音像)

読んでくるとこの付近一帯は湿地帯で、
埋め立てて造成した場所であったので、
池が出来たのであろう。
その場所には弁財天が祀られ、石垣で囲ってあるが、
その石垣を奉納した人の名を見ると、
「〇〇楼」「×××楼」など、
当時の(今でも残っているかも)遊廓の楼主の名が刻んである。
(楼主の名がある石垣)

(楼主の名がある石垣2)

弁財天前を進むと道路はS字になる途中に信号がある。
信号を過ぎて吉原の中を進むと、左手に「吉原神社」があり、
これまた石垣に囲まれている。
手を合わせて過ぎると、(よし原安全安心な街)の杭が建っている。
周りは元遊廓の名残か、遊廓の雰囲気(*)を感じさせる建物が並んでおり、
建物の前には、黒装束のお吾兄さんがたむろして、
客引きなどをするのであろうか。
新宿の歌舞伎町に良く似た雰囲気である。
(*)遊廓の雰囲気とはどんな雰囲気か、
遊廓街に足を踏み入れたことが無い人には分かりにくいに違いない。
ボクは大学卒業まで、名古屋の中村に住んでいて、
家庭教師のアルバイトで、江戸を真似して創ったと言われる遊廓、
名楽園の中を通り抜けていたのでよく解かるが、
その雰囲気と同じで、建物がケバケバしく、
一見して風俗営業のお店と解かる。
写真を載せればお解り戴けるであろうが、
はばかられて載せることが出来ない。
(S字の道路)

(吉原神社)

(よし原安全安心な街の柱)

そのうち吉原交番が左手にあったので、
「吉原大門と見返り柳は何処にあるのでしょうか」と訊ねる。
「吉原大門はすぐそこに、見返り柳は、
道路を道なりに曲がった所のガソリンスタンドにあります。」という。
吉原大門は、お巡りさんが指差した先に見える。
ボクが予想した冠木門でなく、道の左右に一本の柱が建っていて、
その柱に(吉原大門)と書いてあるだけ。
(よし原大門の柱)

(見返り柳)については、道路を進むと広い通りに出て、
なるほど右手にガソリンスタンドがあるが、
目当ての(見返り柳)が見えない。
通り過ぎてしまったのかと、後ろへ戻るがありそうな気配も無い。
そこへ脇道から屈強の若者が出てきたので、
「見返り柳は何処でしょうか?」と訊くと、
お巡りさんと同じ答が帰ってきた。
「ガソリンスタンドの脇ですよ。」と。
ガソリンスタンドを覗き込んでも見当たらないので、
不振そうな顔つきで若者を見ると、
「スタンドの蔭で見えませんから、先へ進んでから見てください。」と言う。
屈強そうなお兄さんにしては、ずいぶん親切に教えてくれた。
それでやっと見つけることができた(見返り柳)。
(やっと見つけた見返り柳)

樋口一葉が書いた(見返り柳)は大きな柳の木で、
吉原で楽しい楽しい時間を過ごして、
帰宅するに及んで、もう一度遊びに来たいと、
期待を込めて振り返る、
顧客の気持ち表した大きな柳の木のはずと、
ボクのイメージの中にある。
しかし期待は裏切られて、数代目とは言うものの、
とても貧弱な柳の木ではあった。
もともと山谷掘りの土手にあったものを、
「吉原大門」のあった場所に移したものという。
(見返り柳の碑)

江戸川柳に、
・ きぬぎぬの うしろ髪引く 柳かな
見返れば意見か やなぎ顔を打ち
とあり、遊んでいないでしっかり仕事をしなさいと、
風に揺れる柳の枝が、
ぴしりと頬を打つ状景を良く詠っている。
しかし今は、時期が早くて、柳の芽はまだ出ていなくて、
頬を打つ状況には無かった。(2013.3.17.)