(近代日本文化発祥の地にある、「慶応義塾発祥の地」と「蘭学の泉はここに」の碑)
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(近代日本文化発祥の地)
鍛冶橋通りを「高橋」から二つ目の信号を左折する。
静かな落ち着いた銀杏並木の通りになる。
しばらくすると左手に、
カトリック築地教会がある。
中央区教育委員会によれば、
(カトリック築地教会は、
明治四年(1672)にパリ外国宣教会のマラン神父が、
鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」その全身とされます。
明治七年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地(現在地)を借り受け、
ここに司祭館と聖堂を立てました。――中略
現在の聖堂は昭和二年に再建され、石造りに見えますが、
実は木造建築で、壁面をモルタル塗りとしています。――後略)とある。
教会内にある鐘はフランス製で「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と
名づけられたもので現在も保管されているとのこと。
(カトリック築地教会)
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このカトリック築地教会の門の前に、
「暁星(ぎょうせい)学園発祥の地」の石碑がある。
カトリック築地教会の説明で触れられていたが、
この当り一体は外人居留地区で、聖路加病院を始め、
蘭学事始の翻訳場所であったり、立教学院や立教女子学院、
シーボルト、アメリカ公使館跡など紹介すべきものが多い。
さて、「暁星(ぎょうせい)学園発祥の地」の石碑の上には、
本を開いて置かれており、
「あなたがたは 地の塩
世の光である」と
聖書マタイによる福音書からの一説が載せられている。
上を見上げると、聖路加病院の十字架を乗せたビルが見える。
(「あなたがたは地の塩、世の光である」の碑)
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(暁星学園発祥の地の石碑)
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(聖路加病院の十字架)
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聖路加病院の院長は、ご存知102歳の日野原重明さんで、
今なお新聞に毎週日曜日に連載を書かれている。
聖路加病院は有名であるが、St.Lukeの英文字がある所を見ると、
新約聖書のルカ福音書があるように、本来ルカが正しいように思う。
通りの名は「聖ルカ通り」となっているからこれが正解であろう。
もっとも聖路加病院は(せいルカびょういん)と読むのかもしれない。
少し行くと、「立教学院発祥の地」の碑がある。
その横に立教女学院校舎跡と記念碑があり、ここには、
(立教女学院 St.Margaret’s College and School
築地居留地校舎跡(1882~1923)記念碑)とある。
(立教学院発祥の地の碑)
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(立教女学院校舎跡の碑)
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その先交差点右角に、近代文化事始の地として、
(慶応義塾発祥の地)の碑と
(蘭学の泉はここに)と題した碑が建っている。
慶応義塾発祥の碑の側面には、
(安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く。
創立百年を記念して昭和33年慶応義塾これを建つ)とあり、
上部には、福沢諭吉が書いた書物「学問のすすめ」があり、
その一節が刻まれている。
(天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず)とある。
(慶応義塾発祥の碑)
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「蘭学の泉はここに」の、本を見開いた形の碑の左側面には、
(1771年・明和8年3月5日に杉田玄白と中川淳庵とが
前野良沢の宅にあつまった。
良沢の宅はこの近くの鉄砲州の豊前中津藩主奥平の屋敷内にあった。
3人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、
オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべて
その正確なのにおどろき、
発憤してさっそくきょうからこの本を訳しはじめようと決心したのである。
ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、
オランダ語をすこしは知っている良沢にも、
どう訳していいのかまったく見当がつかない。
それで身体の各部分についている名をてらしあわせて
訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、
ついに1774年・安永3年8月に解体新書5巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめて、
これから蘭学がさかんになった。
このように蘭学の泉はここにわき出て、
日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。)とある。
また、右側面には人体が描かれ、それぞれの部位に数字が書き込まれている。
(「蘭学の泉はここに」の碑)
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(聖ルカ通り)
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この「近代文化事始の地」の前の通りを「聖ルカ通り」と名づけられている。
この「聖ルカ通り」を左折すると、
左が聖路加病院で、直進すると突き当たりに聖路加ガーデンがある。
ここにアメリカ公使館跡の説明板があるが、
案内にある記念碑は見当たらない。
聖路加ガーデンの警備員にお訪ねすると、
記念碑は、聖路加ガーデンに入り、エスカレーターに乗って二階へ行き、
再び外に出ると、庭に記念碑がありますとのこと。
聖路加ガーデンの中に入り、エスカレーターを上って、
外に出るとアメリカ公使館跡の記念碑の石標があった。
説明によると、
(この記念碑は全部で8個あったとされるが、
二個はここにあり、三個は聖路加の旧病院前にあり、
残り三個は日米友好のシンボルとして、
現在のアメリカ大使館に寄贈された)とある。
(聖路加ガーデン)
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(聖路加ガーデンのアメリカの石標二個)
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石標は3種類の彫刻が施され、白頭鷲、星条旗、星であるが、
白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13個の星は
同国初期の13州を表している。
(従って現在の星条旗には50州を表して、50個の星が描かれている。
なお、stripesの13本の赤白の線は13本あり、
アメリカ当初の13州を現しているとのこと。)
(聖路加の旧病院前のアメリカの石造三個)
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(白頭鷲)
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(当時の13州の国旗)
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(現在のアメリカ国旗)
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「近代文化事始の地」まで戻って、西へ折れると、
左手に中央区あかつき公園があり、
沢山の子供たちがお母さんと戯れている。
入り口に公園の案内看板が建っており、
公園の奥のほうにシーボルトの胸像があると記されている。
(あかつき公園の案内看板)
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公園の噴水などを避けて、奥へすすむとその胸像はあった。
中央区教育委員会の説明によると、
(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、
オランダ商館医員として文政六年(1823)七月、
長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなど活躍した。
文政九年正月、商館長と共に江戸へ向い、
日本橋の長崎屋に止宿し、四月十二日出発するまでの間、
江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。
同十一年シーボルト事件が発生し、十二月に日本から追放された。
後に安政六年((1859)幕府顧問として再来日したが、
まもなく帰国しミュンヘンで没した。
彼の江戸における指導は、
江戸蘭学発展のために貢献する所が大きかった。
この地が江戸蘭学発祥の地であり、
且つ彼が長崎でもうけた娘(いね)が築地に産院を開業したこともあり、
また明治初期から中期にかけて、
この一帯に外国人居留地が設けられていたことから、
ここに彼の胸像を建て、
日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。)
(中央区教育委員会)とある。
(シーボルトの胸像)
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あかつき公園を後にして、「聖ルカ通り」を築地駅方向へ進む。
赤穂浪士が凱旋した道だ。