楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

古希(旧中山道 番外記17)

2006年02月08日 09時31分00秒 | つれづれなるままに考えること
{写真付をご覧になりたいの方は、下記URLをクリックしてください。
URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2006/02/post_7eae.html

(古希)
60歳になって現役を退いたとき、「これでボクも年寄りの仲間入りができた」と思った。
失業保険は貰えるし、同時に厚生年金も60歳から貰うことが出来た。
やがてバブル景気がはじけて、国も地方自治体も財政赤字に気が付いた。
大盤振る舞いしていた制度を次々と中止し、年金の支給も、老人対象の優遇制度も
段階的に対象年齢を引き上げた。

ボク達の時代は、それでもまだ良いほうだと、今60歳で現役を引退する人たちは言う。
定年になっても年金は65歳にならないと支給されないし、
失業保険を貰っている間は年金がもらえないのは当たり前。
仕事を探しても採用してくれる会社がない時期が続いた。
どうやって生活を維持しようかと思案投げ首の状態だという。

しかし、一方でまったく心配ない人たちがいる。
それは実力があり、再就職に引く手あまたの人たちだ。
どちらの会社の条件が良いのか比較検討している人もいる。
また、再就職しなくとも事態を予測して、十分な手当てをした人も心配ない。

イソップの「アリとキリギリス」のアリであった人たちである。

ボクはそのアリの一人である。また同時に仕事の上でもしっかり取り組んできたから、
再就職する上でも選びに選んで楽な仕事をさせて貰ったことは以前書いた。
振り返ってみると、ずいぶん自分勝手に、好きなことをやってきたとあきれ返っている。
現役引退後、今月で10年が経過し古希になった。

「古希」の出典は、中国の詩人杜甫の「曲江詩」にある
「人生七十古来稀なリ」から採ったものだ。

60歳定年になって、今後やりたいことを書き出してみたら、
19項目あった。細分化すると25項目ある。
体力が必要なものから実行に移すことにしたが、
途中、病で半年入院、体力回復に一年無駄な時間をついやした。
それでも、あきらめずに目標に向かって前進している。

その一、海外旅行(目標105カ国。現在48カ国)
その二、ゴルフ(ハンディキャップ14、現在29)
そのほかやりたいことは沢山あり、半分ほどはプロフィールページに書いてあるが、
一つとして完遂したものはない。

夏はカナダで過ごし、冬はニュージーランドで過ごす夢は、
語学の勉強をしなければならず、鎌倉のシルバーボランティアになるには、
鎌倉の勉強が必要で、鎌倉を知るには、仏教を知らずして語ることが出来ない。
仏教の勉強は奥が深く、時間がいくらあっても足りない。
毎日が、毎週が、毎月が、あっという間に過ぎていく。

やりたいことの一つ一つに、その道のプロがいることを考え合わせると、
自分が死ぬまでにやりとげることが出来るか、はなはだ怪しい。
しかし、せっかく抱いた夢、古希になったからといって、
あきらめることなく実現に向けて、喜寿、米寿へと精進していきたい。

もう一度、ボクの好きな詩「青春賦」を次に掲げます。

 (青春)  

青春とは人生のある期間を言うのではなく、
心の持ち方を言う。
たくましい意志と、ゆたかな創造力、
炎える情熱、弱気を退ける勇気、
安易を振り捨てる冒険心、
こういう様相を青春という。

年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いが来る。

―途中省略―

十六歳であろうと六十歳であろうと、
人は信念と共に若く  疑惑と共に老いる。
人は自信と共に若く  恐怖と共に老いる。
希望ある限り若く   失望と共に老いる。

頭を上げ希望の波をとらえる限り、
八十歳であろうと青春であり続けることが出来る。

サミュエル・ウルマン

命が尽きるまで青春であり続けたい、そう願っている。




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出物はれもの、ところ嫌わず―「生きる」を訪ねて(インド紀行2)

2006年02月04日 10時23分00秒 | つれづれなるままに考えること
(出物はれ物、ところ嫌わず)

人は生きるために食べる。食べれば出さなければならない。

その出物の話である。

初日はデリー観光である。
フマユ―ン廟へ行った。
廟と言うからにはお墓である。
廟は広大な敷地に緑の芝生、南国の木が植えられており、
石造りの壁に囲まれ、石を組み立てた城を思わせる。

世界遺産のタージマハルといえば、
すぐ想像していただけると思うが、その原型となった廟である。

フマユーン廟へ石段を登り中に入ると、
大理石造りの石棺が置いてある。
これはレプリカで本物は地下にあるという。
盗掘を恐れたのだ。

古代遺跡には、お墓のレプリカが多く、
本物は盗掘を恐れて別の場所にあるものが多い。

代表的なのがエジプトのピラミッドである。
クフ王のピラミッドの中には石棺があるが、
石棺に到達するまでの間に、迷路のように長い坂道があり、
玄室に入る直前には、腰をかがめなければ通り抜けられない箇所がある。

腰をかがめているから、活動が制限される。
動きが悪くなるすぐその先は落とし穴があり、
遥かな闇の先に、奈落の底が待っている。

その落とし穴をクリヤーして、
誰も入ることは出来ないような厳重な通路を抜けて、
やっと目的地に到達する。

しかしその先には、お墓のレプリカしかないのだ。
本物の王の墓は、瓦礫の山の下、王家の谷に並んでいる。

インドの王のお墓も同じくレプリカである。
フマユーン廟の出口の通路は、石が敷き詰めてあり
、両側は見事に手入れされた芝生が広がり、
その庭には転々と無憂樹が植えられていて、
インドの庭とはこんなに美しいものかと思わせる。とても広い。

フマユーン廟の良く手入れされた芝生の端に何人かのインド人がしゃがんでいるのを見た。
最初は何をしているのかと不思議に思った。
芝生の手入れをしているのか?でも少しおかしい。
手が動いているわけでもなく、
通路を通る人を見渡す表情が得もいわれないのである。
恥ずかしそうで、情けなさそうで、なんとも言えない表情である。

インドで公衆トイレを見かけることは無かった。
インド人の家にはトイレが無い(?)ように感ずる。
ホテルや大きなレストランはともかくトイレが見当たらない。

世界第二次大戦で敗戦直後の日本のようなものである。
野山がトイレである。イ
ンド人の服装は男女を問わず上着のすそが、
ひざの上まであるものが多い。

しゃがんで用を足すとき、
上着が地面に垂れ下がり下半身が隠れるように出来ているが、
こんな格好をしているときは用を足しているときである。

男も女も同じしゃがんだ格好で大小の用を足す。
観光地であろうと、道路上であろうと、ところ嫌わずである。

今回の旅は、観光地で有名なゴールデン・トライアングルでなく、
釈迦の一生を追う仏教遺跡を訪ねる旅であったので、
インド人の生活を良く見ることが出来る田舎を訪ねる旅であった。

田舎へ行けば行くほど、郊外レストランも無く、
ガソリンスタンドも無く、ドライブインも無く、
勿論公衆便所も無いので、トイレは止むを得ず、
「あおぞらトイレ」になる。

観光バスが通ってきた道路の右側が男性、
左側で女性が用を足す場所だ。

男性は道路わきで立ったまま用を足せばよいが、
女性はそうは行かない。
サトウキビ畑の向こう側まで行って、
道路側から見えないところで用を足すことになる。

最初に書いたように、なんと言っても十億の民が居る国。
どこへ行っても人が居る。
ということは、どこもトイレであるから、
日本と違って、どこに落し物があるか分からない。
用を足してきたご婦人の靴に、インド人の落し物がべったり着いてくる。

夜バスを走らせると、
ヘッドライトに浮かぶ道路脇にしゃがんだご婦人が急いで裾を上げる姿が目に付く。
一リットルほどの水の入った容器を持っているので何をしていたかが想像できる。
インド人はお尻を紙で後始末しないで、
一リットルの水をお尻に流し、左手で洗い清めるのである。

トルコでもそうであった。日中は道路より奥まった、
人から見えないところで用を足すが、さすが夜には蛇なんかも居るので、
道路より奥には入れないから、道路端で用を足す。

それも町外れが一番多いことは誰にも想像できる。
ある時、町外れで用を足すことになった。
女性はガソリンスタンドにあるたった一つのトイレを使うことになったが、
男性は青空トイレとなった。

ボクは人生経験が長いから、こんな時恥ずかしいという気持ちは無く、
出るものが出るのは、当たり前と言う気持ちのほうが強いので、
バスから降りて二三歩の道端で用を済ます。

ヘッドライトの明かりの中の方が足元が良く見えて危険が無いからだ。
その代わり、用を足している姿を、
他人が見ようとすれば丸見えになる。

でも、80歳に手が届こうとするおっさんの、
用を足す姿を見るほど余裕のある人はいない。

自分のことで精一杯のはずである。
道端には雑草が生い茂っているが、一歩前に進めば見られる心配は無いが、
決して一歩前に進んではならない。

80年近く生きていると、こんな時、誰も見るわけが無いと平気でいられる。
しかし男性でも、すこし恥ずかしがり屋は、
少し離れたヘッドライトが届かない場所で、
しかも一歩前に進んで草むらの中で用を足す人も居る。

そんな人は、用を足す人の心理に沿って用を足すので
(つまりインド人も日本人も恥ずかしいということは同じであるらしく、
同じ場所で同じ行動をするので)

足元に気付かず、インド人の落し物をいやと言うほど、
しっかり踏みつけてくることになる。

日中ご婦人方が経験してきたことを、見ていれば分かりそうなのに、
注意不足は仕方が無い。

生きていくものは、生きるために食べなければならないし、
食べれば必ずその滓(かす)を出さなければならないのである。

いやはやこの旅は一体どういう事になるのだろうか?

先が思いやられる。

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