楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

「生きる」を考えた一冊の本

2017年07月29日 04時39分25秒 | つれづれなるままに考えること
聖路加病院の院長だった日野原重明さんが105歳で亡くなった。
大往生である。

世間を騒がせたよど号ハイジャック事件のよど号に乗り合わせ、
命拾いをした日野原さんは、
神様がこの後の命をくださった、と感じたと言う。

ボクにはこんな大それた経験はない。
高校生の頃読んだ本、

ヘミングウエイの「老人と海」

これがボクの一生の生き方を教えてくれた。

あらすじはこうだ。
「年老いた漁師が、船を海に出して、何日も何日も不漁であった。
実に84日間の不漁であった。

84日と目で読んでどれだけの方が実感できるだろう。

これは二か月半に当たる。

それでも漁に出た85日目、魚がかかった。
遥か先の波間に小躍りする魚体と、糸に感じる手ごたえ。

大物だ!

躍る心を抑えて、慎重に慎重に、糸を手繰る。
自分が載っている舟より大きな獲物と格闘して、
3日3晩戦い続け、やっとの思いで手繰り寄せた獲物は大きすぎて舟の中に入らない。

やむなく舟の脇に結わえ付けて、帰りの航路につくが、
獲物が落ちないように慎重に慎重に、しかも意気揚々と舟を進める。

やがてその獲物を狙って海のギャング、サメが小舟の周りに寄ってくる。
一匹や二匹ではない。
群になって寄って来ている。

老漁師は、サメと戦って銛を打ち込むが、サメの大群はその量が半端でなく、
やがて銛もサメと一緒にどこかへ流されてしまう。

やむなく、オールを振りかぶってサメの戦うが、
多勢に無勢、釣り上げた獲物が少しずつサメに食い荒らされて行く。

僅かな時間の間に獲物は白骨化して、サメたちは雲散霧消して、
周りは静かな海に戻る。

疲れた老漁師はやがて港に戻るが、
疲れた足を引きずって、我が家に帰り、そのまま眠ってしまう。

漁師仲間は、舟と一緒にあるカジキマグロの大きさに驚き見入る。

小舟にゆわえ付けられた獲物のカジキマグロは、
その白骨を打ち寄せる波に晒したままに・・・・。」

およそこんな物語である。

ハリウッドの映画にもなり、
俳優のスペンサー・トレイシイがその老漁師を演じていた。
1960年ころの古い話だ。


【動く絵本】 老人と海 [The Old Man and the Sea]

ヘミングウエイはこの小説の中で、何を言いたかったのか、
「The Old Man and the Sea」を読んだ後で考えました。

ヘミングウエイは、
この物語の中の老人のように、人生どんなに努力をしても、
何にもならない、無駄な労力だという。
無常観を教えているだけなのだろうか。

どうせ人生何ともならないのなら、一所懸命生きることは無く、
適当に暮らせばよい。

そう考えると、毎日をだらだら過ごすことになる。
毎日をだらだら過ごしてみると、三日持たない。

そこで何かをしようとすると、目的意識が生まれて、
毎日が、いや毎時間が楽しくなる。

人生はこの時間を有効に消費することだ。
時間を有効に使うには、沢山の知識経験が必要になる。
知識は、座していては、向こうから遣って来ない。
自ら求めて、豊富な知識を駆使して、将来を予測し、
どのように対処したらよいかを考え、
その方法を生み出し過ごして行く。

その様に、毎時間をフルに有効に使った人が幸せになれる。
人は、いつの時点か解らないが、
死に物狂いになってやらねばならない時がある。
その時期を早く知った人が、早く行動に移した人が、
人生を楽しく、全う出来るのでは無いだろうか。

楽しんでこそ人生!

明日を待つのではなく、今を充実してこそ人生は楽しい。

日野原重明さんが亡くなって、
五日後に106歳になる叔母が鬼籍に入った。

台湾で育ち戦後、日本に帰り苦労した人生であったが、
晩年は、成人した子供たちに見守られて、
自宅から50mほどの老人ホームで安らかに旅立った。

ただ ただ、冥福を祈るばかりである。






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タイサンボク

2017年07月26日 04時12分10秒 | 日記
(泰山木/タイサンボク)


いつ見ても、タイサンボクは大きな堂々とした木だ。
どう言う訳か知らないが、ボクが見るこの木は学校に生えている。
花の時期になると、花も木と同じで大きく、白い立派な花を付ける。

(泰山木の花)



この泰山木の学名「Magnolia(マグノリア)」と言うのは、
18世紀のフランスの植物学者ピエール・マニョル(Pierre Magnol )から採った名前だと言う。

和名の泰山木(タイサンボク)は、花や葉の大きく立派なことを賞賛して、
中国山東省中部にある名山の泰山(たいざん)にたとえたといわれます。
泰山は、中国皇帝がこの山で帝王の即位を天下に周知し、天下泰平を知らせたことが、
中国の歴史書「史記」に書かれている。

泰山と言えば、すぐ思い出すのが、
「泰山鳴動してネズミ一匹」

事前の騒ぎばかりが大きくて、実際の結果が小さいこと。
この時の泰山は大山と書くらしいのだが、
もともとは、ラテン語のParturiunt montes, nascetur ridiculus mus.とのこと。
(山々が産気づいて、こっけいなハツカネズミが一匹生まれる)から出た西洋のことわざ。
ボクはてっきり中国から出た言葉と思っていました。



たいさんぼくの花の花言葉の由来

人生の展望が開けているさまをあらわす「前途洋洋」。
大きく立派で美しいさまをあらわす「壮麗」。
これらの花言葉は、堂々とした立派な樹木とかぐわしい香りを放つ、
大きく美しい白い花にちなむといわれている。
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石巻(いしのまき)(芭蕉の道を歩く 67)

2017年07月22日 04時10分26秒 | 芭蕉の旅
(仙石線 石巻駅行きホーム)

おくのほそ道【24】石巻の項で、芭蕉は

(十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、
あねはの松・緒だえの橋など聞き伝えて、
人跡稀に雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往(ゆ)きかふ道そこともわかず、
終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊(みなと)に出(いづ)。
――中略――
海上を見わたし、数百の廻船入り江につどい、
 人家地をあらそひて、竈の烟立ちつづけたり。)
と綴っている。

次は、ボクの勝手な現代語訳です。
(平泉を目指して、姉歯の松・おだえの橋(共に地名で歌枕)など伝え聞いて、
人跡まれな木こりや猟人しか通らないような道かも知れず、
とうとう道を間違えたらしく、石巻と言う港に出た。
――中略――
海上を見渡すと、数百の廻船が入り江に集まり、
人家は密集して、竈の煙が立ち込めて、活気のある所だ。)


朝早く東京から「はやぶさ3号」に乗って、仙台で仙石線に乗り換え、
石巻駅に着いたのが午前10時半ごろ。
石巻は、漫画家 石ノ森章太郎の出身地で駅にアニメのキャラクターが待ち受ける。

(石巻駅のキャラクター)

石巻で芭蕉は町の様子を一望にしているが、
その場所が日和山だと言うことが解っている。
しかし、日和山まで、駅からどれほどの距離があって、
歩いて行けそうかどうか解らない。
そこで駅前の交番に寄って聞くことにした。

お巡りさん「およそ2km位ですから、歩いて行けなくもないですが・・・・。」
とボクを見ながら口ごもる。
「何か、不都合でも?」と聞くと、かなりな登り道らしい。
お礼を言って、駅前の客待ちのタクシーに乗ることにした。

タクシーの運転手さんの話では、
日和山近くに石巻高等学校があって、
毎日住吉公園までランニングさせられた。
そのコースはかなりな坂道を走るので、
どうやってサボるか考えて実行したらしい。
タクシーは登りのその坂道を走って高校の前を通ったが、
校舎の前に、「東京大学現役合格」の垂れ幕が下がっていた。
優秀な進学校で運転手さんは卒業生だと言う。

下り坂になると確かにジェットコースター並みの坂であった。
日和山公園で待ってもらって、ボクは降りる。
正面に鳥居があって、その先は海で、なるほど芭蕉が見たら、
商売の船が何艘も係留できそうである。

(鳥居と背後の河口と空き地)
(北上川河口と津波で家が無くなった空き地)

神社左横、やや下った所に、芭蕉と曽良の像が置かれている。

(芭蕉と曽良の像1)
(芭蕉と曽良の像2)
(芭蕉と曽良の像3)

3・11の東北大地震の大津波で、海辺の町はまだほとんど更地の状態であった。
もう6年も経つのに、まだまだ復興にはほど遠い。

鳥居の後ろには当然神社がある。
鹿島御児神社と言うが、社殿との間の老樹の下に句碑がある。

(芭蕉句碑)
句碑には、
      雲折々 
芭蕉翁     人を休める
            月見かな

とあるようだが古くてか、潮風で風化してか読み取れない。
石巻教育委員会の説明によれば、
(月見をしていると、見とれてしまい、我を忘れるが、
 時々月が雲に隠れたときに一息つくことが出来る。)と言う意らしい。

(二の鳥居と鹿島御児神社)
(本殿)

神社右横に行くと、神社裏側の景色が一望できる。
石ノ森章太郎の漫画館が川の中州に白いドーム状の建物で目立つ。
その他の建物はほとんどが津波で流されて更地になっている。
ここ日和山は海抜17メートルあるが、押し寄せた津波は7メートル、
漫画館のある橋を優に超えて、船が道路に浮かんでいる状態であった、
とはタクシーの運転手さんの話である。

芭蕉は、「おくのほそ道」の石巻の項で、
冒頭の文章の続きを、次のように表現している。
「思ひかけず斯かる所に来れるかなと、
宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に
一夜をあかして、明(あく)れば又しらぬ道まよい行(ゆく)。
袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて、
 遥かなる堤を行く。――以下省略」

(神社裏手の石巻の景色)
(石ノ森漫画館後ろの橋を右に渡った緑深い山)

白いドーム状の漫画館の裏手の橋を右に眼を移す、
つまり橋の東側に緑豊かな山が連なっているのが見えるが、
ここは「牧山市民の森」で、
芭蕉が「おぶちの牧」と述べている所である。
さらに右奥に(石巻市の東北に)写真では見えないが、
「まのの萱(かや)はら」がある。

また、ここにある「袖のわたり」は北上川の石ノ森漫画館の北側にあり、
そこには大嶋神社(住吉社)があり、現在は住吉公園となって居る。

(大嶋神社の鳥居)
(大嶋神社の拝殿)
(大嶋神社の鐘楼)
(琴柱灯篭)

琴の弦を張る駒で音程を決める柱を琴柱(ことじ)と言うが、
これに似た灯篭を琴柱灯篭と言う。

神社なのに鐘楼があるのは何故(?)と誰も思うが、
江戸時代 この神社の境内に、寿福寺というお寺があり,
鐘はその寿福寺のものであった。
鐘の重みでか、どうか解りませんが、鐘楼は津波で流されることなく、
そのまま残ったようです。
同じように琴柱灯篭も元のまま残ったようで、
年代物の灯篭らしく、証拠の苔が灯篭の足についています。

鐘楼の前、川の中に「袖の渡し」があります。
以前は、常緑の松に囲まれ東屋があった渡し場が、
津波で松も東屋も流され、枯れた松が残るばかりです。

北上川を渡るには、昔は渡し舟に頼らざるを得ず、
源頼朝に追われた義経主従が、藤原氏を訪ねて平泉へ向かう途中、
ここの渡しを利用した。
船賃が払えず、やむなく袖をちぎって船代とした話が、
伝説として残って居り、
それで「袖の渡し」と名付けられたようだ。
それが碑になって残されている。

(袖の渡しへの橋)
(名跡 「袖の渡」の碑)
(碑のいわれ)
(道標)

道標には、石巻街道、金花山道、一関街道となっている。
説明板によれば、
(石巻街道は、仙台城下と石巻を結ぶ道で、
この街道から北部への道として、
涌谷・登米道、気仙道が別れていました。
金花山道は、石巻から山鳥に至る道で、
金華山への参詣の道として利用されました。
一関道は、石巻から登米を経て一関(岩手県)に至り、
奥州街道と接続する道でした。)とある。

さて、「袖の渡し」の先端の松の木の下、
川の中に「石の巻き石」が見えます。
石巻市の説明に詳しく記されています。

仙台藩が編纂した封内風土記(ほうないふどき)の内容を要約しますと、

「古来伝えられた説によれば、地元の人が(石巻石)と呼ぶ巨石が、
住吉社の前にあり、形が烏帽子に見える。
その石の周りに水の渦が回って自然の紋ができ、
物を巻いたように見えるところから
「石旋/イシノマキ」と呼ばれるようになり、
そこから地名が生まれた――。」と言う。

(地名の由来となった巻き石)

津波で枯れた松の横、川の中に見える石が、地名の由来となった巻き石です。
干満の差で周りに水の渦が出来、これが石を巻く様子から石巻となった。

(?)

少し怪しい気がしないでもない。



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特許許可局

2017年07月19日 04時21分18秒 | 日記

確か中学生になってからだと思うが、
「特許許可局」と鳴く小鳥がいると国語の時間に学んだことがある。
その頃、そんな鳴声の小鳥を見たことも聞いたこともなかったので、
半ば「本当かなぁ」と疑心暗鬼であった。

以来、この話は忘れていたが、
今年になって散歩途中に自然観察公園と言う所で、
この鳴声を聞いた。

「特許許可局」と聞こえるのである。

およそ70年も昔に聞いた話を、今「本当なんだ」と思ったので、
You tubeで調べたら、何人もの方が鳴声と小鳥を投稿されていた。
もっと早く調べれば良かったが、
70年前ではYou tubeもなかったので仕方がない。
小鳥の名はホトトギスであった。

少年の頃、ホトトギスの鳴き声が「特許許可局」だと教えられていれば、
それなりに調べたであろうに、鳴声だけ「特許許可局」と教えられたから、
「嘘だぁ、そんな鳴き方の鳥がいる訳がない」と思っていたから、
調べもしなかったのだ。

80歳を越えて、初めて知った、本当に勉強になった。
「知らなかったことさえ知らなかったことを知ることが勉強」と、
後輩のNHKの経済解説者が話していたが、
まったくその通りだと痛感した。

「特許許可局」の鳴声をYou tubeから拾いましたので、
ご存知なかった方は、勉強なさって下さい。

ホトトギスの鳴き声20150521 2
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みさぶらひみかさ(芭蕉の道を歩く 66)

2017年07月15日 04時42分38秒 | 芭蕉の旅
芭蕉は、仙台に入って榴岡天満宮をお詣りした後、

おくのほそ道で、
「名取川を渡て、仙台に入る。あやめふく日也。
――中略――
日影ももらぬ松の林に入て、茲(ここ)を木の下と云うとぞ。
昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
 薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて、その日は暮れぬ。」
とある。

これを例によってボクの勝手な現代語訳では、
(陸奥国分寺跡は、仙台市若葉区木の下と言う所にあって、
陽の光も通らぬほど松の木が茂って、
露が多く垂れて、雨のように濡れるから、
これを昔の人は「みさぶらひみかさ」と詠んだのだ。
薬師堂・天神の社殿などを拝んで、その日は終わった。)となる。

「みさぶらひみかさ」の出典は、古今和歌集の和歌にある、

・みさぶらひ 御笠(みかさ)と申せ 宮城野の
               木の下露は 雨にまされり
から採ったものだ。

「みさぶらひみかさ」とは何だろうと疑問を持った。
解説を見ると、漢字で書くと理解しやすい、
つまり「御侍(みさぶらひ) 御笠(みかさ)」と書く、
「お侍、笠を」と言うことなのだ。

この当時の貴人のお共はお侍であったようで、
ボクの勝手な現代語訳では、
(宮城野の木の下の露は雨のように垂れるから、
お供のお侍さんよ、主人にお笠をお召くださいと言ってください。)となる。

さて木の下であるが、仙台市の地名であると同時に、
深い松林であったようで、現在も松林ではないものの、
ケヤキなどの鬱蒼とした木の下を歩いて行くと言う意味にもとれる。

その林の入り口に「史跡 陸奥国分寺跡」の石碑が見えた。

(陸奥国分寺跡の碑)
(木が重なり合って深い林)
(深い林の向こうに見える薬師堂)
(木の下にあやめも咲く)

陸奥国分寺は、
(正式には金光明四天王護国寺といい、天平13年(741)、
聖武天皇の発願により全国に建立された国分寺の一つで、
最北に位置しています。
その後、藤原秀衡によって堂宇僧坊の修復が行われましたが、
文治5年(1189)源頼朝の奥州侵攻の際に兵火で焼失しました。
これを伊達家が薬師堂などを建てて再興しました。
国分寺跡は、発掘調査で礎石のありさまから金堂を中心に福廊式回廊が巡らされ、
中門・南大門・講堂・鐘楼・経蔵・食堂などがあったと判っており、
その規模は奈良の東大寺と同規模であったと推定されています。)とある。

薬師堂は、国分寺金堂跡に慶長11年(1606)、
伊達政宗によって再建された。
厨子内には薬師如来像が安置されているようだ。

また薬師堂鐘楼の周りには、礎石が数多く観られ、
国分寺が大伽藍であったことが窺がえます。

その礎石を辿って行くと、薬師堂仁王門があり、
茅葺で江戸時代の建築様式が見られ、中の仁王様がにらみを利かせていた。

(薬師堂1)
(薬師堂2)
(薬師堂鐘楼)
(礎石が沢山観られる1)
(礎石が沢山観られる2)
(礎石が沢山観られる3)
(仁王門)
(仁王門の扁額)
(仁王門の阿形の仁王様)
(吽形の仁王様)
(仁王門前の国分薬師如来の石柱)
(仁王門から見た薬師堂)

さて、芭蕉の足跡は、この薬師堂の西側にある準胝(じゅんてい)観音堂の参道にある。
仁王門から左へ目をやると、準胝観音堂は林の中に朱塗りの姿を見せている。


(準胝観音堂は林の中に朱塗りの姿)
(準胝観音堂)
(準胝観音堂の参道脇に見える芭蕉句碑)
(芭蕉句碑)
(「あやめ草~」の句碑)

参道にある芭蕉句碑には、

・あや免草足尓  芭蕉翁
     結ばん艸 鞋能緒

(あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒)と刻まれている。

おくのほそ道に、「あやめふく日也」と書きこんでいるが、
この俳句のの伏線であったと考えるのは考えすぎであろうか・・・・。
薬師堂西にあやめ草の一群が咲いていた。

碑陰には句碑建立の由来が書かれているらしいが、
ボクには読むことが出来なかった。

ただ、最後の一行に

・暮れかねて 鴉啼くなり 冬木立

とかろうじて読める程度であった。

(芭蕉句碑の裏面)

準胝観音堂の裏側に回ると、各種石造が立って居り、
中に延命地蔵さんがあった。

(延命地蔵尊など石造物1)
(延命地蔵尊など石造物2)

これら石造物も芭蕉が訪ねた頃より、何百年と風雨の中にある。






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