楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

六義園ー都立公園へ行こう (その7)

2016年11月30日 07時00分20秒 | 東京の庭園
都立庭園は全部で9庭園あります。
その一つ「六義園(りくぎえん)」へ行ってきました。

(特別名勝 六義園のポスター)

(六義園を囲むレンガ塀)


六義園の回りは赤いレンガ塀で囲まれている。
庭園としては、少し物々しい感じがしないでもない。
さすが川越藩主で、五代徳川将軍綱吉の信任厚かった柳沢吉保の庭園だっただけの事はある。
明治になって三菱の創業者 岩崎弥太郎の別邸となり、
昭和13年(1953)東京市に寄付された庭園です。

(六義園入り口)

(内庭大門)


受付で料金を払い、内側の門をくぐると、
春は桜のライトアップで名高いが、
今は葉を落として見る影もない枝垂れ桜が、入園者を待っている。
その脇に、今盛りの菊の懸崖の鉢植えが色とりどり並んでいる。
その先に竹垣に囲まれたもう一つの門があり、
夜間の来客に合わせて、竹で作った門燈が両脇にぶら下がっている。
外国人が、中にろうそくが入っていると説明しているのが聞こえたので、
無粋であるが、電気のケーブルがつながっているので、
竹の中は電球ですよ、と訂正した。

(葉の落ちた枝垂れ桜)

(六義園)

(懸崖の菊の鉢植え)

(竹垣に囲まれたもう一つの門)

(左右の柱にぶら下がった竹製の門灯)


門をくぐると、芝生に広がる庭園の向こうに池が見え、
囲まれる木々が色づいて、黄色、赤と青空に映えて美しい。

(六義園を作庭した柳沢吉保が著した日記「楽只堂年録/らくしどうねんろく」の、
元禄15年10月21日の項にある「六義園記」には、
六義園の作庭意図や、
「八十八境」と呼ばれる名所の由来が記されています。)(東京都公園協会による)
その日記には「六義園」図があり、「むくさのその」の振り仮名があり、
元は「りくぎえん」でなく、「むくさのその」と呼んでいたことが解る。
それが後に「りくぎえん」と呼ばれるようになって「りくぎえん」と読むようになった。

紅葉の始まったばかりの六義園では、
恒例の雪吊りの準備が始まっており、植木屋さんは大忙し。

雪吊りを障害者に説明しながらの作業は思い通りに進みません。
そのうち一般観光客も混じって、一大イベントになってしまいました。

(青空に始まった紅葉が美しい1)

(青空に始まった紅葉が美しい2)

(池を挟んで雪吊りが絵になる)

(雪吊り1)

(雪吊り2)

(雪吊り3)

(車いすの人に説明する植木職人)


順路に沿って進むと、森の木陰に宣春亭があり、お茶室になっている。
池の方を見ると蓬莱島が陽に照らされて鮮やかである。
蓬莱島はあの世の極楽を顕す。

(蓬莱島1)

(蓬莱島2)

さらに進むと、石柱「志(し)るべの岡」があります。

庭内には88カ所の景勝地があり、
それぞれに案内の石柱が建てられていたと言うが、
現在残っているのは32カ所と言う、
そのうちの一つです。

その先に滝見茶屋がある。
この茶屋(東屋)の横を渓流が走り、
滝や石組み(水分石)など景観を楽しみました。

(「志(し)るべの岡」の石柱)

(滝見茶屋)

(滝や石組み)

(茶屋から見た景観)

池を一巡りして、先ほどの雪吊りを作業していた場所を、
反対側から見ると、
まだ職人さんが作業していると見えて、人だかりがしている。
池を見ると、景色が池の水面に反映して美しい。

(人たかりの雪吊りが水面に映って美しい)

この時期に、松の木の枝についている害虫が、
暖かい場所好んで越冬する習性を利用し、
幹に巻いた菰の中に誘い込んで捕獲すると言う、
伝統的な害虫駆除の菰巻きの様子をご覧ください。
庭園の趣旨を汲んでか、見栄えのする荒縄の結び方です。
この菰は虫が這い出ると言う3月の啓蟄(けいちつ)の頃、
幹から菰を剥いで焼却します。

(荒縄の結び目)

蓬莱島を反対側から鑑賞します。
日に映えて紅葉が目に沁みます。

(蓬莱島)

(その紅葉)

(紅葉を裏側から見て)

(渡月橋)


これで六義園を一周しました。
帰りは染井門から退出します。
染井門を出ると、道路反対側にJR駒込駅が見えます。
JRでお出での方は駒込駅が近いですね。
なお、入場料は
一般300円、65歳以上は150円で、
休園日は年末年始(12/29~1/1)の4日間だけです。

(六義園の染井門)

(JR駒込駅)



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甘泉園(都電で散歩 3)

2016年11月26日 05時36分23秒 | ひとり歩き旅
都電で巡る散歩の3回目になる。

今回は新宿区立庭園 「甘泉園」


都電の終点「早稲田」の一つ手前の停留所に「面影橋」がある。
以前、太田道灌の「山吹のエピソード」を綴った場所です。
山吹の里をクリックしてご覧ください。)

その面影橋駅で電車を降りて、面影橋の橋を背に道路を横断し、
早稲田方向に歩き最初の路地の右手に「水稲荷神社の」大きな石柱があります。
まっすぐ進めば水稲荷神社ですが、左手に小公園があり、
さらに左手に目指す「甘泉園」公園がある。

(水稲荷神社の石柱)

(甘泉園公園)


新宿区によると、
(甘泉園は、江戸中期の安永三年(1774)徳川御三卿の一つ、
清水家の下屋敷が開かれたところである。
明治三十年ごろ、相馬家の所有となったが、
昭和になって早稲田大学に移譲された。
戦後、東京都が買収、改修の手を加えて、
昭和44年新宿区に移管した。
庭園は神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜地と
その低地にあって、
段丘の高低差を利用し、泉の水を引いた回遊する林泉になっている。
池端より見上げる雄大な常緑樹林に囲まれ、
春のつつじ、秋の紅葉が水面に写り、見事な景観を作り出している。
「日本の歴史公園100選」に算定された。)(平成二十四年新宿区)とある。

説明にある回遊式庭園をゆっくりご覧ください。(入場料無料)

(甘泉園入り口)

(甘泉園の額)

(入り口を入った所)

(池の周りに遊歩道A)

(池の周りに遊歩道B)

(泉池)

(飛び石)

(湧き水が落ちている)

(池2)

(段丘の高低差1)

(段丘の高低差2)

(段丘の高低差3)

(段丘の高低差4)

(池3)


(池4)

(休憩所の東屋)

(囲まれる常緑樹林)


ご近所の方の散歩姿が見られ、
若いカップルがベンチで語らう姿が見られた。
新宿の名だたる喧騒が嘘の様な庭園で、
鳥の声、子供の声以外聞こえない静かさだ。

甘泉園の奥に、冒頭の「水稲荷神社」があり、
早稲田の創始者 大隈重信が散歩の時、
毎日お参りした稲荷神社と高木神社があり、
早稲田大学に合格祈願の参拝者はお参りしたいものです。

(稲荷の鳥居)

(水稲荷神社)

(高木神社)

また、狩りの途中のエピソードの太田道灌が、
駒を繋いだ松の木も残っています。
(ずいぶん若い松だ、五代目くらいだろうか?)

一度お訪ねください。

(太田道灌の駒つなぎ松)

(その案内看板)
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おえんまさま(都電で散歩 2)

2016年11月22日 05時55分47秒 | ひとり歩き旅
四谷怪談で有名なお岩さんのお寺の左隣に「善養寺」がある。

(天台宗善養寺)


(上野寛永寺の末寺で正式には、薬王山延寿院善養寺という。
本尊は薬師如来像である。

もともと上野公園内にあったものが、鉄道用地拡張にかかると言うことで、
現在地 豊島区西巣鴨に移転してきた。

本堂には高さ約三メートルの木造閻魔王坐像(豊島区登録有形文化財)が鎮座し、
広く信仰を集めていることから、「おえんまさまの寺」とも呼ばれ、
新宿区新宿二丁目の太宗寺(たいそうじ)、杉並区松ノ木三丁目の華徳院とともに、
江戸の三大閻魔の一つとして、親しまれてきた。
境内には延宝八年(1680)の駒形庚申塔、
江戸時代中期に活躍した陶工・絵師 尾形乾山の墓(東京都指定旧跡)、
フランスでジュリオ・キュリー教授(キュリー夫人の娘婿)の
指導を受けた原子物理学者湯浅年子の墓が残されている)(豊島区教育委員会)

(善養寺本堂)

(本堂の「薬王山」の扁額)

(伽藍の中で目を剝く三大閻魔王坐像)

(本堂前の駒形の庚申塔)

(鎌形の庚申塔というから、馬の形をした庚申塔かと思ったら、
何のことは無い将棋の駒の形であった)

本堂の左手から墓地に入ると、
六道へ地蔵様が出迎え、すぐ左に尾形乾山の墓はある。
また六地蔵の脇に、この寺が以前下谷にあったことを証明する、
「元下谷坂本善養寺道」の石柱があった。

(六道の地蔵さま)

(「元下谷坂本善養寺道」の石柱)


尾形乾山については、以前焼き物に凝っていた頃に知った。
ずいぶん沢山の贋作があることで有名だった。
有名な陶工であることを知っており、
尾形乾山の作風は、几帳面というか、正確と言うか、
例えば書で言うならば、崩れた文字の行書と言うよりは、
形が整った楷書の様な作風で、造られた焼き物も、
丸いものは丸く、四角なものは四角に、
正確にかたどられていたので、解りやすかった。
焼き物に描かれた絵も端正で美しかった。

それが贋作は、その正確さが無く、
少し崩れたという品物であるため直ぐ解った。
贋作が多いと言うことは、作品を欲しがる人が、
多かったと言う証拠にはなる。

(尾形乾山の墓)


尾形乾山については、
(尾形乾山は画法を兄尾形光琳に、陶芸を野々村仁清に学び、
京都の鳴滝、次に二条丁子屋町で作陶に励み、
後に江戸下谷の入谷村に移り住み窯を開きました。
享保三年(1743)に亡くなり、
下谷坂本の善養寺に葬られました。
その後墓の存在は忘れられていたが、
江戸琳派の酒井抱一(日本画家)らによって発見され、
顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられました。 後略)
(東京都教育委員会)
 
(酒井抱一が建てた乾山深省蹟の石柱)


尾形光琳(後に琳派と呼ばれる画工)の絵は、
記念切手にもなった「カキツバタ図」「白梅図」が有名である。

また陶工 野々村仁清は色絵陶器で大変有名で、
その下絵は一冊の本になって、デザイン集として美大の学生に重宝され、
現在でもデザインのお手本になるほどである。

東京都教育委員会の説明の中にある日本画家の
酒井抱一の描いた、「夏秋草図屏風」は上野の国立博物館所蔵で、
ボクの大好きな絵でもある。
国立博物館の地下にあるミュージアムグッヅ売り場で、
この絵を風呂敷にしたものを購入し、
我が家に壁に飾っているほど大好きな絵である。

(酒井抱一の夏秋草図屏風webより)


尾形乾山の事はこれくらいにして、
乾山のお墓の左横に、
フランスでジュリオ・キュリー教授の指導を受けた
日本人の原子物理学者湯浅年子の墓がある。

(湯浅 年子(ゆあさ としこ)(1909 - 1980)は日本の物理学者で、
パリのコレージュ・ド・フランス原子核化学研究所、
CNRS(フランス国立中央化学 研究所)で研究した。
日本国外で活動した初の日本人女性物理学者 /後略)(WIKIPEDIAより)

(湯浅年子の墓)

(墓前の年子の歌碑)


この時代に女性で原子物理学を
フランスで学んだ科学者がいらっしゃったことに感動した。


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お岩さん(都電で散歩 1)

2016年11月19日 05時20分46秒 | ひとり歩き旅
「とでんで」と言う小冊子が、
都営地下鉄の駅前に置いてあったので、
もらって電車の中で読み、思い立って記事の沿って歩きました。
東京に残っている唯一の都電荒川線は、
都電三ノ輪駅(荒川区)から、北区の王子駅前、
豊島区雑司ヶ谷の鬼子母神前駅、学習院下駅を抜けて、
早稲田駅(新宿区)までを走る路面電車。

(路面電車)


先ずは表題の「お岩さん」。
四谷怪談で有名な「お岩さん」です。

「お岩さん」を見に行く訳ではなく、
「お岩さん」が眠るお墓を見に行くのです。

豊島区にある、都電「新庚申塚駅」で降ります。
目の前に広い通りの国道17号線(通称中山道)があり、
線路と線路に並行する道路と交差しています。
その交差している道路の東側が「お岩さん通り」になっています。

(お岩さん通り)


その「お岩さん通り」を線路に沿って東へ進みます。
駅から数えて二本目の路地を左へ、電車の踏切を渡ると、

お岩さんが眠るお墓がある「妙行寺」の門前に出ます。
(豊島区西巣鴨4-8-28・開門時間8:00~17:00)
門前の石柱には、「お岩さんのお寺 長徳山妙行寺」
とあるからすぐ解る。

(長徳山妙行寺門膳の石柱)

(奥に見える本堂)


門の中に入ると、まず右手に、魚がし供養塔、
その先に浄行様、そしてうなぎ供養塔、
それから納骨堂、突き当り正面に本堂がある。

(魚がし供養塔)


魚がしで犠牲になった生類の供養塔です。

(浄行様)


浄行様は手水場で清潔な仏水で悪い所を洗えば、
その箇所が良くなると言われます。

(うなぎ供養塔)


うなぎ供養塔は都内 全うなぎ商の菩提心により建てられた供養塔です。

(納骨堂)

これは説明が要らないでしょう。お遺骨をお預かりするところです。


突き当りに本堂ですが、その手前右手に立正大師 高祖三蓮大聖人の像がある。

(本堂と高祖の像)

(本堂の扁額)


長徳山妙行寺は法華宗陣門流の寺院で、
1624年(寛永元年)四谷鮫河橋南町にあったが、
1909年(明治42年)現在地の西巣鴨に移ってきた。
本尊は大曼荼羅と言う。
本堂をのぞいたがよく解らないので写真をご覧あれ。

(本堂内にはご本尊大曼荼羅は見えない)

(webから拝借した曼荼羅)


諸仏が並んでいる。

本尊の隣には、お岩さんを祀ってあった。
(本堂内左のお岩尊齢霊のある祭壇)

さて、肝心のお岩さんのお墓であるが、
本堂左手にある墓地への通路を見ると、
(お岩様左へ)の案内が書いた石柱が建っている。
矢印に沿って進むと、鳥居があって説明板がある。

(お岩さん左の案内石)

(鳥居と案内看板)

(説明板)


この説明板によると、まず最初に忠臣蔵の中心人物、
浅野内匠守の奥方のお墓が先に有って、
その前を通って右に回ると、
一番奥にお岩さんのお墓はあるようだ。

(浅野家のお墓)


忠臣蔵の面々のお墓は泉岳寺にある筈なのに、
奥方だけはここにあるとは大発見である。
南部坂雪の別れで、大石蔵之助が主君のかたき討ちの報告に、
雪の中を奥方を訪ねて来たのに、
奥方の屋敷内にいる、吉良方の間者に気付いて、
「仇討ちなんて、滅相も無い、致しません」と答えた。
有名なエピソードを思い出す。
(こんなエピソードも、浪曲師か講談師の創作らしいが)
奥方の墓には法名として、
「妙法 瑶泉院殿良螢正澄大姉淑霊」とあった。

(浅野家の墓2、左が奥方のお墓)

(「妙法 瑶泉院殿良螢正澄大姉淑霊」と読める) 

右へぐるりと回ると、お岩さんの嫁ぎ先田宮家の墓が手前にあって、
一番奥の一段高い所にお岩さんのお墓がある。

(田宮家の墓)

(田宮家の墓2、一番奥の高い所がお岩さんのお墓)

(お岩さんお墓)


あまり長々といるとお岩さんに取りつかれてしまいそうなので、
早々に退散した。
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一向寺(旧日光街道を歩く 61)

2016年11月16日 05時25分55秒 | ひとり歩き旅
青照山一向寺の参道と山門が見えたので、中へ入ってみる。

(一向寺の参道と山門)


参道を進み山門前に来る。この門の屋根には桐の門がきらりと光って見える。
門をくぐると本堂であるが、ここの扁額は「弥陀堂」となっている。

説明によれば、
(この寺の客仏である阿弥陀如来坐像は、
第12代城主 宇都宮満綱が願主になって、
応永12年(1406)、長楽寺の本尊として造られた。
明治2年(1869)長楽寺が廃寺になったので、
一向寺に移された。

この仏像は世の中に異変が起こる前になると、
汗をかくと言う伝説が残されており、
「汗かき阿弥陀」の名で親しまれている。
五十里洪水や関東大震災の前日にも汗をかいたと言う。
日曜日には拝観が可能。)と言う。

(山門)

(本堂)

(扁額の弥陀堂)


仏像拝観の日曜日まで待てないので中を覗いて見たら、
座像でなく、阿弥陀如来立像であった。残念!

(阿弥陀如来立像)


一向寺を出ると日光街道の向こう側に鳥居が見える。
入ってみると神社は天満宮である。

(道路右手の鳥居)

(天満宮)


前回、菅原神社の項で書いたが、
宇都宮市は菅原道真が、
昔、裁判官をやって居たことがあるので、
神社があるようだ。

菅原神社は宇都宮城の東の守護神で、
こちらの天満宮は西の守護神と言うことになっている。

この先県道10号線に突き当たるまで、紹介すべきものはない。
10号線を右折してかなり先の左手に「二荒山神社」があり、
その先にJR宇都宮駅がある筈である。

時計を見ると16時を回っており、
高いビルは明るいが、あたりは薄暗くなってきた。

やがて宇都宮「二荒山神社」が見えてきたが、
暗くて写真もままならないが、
載せて置くことにする。

(二荒山神社)

(JR宇都宮駅)


次回、明るい内に写真をものにして紹介したい。
JR宇都宮駅から帰途に就いたが、
列車に異常音があり点検のため、通常より列車が遅れ、
帰宅したのが19時過ぎであった。

JR雀宮駅より宇都宮までまっすぐ歩けば15km弱であるのに、
道を間違えたり、目指す社寺を探して歩いたこともあって、よく歩いた。
結果5万歩、距離にして約30km、
お陰で、足の裏にマメが出来てしまった。

この後、宇都宮宿から徳次郎宿であるが、
電車の便は無く、帰りはバスになるが、

1時間に2~3本あるだろうか、やや不安である。






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