楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

秀吉の生まれ故郷

2015年11月29日 06時52分23秒 | ひとり歩き旅
秀吉が日吉丸と呼ばれた幼い頃に生まれ育った場所。
名古屋市の中村にある。
表題に「秀吉の生まれ故郷」と書いたが、
実はボクの故郷でもある。

今は常泉寺と言うお寺になっている。
「太閤山 常泉寺」と言う。

(太閤山 常泉寺の石碑)

(山門の「太閤山」の扁額)


門をくぐると正面に本堂があり、
その途中の左手に石で囲った木が植えてある。
これは秀吉お手植えの柊(ひいらぎ)で、
高校生の頃、伝え聞いた話では、
秀吉が柊の木を逆さに植えた所、根づいて芽が出てきたと言う。
人生どん底に落ちても頑張れば必ず目が出ると教えられた。

受験とか就職とか願い事がある時に、
この柊の葉を一枚取って懐に入れて置くと願いが叶うとされていた。
その頃はまだ柊の木も高さは腰ぐらいまでしか無かったが、、
今では、写真で見る通り2m近くなっている。
五代目の柊と言う。

(お手植えの逆さ柊(ヒイラギ)


この柊の左隣に、「日吉」の産湯の井戸がある。
以前は、丸い井戸であったが、
やがて井戸の上に金網を設け、
少し見た目を良くしたが、
その内、訪ねる人が多くなって、井戸も四角に仕切って、屋根も付けたようだ。
井戸の入口の石碑には「豊公御誕生井」と書かれている。

(豊太閤と産湯の井戸)

(きれいに整備された産湯の井戸)


豊太閤産湯の井戸として、常泉寺の説明に依ると、

(この井戸は、秀吉公生誕の当時、
清水の溢れる井戸と伝えられています。
ここに秀吉の依頼により寺を建立した時、
この清泉の湧出を意味として、
「常泉寺」の寺号を定めたと当山の縁起書に記されております。
昭和四十年代に入り、市の発展に伴い、
地下水の変動で常泉も枯れるに至り、
多くの人々が元の姿にもどすことを願っていました。
年号改元を機に常泉寺の名の通りの再現を試み清泉がよみがえりました。
滝の落花する後の石は千成ひょうたんにちなんで、
「萬成石」を使用してあります。
平成三年十月  当山)とある。

つまり名古屋市の発展に伴い宅地化が進み、
産湯の井戸は一度枯れてしまったが、
沢山の人が見に来るので、
再現を試み、井戸を掘り進めたら、
水が溢れるように出てきた、と言うのだが、
少々怪しい説明である。

ボクが高校生の頃に見た井戸は、底の方にきれいな水が溜まっていた。

(産湯の井戸)


確かに写真で見る限り、水は溢れている。
まさか水道水? あまり疑わない方が楽しい・・・

井戸の前の「豊太閤の像」をご覧ください。
産湯の井戸にしては晩年の関白秀吉になっているが、
場所柄いたずら者の日吉丸か、
すこし大きくなって針売りになった藤吉郎の像の方が良かったようにも思える。

(豊太閤の像)


産湯の井戸の後ろに出口があり、
「豊公太閤山」の石碑と「木下長嘯子(ちょうちょうし)邸址」の石碑がある。

(豊公太閤山の石碑)

(木下長嘯子邸址の石碑)


木下長嘯子(ちょうちょうし)は案内によると、
(木下家定の長子、秀吉の正妻 北政所の甥に当たる。
秀吉のもとで若狭九万石を領したが、
関ケ原の戦いでは去就に迷い、所領を失った。
こののち、京都東山に幽棲、風月を楽しんだ。
歌文に優れ「挙白集」は名高い。)とある。

出口から左折すると加藤清正生誕地の妙行寺がある。

(太閤山の出口)

(清正公妙行寺避難口が見える)





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子供と農業をつなぐーお祭り

2015年11月25日 08時37分22秒 | 日記
子供と農業をつなぐフェスティバル(お祭り)が開催された。

朝取りの瑞々しい野菜で溢れていると期待して出かけた。
期待は外れて、農業に携わる製品の紹介のようなものだ。

野菜はもちろん、略農に関わる羊から牛・豚・鶏に至る家畜などと、
これ等と関連する製品、アイスからチャーシュー、ハムソーセージ、
お餅から柿の種、味噌醤油、トラクターから農機具まで総出で展示し、
子供を中心に、試食し、安売りをして、大人気である。

都心のど真ん中、その広い野原一杯繰り広げられた。
TVの取材でニュースが流れ、いやがうえに盛り上がっていた。
足の踏み場もない程の人混みの中、無料試食・試飲には長蛇の列。

(農業まつりの人出)

(豚さんは子供の人気者)

(最初はグー)


日本全国から農協さんと食べ物屋さんが、
将来の購買層を狙って出店している。

(俺たちの豚肉を食ってくれ)


フナッシーは居なかったが、各県のゆるきゃらも元気いっぱい。
(ぐんまちゃん)

(新潟のトキのゆるキャラ)


子供たちも勢ぞろいして農産物の宣伝に一役買っている。

(販売に一役買っての子供たち)

(販売に一役買って、リンゴ買ってちょうだい)


何時も家にはない戦車のようなトラクターに乗ってご満悦。
田舎では見るのも嫌なトラクターも都会っ子には大人気。

(トラクター1)

(トラクター2)

(トラクター3)


大盛況のフェスティバルであった。
帰り際に、ネギとキャベツ、それぞれ100円均一で買って帰った。

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野木宿(旧日光街道・奥州街道 40)

2015年11月21日 08時00分15秒 | ひとり歩き旅
(野木宿)

野木神社を出て、一の鳥居のあるところまで戻り、
旧日光街道を進むと、道路はすぐ国道4号線に合流する。
国道4号線に入ってから、振り返ると右手に森が見え、
あれが野木神社の一の鳥居があった所と確認できる。

(合流地点を国道4号線から右の森が野木神社)


国道4号線は、さすがに車の量も増える。
国道を横断する陸橋が通学路に設定されている。
陸橋の脇を抜けて進むと歩道上に
(東京から64km)の案内看板がある。

(横断歩道陸橋)

(東京から64km)

(東洋精工株式会社の看板)


この先に、東洋精工株式会社の看板があり、
何やら東京第一部上場会社のようなネーミングであるが、
どこかの下請け会社のようだ。

その先の路地のブロック塀の脇に小さく
(野木宿入口)の看板が立っている。
注意していないと見落としそうであるが、
ここに往時は野木宿本陣があり、
野木宿の大木戸があった場所である。
その先に、野木宿についての説明板がある。

(野木宿大木戸址)

(野木宿本陣跡と野木宿の説明板)


野木宿は、古河宿から僅か2.6kmしかないが、
本陣脇本陣 各一軒あり、
問屋は4軒あったと記されている。
脇本陣は道路を挟んで反対側にあったと言うが、
今は何も残っていない。

この短い距離に宿場があり、しかも問屋が4軒あったと言うことは、
荷物量がかなり多かったと言うことになる。
日光道中と奥州道中が一緒になって居る所為もあろうが、
少し納得いかない点でもある。

この後の宿場などを訪ねて、解き明かしていきたいと思っている。

やがて左手に満願寺があり、入口に十九夜塔がある。
お寺そのものは特記することはないが、
入口の十九夜塔については、
別名を子安講(こやすこう)といい、
安産や子育て、子供の健康を祈願する、女性の集まりで、
特に栃木県に多いと言われます。

(満願寺門前の十九夜碑)


その先の信号角に、「一里塚」の案内があり、
江戸から十七里の地点であったと記されている。
この信号を左折してすぐの所に、
妙福辨財天が坂の下にある。
階段を下りると周りを水に囲まれた神社で、
野木で唯一の弁財天という。

(信号)

(一里塚跡の案内看板)

(妙福辨財天)


さらに進むと古い道標がある。
古くて「是より・・・」がかろうじて読める程度で、
これでは道標にはならないが、
案内看板によれば、「是より太平山道」と書かれているらしい。
かっては日光への裏街道であったらしい。

(「是より・・」が読める古い道標)

(日光の裏街道の案内とこの道 左が日光裏道)


野木町教育委員会の案内によると、
(本道標は、日光道中野木宿から下生井・白鳥・部屋・榎本を経由し、
栃木へ向かう日光山近裏道と呼ばれた脇往還入口に建てられている。
この道は、栃木で例幣使街道へ通じており、
野木以南と日光方面とを短絡する道であった。
日光街道が宇都宮まで奥州道中と重複しており、
荷物の輸送や往来する人々で混雑したため、
迂回路を示す道案内として、
こうした道案内が建てられたものと思われる。
ー後略ー)とある。

すぐ先の左に観音堂があり、
石柱には「下野国都賀郡野木町」と書かれている。
日光街道を道中する旅人の安全を願ったものと思われる。
右脇にはここにも十九夜塔が並んでいる。

(下野国の石柱と観音堂)

(日光道中と左端の十九夜塔)


日光街道はこの先 記すべきものはなく、
しばらくは大量の自動車の往来に脅かされながら進み、
信号にして三つめの(友沼)の信号を右折して、
JR野木駅に向かい帰路に付いた。

(一つ目の信号)

(二つ目の松原の信号)

(ベイシアマートの前を通る)

(野木駅左の案内)

(友沼の信号)




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野木宿へ(旧日光街道・奥州街道 39)

2015年11月18日 08時06分55秒 | ひとり歩き旅
(野木宿へ)
古河宿の鉤の手を曲がると、宿場らしく常夜灯の形をした正麟寺の案内看板がある。

その旧街道をまっすぐ進む。やがて前方に県道261号線らしく、
自動車の往来が見えるようになると、
左手に正麟寺左折の案内が見えるので左に折れる。

(正麟寺入口)

(正麟寺の本堂)


この寺は「新訳和蘭国全図」などを著わし、
西洋学問で豊富な成果を収めた古河城の家老 鷹見泉石の墓があるとされますが、
見渡したところ見つからなかった。

その隣りに、街道から古木のある長い参道を経て、
赤門のある長久山 本成寺がありますが、特記するものはない。
山門が赤門と言うのは珍しいことで、
およそ赤門は奥方の通用門であることが多い。

(長久山 本成寺の赤門)

(本成寺の本堂)


旧日光街道に戻って進むとすぐ県道261号線に合流するが、
合流地点にある常夜灯に「古河宿」とあり、
古河宿はここで終わり、茨城県から栃木県に入って行く。

(古河宿の常夜灯)


県道261号線を進むと、左手にショッピング・モールが見える。
100円ショップやメガネや、電気量販店など集まって建っている。
そのモールの切れ目に、大きな煙突が建っているのに気付いた。

(ショッピング・モールの間に見える煙突)


あたり一面田畑の中を煙突目指し歩く。
手前に大きな乗馬クラブらしきものが見え、
その奥に「野木町煉瓦窯」の煙突が見えるが入口が何処か分からない。
柵らしきものをグルッと廻って行くと入口が有るが、
「ただいま修復中で入場できません」の張り紙がある。

仕方がないから隣の乗馬クラブに入れさせてもらい、
乗馬クラブから写真を撮る。

(野木町煉瓦窯の案内)

(旧下野煉瓦製造会社煉瓦窯)


案内によれば、
(野木町煉瓦窯は明治二十三年に完成。
この巨大な煉瓦窯はホフマン式輪窯と呼ばれ、
ドイツ人のフリードリヒ・ホフマンが発明した連続窯の一種。
ホフマン式輪窯は最初円形でしたが、後に効率の良い楕円形に改良されました。
日本に現存するホフマン式輪窯は、わずか四基のみで、
他の三基は長方形もしくは楕円形であるのに対し、
当地に残る窯は完全な円形となっている。
世界的に見ても極めて貴重なものと言えます。

(中略)

これは、日本の近代化の貢献した産業・交通・土木の遺産である
「近代化遺産」として飛び抜けて古い国指定重要文化財となっています。)
(野木町教育委員会)

世界遺産に登録されても不思議はないほどの建造物の思われる。

旧街道に戻り進むと、右手に野木町煉瓦窯と乗馬クラブ クレイン栃木の案内看板が見える。
畑の中の道を左右に踏み分け歩かなくとも、ここから行けば楽な道のりではあった。

(野木町煉瓦窯と乗馬クラブの案内)

(野木神社の石柱と一の鳥居)


さらに進むと左手に「野木神社」の石柱・石の鳥居が見える。
野木神社の一の鳥居である。
鳥居のすぐ先に太鼓橋がかかっており、「おみはし」と書かれている。

(太鼓橋のおみはし)

(「おみはし」と書かれている)


鳥居の奥を覗くと、はるか先に二の鳥居が見え、
さらにその先に三の鳥居も見える。
かなりな距離がありそうな参道である。

(二の鳥居と三の鳥居が見える)

(参道上のマンホール)

(三の鳥居と野木神社)


二の鳥居の右横に小学校の運動場が見え、体育の授業が行われている。

野木町の古い神社らしく、
由緒には、
「仁徳天皇の時代に下野の国に国主が赴任した折、
応神天皇の皇太子の遺骨を祀ったと伝えられる。
その後延暦年間(1200年前)坂上田村麿が、
北国平定し凱旋途中に、その報告を祝って社殿を造った。
鎌倉時代には、社領及び神馬の寄進を受け、北条時頼公より、
左右相殿の息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)、
ほか四神を新たに祀る。
江戸時代に入り、代々の古河城主はこの神社を領内の祈願所とし、
文化三年には社殿を焼失し、当時の古河城主 土井利厚公は、
領民の協力を得て再建。
明治に至り、乃木将軍は当社を熱く敬い、度々参拝におとずれ、
愛用の軍刀をはじめ数々の家宝を奉納した。」とある。

由緒ある神社である

(野木神社の大イチョウ)

(大イチョウ2)


野木神社には、背後に森が重なっているが、そこにはフクロウも住み、
坂上田村麿が植えたと言う大イチョウがある。
その隣に、オッパイの形をしたものが沢山ぶら下がっている。

案内によると、
「この大イチョウには、婦人たちの乳が出て乳児が健康に育つように、
米ぬかと白布で作った乳房で祈願する民間信仰がある」と言う。
(野木町教育委員会)

(乳房信仰の奉納された乳房)

(森に棲むフクロウの写真)


野木神社を出て、一の鳥居のあるところまで戻り、
旧日光街道を進むと、道路はすぐ国道4号線に合流する。




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電動車いす

2015年11月13日 08時19分54秒 | つれづれなるままに考えること
散歩の途中、何時もすれ違う車椅子がある。

自動車がやっと二台すれ違うことが出来る細い道だ。
ここでは、歩行者も自動車も同じ道路を通り、
歩行者用には道路の両端に白線が引かれ、
その中を通るのが交通のルールである。

ルールを知っているのかどうか知らないが、
この電動車椅子、何時も道路の真ん中を通る。

ボクは歩行者だから、道路の端を通るが、
四輪自動車は道路の中ほど、二輪車はその端、
さらに端を自転車や歩行者が通る。
車椅子は歩行者と同じ道路の端を通るのがルール。

電動車椅子には、赤い帽子に白いマスクをつけた、
おばあちゃんが乗っている。

今日、出会った時には、
やはり道路の真ん中を我が物顔で、
真ん中を通行していた。

後ろに何も通らない時は、これでも良いが、
今日は、後ろにマイクロバスが通りかかった。
このバスは、身体障碍者を集めてデイ・サービスに送り届ける車である。

最近の自動車は、省エネと環境の良化を目指してガソリンを消費しないように、
電気とガソリンの両方を使い分けるハイブリッド方式の車が多い。
低速度の時は電気を使い、高速度の時はガソリンを使い電気を充電すると同時に、
車両も推進する装置になっている。

街の中を走る時は低速だから電気でモーターを動かして走るから、
殆どエンジン音が周りに聞こえない。
盲目の人などは、隣りに車があることさえ気づかないくらい静かだ。
もっともボクのように音に鈍感だと、
隣りに車が来ても音では気付かず、見えてからハッと気付くケースが多い。

そんな具合だから、おばあちゃんいつもの通り道路の中ほどを通行していたが、
鼻水が出たらしく、道路の真ん中で車椅子を止めて、
やおらマスクを外し、鼻紙を出して拭った。
その間、後ろのマイクロバスは、警笛を鳴らすでもなく止まっている。

ボクが大声で、(おばあちゃんと呼べば失礼かと)
「おばさん、後ろに車が来ていて困っているよ」と、
怒鳴ると、おばあちゃん、チラッと後ろを見て、
電動車いすを道路脇に寄せた。

後ろのマイクロバスは、車椅子に声を掛けようとしていたのか、
窓を開けていて、通り過ぎるボクに手を上げて感謝の合図を送った。

そこで思うのであるが、

公共乗り物のバスや電車、長距離の汽車など、
身体障碍者のために、広くは社会的弱者のために、
特別な配慮をしてる。

バスの運転者さんが運転席から下りて、車椅子が乗れるように、
スロープを造り、乗り込むとスロープを格納し、
発着時に車椅子が動かないよう固定したり大変な作業がある。
そして下りる時には、文句も言わないで、この逆の作業をする。
たった一人のためにである。
しかも運賃は無料。

電車も同じだ。
車椅子が来ることが解ると、エレベーターの乗り口まで駅員さんが迎えに行き、
乗車ホームまで車椅子を運ぶ。
車椅子が乗り込む車両は決まっているので、その車両に車椅子を乗せ、
電車が満員だと、その場所を開けてもらい、
乗客は身を寄せ合って、車椅子の定置場所を作ってあげる。
(内心では、何もよりによってラッシュアワー選ばなくて、
ほんの少しだけ時間をずらして貰いたいものだと思っていても)
こんな気持ちを持つことこそ良くないのかもしれないが、
口にこそ出さないが、そう思うのは、ボクだけの事でしょうか。
電車が発車すると、降車駅に、車椅子が乗っていることを連絡をする。
降車駅では、電車の到着を待って乗降口に駅員さんが待ち構えており、
駅外まで運ぶ。



ここで先に述べた「おばあちゃん」ではないが、
他人(ひと)の親切に甘えて(自分が道路の真ん中を通るのは「当たり前」だ)と、
思わないでいただきたいものだ。

それなりに沢山の健常者の犠牲の上に成り立っているのだから・・・
それより何より交通ルールをしっかり勉強してもらいたい。
最近高齢者の事故が多いと言うが、
どう見ても高齢者のルール違反が多いように思える。
若い頃、自動車なんて数えるほどしか走っていなかった、
だから道の真ん中を通っても良いと言うことにはならない。
道路の横断は最短距離で渡れ、
どんなことがあっても自動車の前で、道路を斜めに横断しないでほしい。

そう考えるのはボクだけであろうか・・・









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