秀吉が日吉丸と呼ばれた幼い頃に生まれ育った場所。
名古屋市の中村にある。
表題に「秀吉の生まれ故郷」と書いたが、
実はボクの故郷でもある。
今は常泉寺と言うお寺になっている。
「太閤山 常泉寺」と言う。
(太閤山 常泉寺の石碑)

(山門の「太閤山」の扁額)

門をくぐると正面に本堂があり、
その途中の左手に石で囲った木が植えてある。
これは秀吉お手植えの柊(ひいらぎ)で、
高校生の頃、伝え聞いた話では、
秀吉が柊の木を逆さに植えた所、根づいて芽が出てきたと言う。
人生どん底に落ちても頑張れば必ず目が出ると教えられた。
受験とか就職とか願い事がある時に、
この柊の葉を一枚取って懐に入れて置くと願いが叶うとされていた。
その頃はまだ柊の木も高さは腰ぐらいまでしか無かったが、、
今では、写真で見る通り2m近くなっている。
五代目の柊と言う。
(お手植えの逆さ柊(ヒイラギ)

この柊の左隣に、「日吉」の産湯の井戸がある。
以前は、丸い井戸であったが、
やがて井戸の上に金網を設け、
少し見た目を良くしたが、
その内、訪ねる人が多くなって、井戸も四角に仕切って、屋根も付けたようだ。
井戸の入口の石碑には「豊公御誕生井」と書かれている。
(豊太閤と産湯の井戸)

(きれいに整備された産湯の井戸)

豊太閤産湯の井戸として、常泉寺の説明に依ると、
(この井戸は、秀吉公生誕の当時、
清水の溢れる井戸と伝えられています。
ここに秀吉の依頼により寺を建立した時、
この清泉の湧出を意味として、
「常泉寺」の寺号を定めたと当山の縁起書に記されております。
昭和四十年代に入り、市の発展に伴い、
地下水の変動で常泉も枯れるに至り、
多くの人々が元の姿にもどすことを願っていました。
年号改元を機に常泉寺の名の通りの再現を試み清泉がよみがえりました。
滝の落花する後の石は千成ひょうたんにちなんで、
「萬成石」を使用してあります。
平成三年十月 当山)とある。
つまり名古屋市の発展に伴い宅地化が進み、
産湯の井戸は一度枯れてしまったが、
沢山の人が見に来るので、
再現を試み、井戸を掘り進めたら、
水が溢れるように出てきた、と言うのだが、
少々怪しい説明である。
ボクが高校生の頃に見た井戸は、底の方にきれいな水が溜まっていた。
(産湯の井戸)

確かに写真で見る限り、水は溢れている。
まさか水道水? あまり疑わない方が楽しい・・・
井戸の前の「豊太閤の像」をご覧ください。
産湯の井戸にしては晩年の関白秀吉になっているが、
場所柄いたずら者の日吉丸か、
すこし大きくなって針売りになった藤吉郎の像の方が良かったようにも思える。
(豊太閤の像)

産湯の井戸の後ろに出口があり、
「豊公太閤山」の石碑と「木下長嘯子(ちょうちょうし)邸址」の石碑がある。
(豊公太閤山の石碑)

(木下長嘯子邸址の石碑)

木下長嘯子(ちょうちょうし)は案内によると、
(木下家定の長子、秀吉の正妻 北政所の甥に当たる。
秀吉のもとで若狭九万石を領したが、
関ケ原の戦いでは去就に迷い、所領を失った。
こののち、京都東山に幽棲、風月を楽しんだ。
歌文に優れ「挙白集」は名高い。)とある。
出口から左折すると加藤清正生誕地の妙行寺がある。
(太閤山の出口)

(清正公妙行寺避難口が見える)

名古屋市の中村にある。
表題に「秀吉の生まれ故郷」と書いたが、
実はボクの故郷でもある。
今は常泉寺と言うお寺になっている。
「太閤山 常泉寺」と言う。
(太閤山 常泉寺の石碑)

(山門の「太閤山」の扁額)

門をくぐると正面に本堂があり、
その途中の左手に石で囲った木が植えてある。
これは秀吉お手植えの柊(ひいらぎ)で、
高校生の頃、伝え聞いた話では、
秀吉が柊の木を逆さに植えた所、根づいて芽が出てきたと言う。
人生どん底に落ちても頑張れば必ず目が出ると教えられた。
受験とか就職とか願い事がある時に、
この柊の葉を一枚取って懐に入れて置くと願いが叶うとされていた。
その頃はまだ柊の木も高さは腰ぐらいまでしか無かったが、、
今では、写真で見る通り2m近くなっている。
五代目の柊と言う。
(お手植えの逆さ柊(ヒイラギ)

この柊の左隣に、「日吉」の産湯の井戸がある。
以前は、丸い井戸であったが、
やがて井戸の上に金網を設け、
少し見た目を良くしたが、
その内、訪ねる人が多くなって、井戸も四角に仕切って、屋根も付けたようだ。
井戸の入口の石碑には「豊公御誕生井」と書かれている。
(豊太閤と産湯の井戸)

(きれいに整備された産湯の井戸)

豊太閤産湯の井戸として、常泉寺の説明に依ると、
(この井戸は、秀吉公生誕の当時、
清水の溢れる井戸と伝えられています。
ここに秀吉の依頼により寺を建立した時、
この清泉の湧出を意味として、
「常泉寺」の寺号を定めたと当山の縁起書に記されております。
昭和四十年代に入り、市の発展に伴い、
地下水の変動で常泉も枯れるに至り、
多くの人々が元の姿にもどすことを願っていました。
年号改元を機に常泉寺の名の通りの再現を試み清泉がよみがえりました。
滝の落花する後の石は千成ひょうたんにちなんで、
「萬成石」を使用してあります。
平成三年十月 当山)とある。
つまり名古屋市の発展に伴い宅地化が進み、
産湯の井戸は一度枯れてしまったが、
沢山の人が見に来るので、
再現を試み、井戸を掘り進めたら、
水が溢れるように出てきた、と言うのだが、
少々怪しい説明である。
ボクが高校生の頃に見た井戸は、底の方にきれいな水が溜まっていた。
(産湯の井戸)

確かに写真で見る限り、水は溢れている。
まさか水道水? あまり疑わない方が楽しい・・・
井戸の前の「豊太閤の像」をご覧ください。
産湯の井戸にしては晩年の関白秀吉になっているが、
場所柄いたずら者の日吉丸か、
すこし大きくなって針売りになった藤吉郎の像の方が良かったようにも思える。
(豊太閤の像)

産湯の井戸の後ろに出口があり、
「豊公太閤山」の石碑と「木下長嘯子(ちょうちょうし)邸址」の石碑がある。
(豊公太閤山の石碑)

(木下長嘯子邸址の石碑)

木下長嘯子(ちょうちょうし)は案内によると、
(木下家定の長子、秀吉の正妻 北政所の甥に当たる。
秀吉のもとで若狭九万石を領したが、
関ケ原の戦いでは去就に迷い、所領を失った。
こののち、京都東山に幽棲、風月を楽しんだ。
歌文に優れ「挙白集」は名高い。)とある。
出口から左折すると加藤清正生誕地の妙行寺がある。
(太閤山の出口)

(清正公妙行寺避難口が見える)
