乙女不動尊・御滝山明王院 泉龍寺には、
その名に相応しい乙女の不動像が門前にあった。
(乙女不動尊・御滝山 泉龍寺)
右手の門柱の陰に見える乙女の不動像を拡大すると、下の写真になる。
(乙女の不動像)
こんなお寺には普通、赤い涎(よだれ)掛けをかけた地蔵様があるものだが、
ここには乙女の像がある。さすが乙女不動尊である、
若い乙女の像が燦然と輝いている。
赤い涎(よだれ)掛けの代わりに赤いマフラー、
墨染めの衣となる筈がロングスカートになっている。
しかも半袖で、ブルースカイに見事に屹立している。
思わず一礼して、先に進むと、鐘楼門があり、
その先に赤い太鼓橋があって、
橋の下の不動池には緋鯉の稚魚か、金魚か、が列をなして泳いでいる。
そしてその先に不動堂があります。
(鐘楼門)
(赤い太鼓橋と不動堂)
不動堂脇には、よくよく注意しないと見落としそうな芭蕉句碑があり、
・川上と この川しもや 月の友 はせを
と刻まれているようである。
岩波文庫の「芭蕉俳句集」の注意書きを見ると、
この句は、芭蕉がよく散歩した深川の小名木沢の地で作られたものらしい。
その句碑の前にブラシの木が赤い花を見事に咲かせている。
(芭蕉句碑)
(ブラシの花の木)
(ブラシの花)
不動堂の左に本堂があり、案内によると、
(北関東三十六不動尊霊場第十三番札所
通称 乙女不動尊
本尊秘宝大聖不動明王は、今を去る千百有余年前、
日光山中禅寺湖水より示現ご本尊に奉祀し給う。
当時疫病に悩む庶民の苦しみを救うため、
本尊に祈ったところ、この地に清らかな泉が湧き出でて、
病がたちどころに平癒したところから泉龍寺と言うようになった。
――後略――)とある。
(泉龍寺本堂)
(本堂の変額「泉龍寺」)
泉龍寺から日光街道の4号線に戻り進むと、
右手に「逢乃榎」の石碑がある。
(逢乃榎の石碑)
(逢乃榎の石碑と後ろの榎)
この場所は、江戸から18里、日光へ18里で、
ちょうど中間に位置していた榎であったため
「間の榎」(あいのえのき)と呼ばれ、
いつしか「逢の榎」の変わり、
祖師堂が建てられ縁結びの地として、
お参りする男女が多かったと言われる。
さらに進むと左手に龍昌寺が見える。
(天恵山龍昌寺)
(天恵山龍昌寺の山門と鐘楼)
(左は寝起き不動堂と右は本堂)
(寝起こし不動堂の変額)
寝起不動尊縁起(ねおこしふどうそんえんぎ)によると、
(当山の寝起こし不動明王は、むかし水戸城内龍江院に祀られていましたが、
元亀(1570~1572)の頃、模庵和尚が明王の示現によって、
尊像を背負い杖に縋って行雲流水の旅に出られた。
しかし、和尚は老弱であり日ごとに衰弱がひどく、
当地にたどり着くと足も動かなくなり、死ぬ苦しみで、
一夜が明けようとする時、明王が枕辺に現れて申すには、
「この地こそ済度化縁(さいどけえん)の地なり、
人々の病難諸難を救って無量の福徳を与えよう」と、
和尚は寝起こされ、思わず尊像を拝むと、
疲労と病が一時に消えて杖を使わずに立ち上がることができたと言う。
そこで人々は寝起こし不動尊と呼んで、万難消滅、万福将来を祈願して、
お堂を建て尊像をお祭りしたと言われる。)とある。
この不動堂は延享二年(1745)に建てられたものと言う。
(*)済度化縁=「済度」は迷う衆生を悟りの境地に導くこと。
「化縁」は人々を仏道に教え導くきっかけ。
また、この龍昌寺は慶安四年(1651)
徳川家光の遺骸を日光廟(大猷院)に葬送の途中で
この寺に遺骸の安置所が設けられた。
現在、その御霊屋はないが、そばに由来碑が建てられ、
位牌は今に伝えられるという。
(ご一泊の由来碑)
(大猷院殿贈正一位大相国公尊儀霊棺御一泊乃碑とある)
その名に相応しい乙女の不動像が門前にあった。
(乙女不動尊・御滝山 泉龍寺)
右手の門柱の陰に見える乙女の不動像を拡大すると、下の写真になる。
(乙女の不動像)
こんなお寺には普通、赤い涎(よだれ)掛けをかけた地蔵様があるものだが、
ここには乙女の像がある。さすが乙女不動尊である、
若い乙女の像が燦然と輝いている。
赤い涎(よだれ)掛けの代わりに赤いマフラー、
墨染めの衣となる筈がロングスカートになっている。
しかも半袖で、ブルースカイに見事に屹立している。
思わず一礼して、先に進むと、鐘楼門があり、
その先に赤い太鼓橋があって、
橋の下の不動池には緋鯉の稚魚か、金魚か、が列をなして泳いでいる。
そしてその先に不動堂があります。
(鐘楼門)
(赤い太鼓橋と不動堂)
不動堂脇には、よくよく注意しないと見落としそうな芭蕉句碑があり、
・川上と この川しもや 月の友 はせを
と刻まれているようである。
岩波文庫の「芭蕉俳句集」の注意書きを見ると、
この句は、芭蕉がよく散歩した深川の小名木沢の地で作られたものらしい。
その句碑の前にブラシの木が赤い花を見事に咲かせている。
(芭蕉句碑)
(ブラシの花の木)
(ブラシの花)
不動堂の左に本堂があり、案内によると、
(北関東三十六不動尊霊場第十三番札所
通称 乙女不動尊
本尊秘宝大聖不動明王は、今を去る千百有余年前、
日光山中禅寺湖水より示現ご本尊に奉祀し給う。
当時疫病に悩む庶民の苦しみを救うため、
本尊に祈ったところ、この地に清らかな泉が湧き出でて、
病がたちどころに平癒したところから泉龍寺と言うようになった。
――後略――)とある。
(泉龍寺本堂)
(本堂の変額「泉龍寺」)
泉龍寺から日光街道の4号線に戻り進むと、
右手に「逢乃榎」の石碑がある。
(逢乃榎の石碑)
(逢乃榎の石碑と後ろの榎)
この場所は、江戸から18里、日光へ18里で、
ちょうど中間に位置していた榎であったため
「間の榎」(あいのえのき)と呼ばれ、
いつしか「逢の榎」の変わり、
祖師堂が建てられ縁結びの地として、
お参りする男女が多かったと言われる。
さらに進むと左手に龍昌寺が見える。
(天恵山龍昌寺)
(天恵山龍昌寺の山門と鐘楼)
(左は寝起き不動堂と右は本堂)
(寝起こし不動堂の変額)
寝起不動尊縁起(ねおこしふどうそんえんぎ)によると、
(当山の寝起こし不動明王は、むかし水戸城内龍江院に祀られていましたが、
元亀(1570~1572)の頃、模庵和尚が明王の示現によって、
尊像を背負い杖に縋って行雲流水の旅に出られた。
しかし、和尚は老弱であり日ごとに衰弱がひどく、
当地にたどり着くと足も動かなくなり、死ぬ苦しみで、
一夜が明けようとする時、明王が枕辺に現れて申すには、
「この地こそ済度化縁(さいどけえん)の地なり、
人々の病難諸難を救って無量の福徳を与えよう」と、
和尚は寝起こされ、思わず尊像を拝むと、
疲労と病が一時に消えて杖を使わずに立ち上がることができたと言う。
そこで人々は寝起こし不動尊と呼んで、万難消滅、万福将来を祈願して、
お堂を建て尊像をお祭りしたと言われる。)とある。
この不動堂は延享二年(1745)に建てられたものと言う。
(*)済度化縁=「済度」は迷う衆生を悟りの境地に導くこと。
「化縁」は人々を仏道に教え導くきっかけ。
また、この龍昌寺は慶安四年(1651)
徳川家光の遺骸を日光廟(大猷院)に葬送の途中で
この寺に遺骸の安置所が設けられた。
現在、その御霊屋はないが、そばに由来碑が建てられ、
位牌は今に伝えられるという。
(ご一泊の由来碑)
(大猷院殿贈正一位大相国公尊儀霊棺御一泊乃碑とある)