(岩崎邸の和館)
岩崎邸の和館について、説明によると、
(洋館に併設される和館は、書院造りを基調にした建物で、
完成当初は建坪 550坪に及び洋館をしのぐ規模だった。
現在は冠婚葬祭に使用された大広間の一棟だけが残っている。
施工は大工棟梁として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた
大河喜十郎と伝えられている。
床の間やふすまには、日本画の橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる
障壁画が残っている。)とある。
和室への通路の日当たりで読書の御婦人を見つけた。
何を読んでいらっしゃるのだろう。
その通路の突き当りに見事なふすま絵を発見。
これが橋本雅邦の絵だろうか?
通路を出たところで売店とお抹茶を頂ける喫茶室があった。
(何を読んでいるのか熱心なご婦人)
(襖絵の日本画)
岩崎邸庭園を出ようとしていたら、
外国人御夫婦が入園されようとして
入館料を支払うところで、何やらもめているので聞き耳を立てたら、
どうもこの抹茶を飲みたいらしい。
茶道の抹茶に参加したいようであった。
それが、今入ったら参加できるか聞いているのだが、
拝観料を受け取る人は、入館が16:30までとなっているので、
それまでなら入れますと答えている。
質問と答えがすれ違っている。
やっと受付に英語が分かる人が来たらしく、
今(16:00)なら大丈夫ですの答えを得て、
その外国人夫妻は入館料を払って入って行った。
この時、聞こえた茶道のお抹茶は、英語でなんというのかと思ったら、
(Tea ceremony)であった。
英語と言うのは簡単でうまい表現だと思った。
喫茶室の先が大広間で床の間があり、壁に富士山だと思われるが、
薄れて消えかかっている絵が見える。
(大広間と床の間)
(床の間の壁の絵)
(鴨居の三菱の家紋)
(大広間を通り過ぎた廊下、手前左が大広間、先が喫茶室兼売店)
この廊下の天井を見てほしい。廊下の幅は畳二枚分、
それに見合う天井の板は幅もそうだが奥行きのある一枚板でできている。
こんな板は現在では手に入らないだろうと言われる。
和館から庭園に出る。広大な芝庭の庭園形式、奥に日本風の灯篭などが見える。
(和館の外観)
(和館前のわずかに残る書院風の庭)
(庭から見た洋館)
(広大な芝庭)
(幕末、越後高田藩(藩主・榊原政敬)の藩邸であった旧岩崎邸庭園は、
典型的な大名庭園であったとされる。
岩崎邸建設時に和洋併置式の「芝庭」に改造された。
現在、書院風の一部が和館広間前にわずかに残るだけで、
芝地に配された景石や石灯篭は庭を囲む樹林内に置かれている。)
(奥の林の灯篭)
(灯篭から見た芝庭)
(林から見た洋館)
洋館から少し離れた、となりに別棟で立っているビリヤード場。
来客の接待場所として使われていたらしい。
日本には当時としては非常に珍しいスイスの山小屋風のつくりになっている。
洋館と地下でつながっていると言う。
なお、昭和10年(1935)以降は図書室で使うようになったとのことで、
ビリヤード台は残っていない。
天井は船底の形をしているので船底天井と言われる。
(ビリヤード場)
(ビリヤード室内)
(船底天井)
(ビリヤード場の外観)
(*)洋館設計者のジョサイア・コンドル
1852年イギリス・ロンドン生まれ。
明治10年(1877)日本政府の招聘により来日。
現・東京大学工学部建築学科の初代教授。門下生に
東京駅の設計で知られる辰野金吾、
赤坂離宮を設計した片山東熊など、
近代日本を代表する建築家がいる。
鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂など洋風建築を設計した。
日本女性と結婚し、大正9年(1920)日本で永眠。
岩崎邸の和館について、説明によると、
(洋館に併設される和館は、書院造りを基調にした建物で、
完成当初は建坪 550坪に及び洋館をしのぐ規模だった。
現在は冠婚葬祭に使用された大広間の一棟だけが残っている。
施工は大工棟梁として、政財界の大立者たちの屋敷を数多く手がけた
大河喜十郎と伝えられている。
床の間やふすまには、日本画の橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる
障壁画が残っている。)とある。
和室への通路の日当たりで読書の御婦人を見つけた。
何を読んでいらっしゃるのだろう。
その通路の突き当りに見事なふすま絵を発見。
これが橋本雅邦の絵だろうか?
通路を出たところで売店とお抹茶を頂ける喫茶室があった。
(何を読んでいるのか熱心なご婦人)
(襖絵の日本画)
岩崎邸庭園を出ようとしていたら、
外国人御夫婦が入園されようとして
入館料を支払うところで、何やらもめているので聞き耳を立てたら、
どうもこの抹茶を飲みたいらしい。
茶道の抹茶に参加したいようであった。
それが、今入ったら参加できるか聞いているのだが、
拝観料を受け取る人は、入館が16:30までとなっているので、
それまでなら入れますと答えている。
質問と答えがすれ違っている。
やっと受付に英語が分かる人が来たらしく、
今(16:00)なら大丈夫ですの答えを得て、
その外国人夫妻は入館料を払って入って行った。
この時、聞こえた茶道のお抹茶は、英語でなんというのかと思ったら、
(Tea ceremony)であった。
英語と言うのは簡単でうまい表現だと思った。
喫茶室の先が大広間で床の間があり、壁に富士山だと思われるが、
薄れて消えかかっている絵が見える。
(大広間と床の間)
(床の間の壁の絵)
(鴨居の三菱の家紋)
(大広間を通り過ぎた廊下、手前左が大広間、先が喫茶室兼売店)
この廊下の天井を見てほしい。廊下の幅は畳二枚分、
それに見合う天井の板は幅もそうだが奥行きのある一枚板でできている。
こんな板は現在では手に入らないだろうと言われる。
和館から庭園に出る。広大な芝庭の庭園形式、奥に日本風の灯篭などが見える。
(和館の外観)
(和館前のわずかに残る書院風の庭)
(庭から見た洋館)
(広大な芝庭)
(幕末、越後高田藩(藩主・榊原政敬)の藩邸であった旧岩崎邸庭園は、
典型的な大名庭園であったとされる。
岩崎邸建設時に和洋併置式の「芝庭」に改造された。
現在、書院風の一部が和館広間前にわずかに残るだけで、
芝地に配された景石や石灯篭は庭を囲む樹林内に置かれている。)
(奥の林の灯篭)
(灯篭から見た芝庭)
(林から見た洋館)
洋館から少し離れた、となりに別棟で立っているビリヤード場。
来客の接待場所として使われていたらしい。
日本には当時としては非常に珍しいスイスの山小屋風のつくりになっている。
洋館と地下でつながっていると言う。
なお、昭和10年(1935)以降は図書室で使うようになったとのことで、
ビリヤード台は残っていない。
天井は船底の形をしているので船底天井と言われる。
(ビリヤード場)
(ビリヤード室内)
(船底天井)
(ビリヤード場の外観)
(*)洋館設計者のジョサイア・コンドル
1852年イギリス・ロンドン生まれ。
明治10年(1877)日本政府の招聘により来日。
現・東京大学工学部建築学科の初代教授。門下生に
東京駅の設計で知られる辰野金吾、
赤坂離宮を設計した片山東熊など、
近代日本を代表する建築家がいる。
鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂など洋風建築を設計した。
日本女性と結婚し、大正9年(1920)日本で永眠。