WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

善意と「醜さ」

2011年03月25日 | 大津波の現場から

 震災のような特異な状況の下では、人間の善意や「醜さ」が顕在化するのだろうか。

 大きな傷を負ってなお気丈に振る舞い、助け合う被災者たちをはじめ、日本全国からあるいは世界各地から駆けつけてくれたボランティアやメディカルチーム、自衛隊や消防隊の人たちには、まったく頭の下がる思いだ。妻はこれらの人々を見ると涙が出るといっている。ある種の人間の善意が形となってあらわれたものといえるだろうか。

 しかし、震災の現場はこうした善意や連帯や共同だけからなっているのではない。人間の「醜さ」が突出するのもまた、震災の現場の宿命ようだ。大地震と津波と火災で大混乱だったあの日の夜以来、さまざまな「醜さ」を見、また耳にする。地震と津波で破壊されたスーパーマーケットから商品を盗み出す人々、倒壊した家屋で金品を物色する人々、それらが中国人窃盗団による仕業であるとの流言も流布している。また、キャッシュサービスに重機で突っ込み現金を盗むという事件もあったらしい。新聞では地元の銀行の金庫から4000万円が盗まれたという事件も報じられた。さらにガソリン不足を背景として、他の車からガソリン抜き取る事件も頻発している。実際、わたしがボランティアをしていた避難所でも消防車からガソリンが盗まれたという出来事があった。同じ宮城県の他の地域では婦女暴行が横行し、治安が悪化しているとの流言もある。

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 東京都の石原慎太郎知事が、今回の大地震と大津波を「我欲」を洗い流すための「天罰」だと発言して話題となったようだ。被災地に対する想像力を欠いた発言だと思う一方、一歩引いて考えてみるに、一面の真理を理解できないでもない。また、石原氏のような右翼教条主義の立場からは、そのような見方となるのも頷ける。ただ、石原氏がその論理を貫徹するためには、もう一言付け加えるべきだった。「大地震と大津波は、最も我欲に満ち溢れた首都東京を襲うべきだった」と・・・・。


長男の卒業式

2011年03月25日 | 大津波の現場から

 一昨日行われた長男の中学の卒業式がNHKなどで放映されたようだ。この卒業式は多くのメディアで取り上げられ、友人からのメールによると、ニューヨークタイムス紙にも掲載されたようである。

 10日遅れの卒業式だった。卒業式は、避難所の片隅で行われ、多くの人々が見守った。涙の卒業式だった。ただ、通常の卒業式の涙ではない。息子の同級生の1人は死亡が確認され、2人が行方不明である。家族を失った者や、家を流されたものも多数いる。PTA会長も行方不明で、学年主任の先生のご親族も何人か流されたようだ。そんな状況の中での涙だった。スピーチに立った代表生徒はこういった。「自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、私達から大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練と言うには惨すぎるものでした。辛くて、悔しくて、たまりません。」彼は何度も天を仰ぎ、涙にむせびながら歯を食いしばってこう続けた。「しかし、苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の使命です。」

 「使命」・・・・・。我々の生は自由気ままにあるのではない。多くの死者の魂とともにあるのであり、歴史とともにあるのだ。そこにはやはり、「使命」というものが付随する。瓦礫と焼け跡の街を思い、人間が社会や歴史とともにあるのだということを、この15歳の少年のスピーチに改めて、考えさせられた。

 ところで、昨日はのびのびになっていた高校の合格発表があり、息子も何とか地元の高校に合格できた。行方不明の息子の友人はすでに同じ高校に推選合格している。死亡確認された生徒ともう一人の行方不明の生徒もそれぞれ別の高校に合格した。息子にとっては忘れられない記憶になるのだと思う。

 けれども、避難所の生活が暗く沈んだものかといえば、そうではない。みんな明るく気丈に頑張っている。笑顔もあるし、笑い声もある。家族や家を失ってもなお、ボランティアや仕事に一生懸命の人たちも多い。そうしなければ、自分自身を支えられないのだ。

≪逝ってしまったあんたにはこれからずっと朝がない・・・・・≫