◎今日の一枚 349◎
Honda Takehiro(本田竹曠)
This is Honda
おとといに続いて日本のジャズを一枚。2006年に急逝した日本人ピアニスト本田竹曠の1972年録音作品『ジス・イズ・ホンダ』である。
好きなアルバムだ。ペダルの使い方に特徴があるのだろうか。独特の響き方をするピアノだ。①のタイトルを、"You don't know what love is" ではなく、「恋とは何か、君は知らない」としたところに自意識が感じられる。恋の狂おしさがうまく表出された素晴らしい演奏だ。狂おしくはあるが、西洋人にありがちな、神経症的な感じがしない。まさに、「恋とは何か、君は知らない」だ。単なる模倣ではない、日本人による日本のジャズといえるのではないか。日本のジャズを"レベル"ではなく、表現のスタイルとしての"ジャンル"にまで高めている。
鎌田竜也『JAZZ喫茶マスターの絶対定番200』(静山社文庫:2010)には、本田竹曠のこのアルバムについて次のような文章がある。
日本で本田竹曠ほど黒いブルース感覚を持ち合わせたピアニストはいなかった。一度ピアノに向かえばスロットルは全開し、情念がマグマのように噴き出す。強靭なタッチにピアノは軋み声をあげる寸前だ。たった10本の指から生み出される旋律は聴く者の心を揺さぶるほどに熱く、深い。それは不意にこぼれる一筋の涙に姿を変えるかもしれない。音の美しさが心の奥底にある感情をひとりでに引き出すのだ。
破格の評価である。筆者の本田竹曠に対する、過剰ともいえる思い入れが爆発したような文章だ。「黒いブルース感覚」・・・・、確かにそれを感じる。日本人の独特な穏やかな叙情性の一方で、確かに「黒さ」や「ブルース」の感覚を感じることができる。
現在のようには世界の一体化が進んでいない時代、1945年生まれの本田が、「黒さ」や「ブルース」の感覚を身に着けたのは、レコードからだけだったのだろうか。私には、彼が岩手県の宮古市出身であることと無縁ではないように思える。
まだ陸上交通が不便だった時代、三陸地方では、文化は内陸部より海から入ってきたはずだ。遠洋漁業のマグロ船が文化を伝えたのだ。同じ三陸地方にある、私の住む街と同じだろう。実際、私が幼い頃の記憶を掘り起こしてみても、ノーカットのポルノ写真から、硬貨・紙幣、そして音楽や映画まで、私の住む街にはさまざまな海外の文化・文物が混在していた。海外文化が東京や仙台を経由せず、ダイレクトに流入していたのである。今考えても、地方の港町にしては、随分多くのジャズ喫茶やロック喫茶があったように思う。
「ケセン語」の研究で知られる岩手県大船渡市の医師、山浦玄嗣さんは、早くからこのことを、「ことば」の視点から指摘している。中央とは明らかに違う系統の言葉や発音が残っているのだ。例えば「フライキ」という言葉。三陸地方では大漁旗のことを「フライキ(福来旗)」と呼んでいるが、これは英語の「フラック」のこと。また、後ろに下がることを「バイキ」ということがあるが(馬などに対してつかう)、これはもちろん英語の「バック」のこと。これらの言葉は、海外から流入した英語と、中央の言語統制とのせめぎあいの中で生まれた言葉であるというのが、山浦さんの考えだ。また、発音についても、例えば、「えぃーさつ」(挨拶)のように、英語の発音と同じ音が、方言訛りのようになって残っている。山浦さんのいう「ケセン語」とは、岩手県大船渡市を中心とする「気仙地方」を具体例として構想されたものであるが、同じような状況は三陸地方一般に敷衍できると思われる。
いかがだろうか。「本田竹曠の黒いブルース感覚のルーツは、郷里の岩手県宮古市にあった」説。ここに挙げた例だけでは、ちょっと杜撰な論理に見えるかもしれないが、自分では、案外いい線いっているのではないかと、自己満足、いや慢心している。