WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

王朝交替説と応神天皇

2021年06月07日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 510◎
Art Tatum / Ben Webster
The Tatum Group Masterpieces

 応神天皇は、興味深い大王である。少なくとも、記紀が描く王統譜の中で、ターニング・ポイントとなる大王であるとはいえるだろう。
 天皇号の成立は7世紀後半であるといわれるが、ここではとりあえず応神天皇と呼んでおこう。応神天皇はそのまま実在の大王とはいえない可能性もあり、とりあえず『日本書紀』の呼称に従っておこう。      
 古い学説についての話である。王朝交替説と応神天皇についてだ。1948年に発表された江上波夫氏の《騎馬民族征服王朝説》というものがある。3世紀末から4世紀初めに、東北アジアの騎馬民族が朝鮮南部を経て日本に渡来したというのである。この時、騎馬集団を率いて九州を征服したのが記紀で第10代とされる崇神天皇であり、その約100年後の4世紀末~5世紀初めに応神天皇が畿内を征服したとすのだ。
 1954年に発表された水野祐氏の《三王朝交替説》では、崇神王朝(古王朝)、仁徳王朝(中王朝)、継体王朝(新王朝)が、それぞれ前の王朝を滅ぼして成立したとされた。この場合、古王朝を滅ぼしたのは応神天皇であり、彼は大和には移らず九州にとどまったとされる。したがって、実質的な中王朝の創始者は応神天皇であるといってもよい。一方、応神と仁徳には共通点・類似点が多く、同一の人格が分化したものであるという説もあるようだ。
 1960年に発表された、井上光貞氏の《応神新王朝説》でも、応神天皇は、重要視されている。応神天皇が
九州から東遷して大和に入り、崇神王朝に婿入りする形で王朝を継承したというのだ。
 継体天皇の擁立を巡る物語も重要である。記紀は、武烈天皇で皇統はいったん断絶し、越の国から応神五世孫が大王として迎えられたと記す。何故、応神天皇なのだろうか。記紀が、応神天皇を特別な存在として認識していた可能性があるのだ。
 いずれにしても、古代王権の系譜を語る上で、応神天皇がひとつのキーマンであるとはいえそうだ。


 今日の一枚は、1956年録音の『アート・テイタム~ベン・ウェブスター・カルテット』である。アート・テイタムという人は、本当に美しい響きのピアノを弾く人だ。意図的な情感など込めなくても、ピアノの響きそのものが美しい。端正なピアノとでもいうべきか。片目が盲目で、もう一方の目もほとんど見えなかったとは、信じられない。あるいは、そうだからこそ、音に対して鋭敏だったのだろうか。テイタムの端正なピアノをバックに、ベン・ウェブスターのテナーは、直球勝負で情感たっぷりに歌い上げる。余裕のテナーである。たまには、余裕のジャズもいいものだ。