2005年の中国映画です 主題は「文革に翻弄された親子の愛情物語」と言ったところでしょうか
さて胡同とは北京界隈で「路地とか横丁という意味です」がここではもっと広く胡同に向って入り口を開く四合院作り(建物が入り口に対しコの字を伏せた形に建物が立つ こんな感じ П)の一室位の意味でしょう 中国の解放以前は厚いレンガ作りの塀で囲まれた一郭で暮らし向きの良い人が一族と使用人で住んでいた住居です
解放後は(住宅難で)それぞれの部屋に別の家族が暮らしているという訳です
建物も立派なレンガつくりですが平屋です 高級長屋住まいの意味合いも含んでいそうです ついでながらトイレは塀の外 公厠(共同便所でこれが有名な汲み取りでニーハオ式なやつ--衝立も仕切りも戸なんか勿論無い 隣の人と顔も尻も丸見え 小用で入ってくる人からも)です
1967年夏近く胡同の一室で若い画家張夫妻に男の子が誕生します 折から庭に咲くひまわり そして太陽を追い求める様な子に育てと「向陽(ひまわり)」と名付けました
1976年(9年後)向陽は隣家の劉軍と胡同近辺で悪さし放題 そこへ見知らぬ男が入ってきます なんと向陽の父親です 例の文革の際(画家という事で)下放され6年ぶりに帰ってきました
下放中の怪我でもう絵筆は握れません 向陽の頭からは父親の記憶は無く父も子供を如何扱ってよいか判りません 父は自分の夢を息子に継がせる事を願い「絵のお稽古」を厳しく課します この年唐山地震の影響で胡同も壊れます 復旧作業の中で隣家の劉さんが「張さんをお上に指したことが判ります」
あの時代公安(警察)に情報を求められれば拒めない事と情報が無くても下放されたでしょうから張さんは劉さんを強くは責めませんでした
さて向陽は絵の稽古を嫌いついには自分で手を傷つけ様とまでします お祭りで賑わうある日暴発して火を吹く爆竹が足元に落ちました それを右手に握り締め立ち尽くします 爆発による怪我は幸い大した事がなく小英雄として表彰される始末です
1987年冬 大学に入れず浪人中の向陽は劉軍と近くの池が凍りついたスケート場で年賀状売りのアルバイトに精を出しています 警察の手入れが縁でスケートに来る美女の于紅と懇ろになります
そして劉軍、于紅と三人で広州に出稼ぎに行くことを決めます しかし間の悪い事に父親にばれ向陽だけ発車間際の列車から引きずり降ろされます 父は昔のつてで美術関係の機関で仕事をしてそれなりに安定しているようです
息子の画家としての才能を認めその方に専念させたい父親、自分の道を歩きたい向陽
そして広東の于紅からの手紙 これは両親の受け取る所となります 「妊娠と父の一存での中絶」 これが後で向陽の知る所となります 彼女との別れ 父と決別を宣言して家を出ます 止める父が池の氷を割って溺れるのを助けた為又しても自立が出来ません
この間母親は胡同を出てアパート(高層住宅)に入りたいと画策しますが夫のかたくなな態度で上手く行きません 隣の劉さんが当たった権利を(かつてのお詫びの意味で)譲って呉れるのですがそれも拒みます
1999年 北京 中心街は高層ビルが立ち並び工事中のクレーンがあちこちに見られます その一方で胡同はあちこちで壊されています
さて向陽はアメ車のジープを乗り回し助手席には妻の韓が座っています どうやら親元を離れ倉庫の後をアトリエ兼自宅にして暮らしているようです
母は(偽装)離婚までして念願の高層住宅を手にいれます(何故離婚すると入居の権利が得られるのか説明不足で良く判りません) 父親は頑固に同居を拒んで胡同で暮らしています 向陽夫妻の思いがけない妊娠と妊娠中絶(向陽が父親コンプレックスで父親としての自分を掴めない事が理由らしい)
そして新進画家としての新作発表会での向陽の成功 父親も発表会を見に来ます
「失憶と記憶」という題の連作に顔の無い「向陽」の作品を見出します
隣人劉さんの孤独死
思わず深酒をしてしまいます 心配する家族
この後父親は思わぬ行動に出ます 爺には良く判りません
翌年(父親或いは一人の男として自立できた)向陽に又男の子が生まれました
芽出度し芽出度し
何か 難解な所のある映画です 初恋の来た道やあの子をさがして の様な単純で明快な感じが残りませんでした わざわざ借りて見なくても良いでしょう
爺は「フラガール」のDVDを見たかったのですが3月16日発売という事でその代わりに借りたのでした 個人的には1998年から99年にかけて北京に住んでいましたので毎日胡同や胡同の壁にもたれたレンガ作りのバラックをハンマーで壊している場面は懐かしかったですね
ニーハオトイレも最近は水洗化に力をいれ北京オリンピックで不評を買わぬよう当局も頑張っているようです
でした
さて胡同とは北京界隈で「路地とか横丁という意味です」がここではもっと広く胡同に向って入り口を開く四合院作り(建物が入り口に対しコの字を伏せた形に建物が立つ こんな感じ П)の一室位の意味でしょう 中国の解放以前は厚いレンガ作りの塀で囲まれた一郭で暮らし向きの良い人が一族と使用人で住んでいた住居です
解放後は(住宅難で)それぞれの部屋に別の家族が暮らしているという訳です
建物も立派なレンガつくりですが平屋です 高級長屋住まいの意味合いも含んでいそうです ついでながらトイレは塀の外 公厠(共同便所でこれが有名な汲み取りでニーハオ式なやつ--衝立も仕切りも戸なんか勿論無い 隣の人と顔も尻も丸見え 小用で入ってくる人からも)です
1967年夏近く胡同の一室で若い画家張夫妻に男の子が誕生します 折から庭に咲くひまわり そして太陽を追い求める様な子に育てと「向陽(ひまわり)」と名付けました
1976年(9年後)向陽は隣家の劉軍と胡同近辺で悪さし放題 そこへ見知らぬ男が入ってきます なんと向陽の父親です 例の文革の際(画家という事で)下放され6年ぶりに帰ってきました
下放中の怪我でもう絵筆は握れません 向陽の頭からは父親の記憶は無く父も子供を如何扱ってよいか判りません 父は自分の夢を息子に継がせる事を願い「絵のお稽古」を厳しく課します この年唐山地震の影響で胡同も壊れます 復旧作業の中で隣家の劉さんが「張さんをお上に指したことが判ります」
あの時代公安(警察)に情報を求められれば拒めない事と情報が無くても下放されたでしょうから張さんは劉さんを強くは責めませんでした
さて向陽は絵の稽古を嫌いついには自分で手を傷つけ様とまでします お祭りで賑わうある日暴発して火を吹く爆竹が足元に落ちました それを右手に握り締め立ち尽くします 爆発による怪我は幸い大した事がなく小英雄として表彰される始末です
1987年冬 大学に入れず浪人中の向陽は劉軍と近くの池が凍りついたスケート場で年賀状売りのアルバイトに精を出しています 警察の手入れが縁でスケートに来る美女の于紅と懇ろになります
そして劉軍、于紅と三人で広州に出稼ぎに行くことを決めます しかし間の悪い事に父親にばれ向陽だけ発車間際の列車から引きずり降ろされます 父は昔のつてで美術関係の機関で仕事をしてそれなりに安定しているようです
息子の画家としての才能を認めその方に専念させたい父親、自分の道を歩きたい向陽
そして広東の于紅からの手紙 これは両親の受け取る所となります 「妊娠と父の一存での中絶」 これが後で向陽の知る所となります 彼女との別れ 父と決別を宣言して家を出ます 止める父が池の氷を割って溺れるのを助けた為又しても自立が出来ません
この間母親は胡同を出てアパート(高層住宅)に入りたいと画策しますが夫のかたくなな態度で上手く行きません 隣の劉さんが当たった権利を(かつてのお詫びの意味で)譲って呉れるのですがそれも拒みます
1999年 北京 中心街は高層ビルが立ち並び工事中のクレーンがあちこちに見られます その一方で胡同はあちこちで壊されています
さて向陽はアメ車のジープを乗り回し助手席には妻の韓が座っています どうやら親元を離れ倉庫の後をアトリエ兼自宅にして暮らしているようです
母は(偽装)離婚までして念願の高層住宅を手にいれます(何故離婚すると入居の権利が得られるのか説明不足で良く判りません) 父親は頑固に同居を拒んで胡同で暮らしています 向陽夫妻の思いがけない妊娠と妊娠中絶(向陽が父親コンプレックスで父親としての自分を掴めない事が理由らしい)
そして新進画家としての新作発表会での向陽の成功 父親も発表会を見に来ます
「失憶と記憶」という題の連作に顔の無い「向陽」の作品を見出します
隣人劉さんの孤独死
思わず深酒をしてしまいます 心配する家族
この後父親は思わぬ行動に出ます 爺には良く判りません
翌年(父親或いは一人の男として自立できた)向陽に又男の子が生まれました
芽出度し芽出度し
何か 難解な所のある映画です 初恋の来た道やあの子をさがして の様な単純で明快な感じが残りませんでした わざわざ借りて見なくても良いでしょう
爺は「フラガール」のDVDを見たかったのですが3月16日発売という事でその代わりに借りたのでした 個人的には1998年から99年にかけて北京に住んでいましたので毎日胡同や胡同の壁にもたれたレンガ作りのバラックをハンマーで壊している場面は懐かしかったですね
ニーハオトイレも最近は水洗化に力をいれ北京オリンピックで不評を買わぬよう当局も頑張っているようです
でした
中国は急激に発展したように思います。
もう30年も前になりましょうか、横浜元町に参りますと架橋のボートピープルがいまして、心を痛めた思い出があります。
社会主義国なのに格差が大きい社会のようですね。
北京でお仕事をされていたとのこと、ご苦労もございましたでしょう。
取るに足らぬ記事にコメント有り難う御座いました
二月十八日が旧暦1月元旦ですからまだ春節(チュンジエ--お正月)の真っ最中なはづです 近頃は市内でも爆竹を鳴らすことが許された来たとか
寒さが緩んでくる頃又田舎のお百姓さんは出稼ぎでしょうね 1年出稼ぎで土日無く働き来年の春節に稼ぎを持って戻る 北京オリンピックが終わるまでは何とか仕事があるでしょうね 来年のオリンピック前には北京市戸籍のない出稼ぎ人は皆帰郷を命じられ(事実上)市内から追い出しを食います 大変ですよ
いつもTBでお邪魔してばかりで、きちんと挨拶ができていなくて申し訳ございません。
この映画ですが、母が見て「よかったよ」といっていました。
私は学生時代に中国に留学していた(短期ですが)があり、また、北京にはバックパッカーで旅をしたときに一週間ほど滞在したことがあります。
宿泊していたホテルで熱が出たときに、薬屋を探していたら、親切に薬をくれたお姉さんがいて、お宅(胡同)で少しや済ませてもらったことがあります。もう20年近く前の話なんですが、当時としてはテレビや洗濯機、ベッドがあり、外から見るよりも中のほうが贅沢でした。
その後、北京を案内していただき、手紙などの交流をもっていましたが、最近は途切れてしまい残念な重いです。
レビューを読ませていただき、北京の変わり行く様子がよくわかりました。
機会があれば、私も見てみたいと思います。
こちらこそ日ごろ貴ブログをのぞきあれこれ考える参考にさせていただいております
さておーちゃん様もかの国を歩かれた由 複雑な気持ちをお持ちの事と思います 爺も1990年代初期から個人で出入りしていますが懐の深い国と思います
両換え札を投げつける銀行員、呼んでも来ない店員、時間内なのに手続きしない公務員
寒村の路上で二個しかない饅頭(あんこが無い)を分けてくれる修理屋、雨宿りに呼んでくれるお百姓、次は汽車で来いと旅費節約法を教えてくれる村のお爺さん これを知るとかの国の百姓連(一般人の事) 「中国人民好!」です