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2014 7/20の拝観報告8 最終(田辺城址)


写真は、公園内の資料館

赤れんがパークを出て、国道27号線を舞鶴西ICの方へ戻ってきます。

大門の交差点を左折して15:00頃。
まだ少し早いので、最後に少し寄り道です。
立ち寄ったのは田辺城址。

このお城の名が知れるきっかけはただ1つ。

関ヶ原の合戦でしょう。

細川幽斎、忠興親子の細川家は東軍についたのですが、当時畿内のほとんどは西軍につきました。
しかも細川忠興は大軍をつれて家康の上杉討伐に加わっていたので、田辺城には細川幽斎と留守を守る500ほどの兵しかいませんでした。
そこでやむなく田辺城に籠城し、西軍1万5000の大軍に取り囲まれたのです。
2週間ほど交戦したのですが、多勢に無勢。
落城寸前になりました。
その時です!
古今和歌集の解釈の秘伝である”古今伝授”を当時唯一受けていた細川幽斎に万一のことがあっては!ということで、朝廷からの勅命で講和がなったというお話です。

ちなみにその2日後に関ヶ原での合戦が起こったため、この西軍1万5000は関ヶ原に間に合わず。
忠興の関ヶ原での功や、幽斎がこの1万5000を引き付けた功で、細川家は丹後12万石から豊前小倉のほぼ40万石に栄転しました。

さらに後の話ですが、加藤清正の死後、子の加藤忠広が1632年に改易になります。
そこに忠興の子の忠利が肥後熊本54万石に移封され、肥後細川家が誕生する訳です。

以前にも書いたように、実は僕は京都観光よりもこの戦国時代の方がマニア歴が長いもので、つい(笑)。

さて田辺城址ですが、今は小さな資料館と大半が公園になっています。
資料館には、細川家の歴史、そしてその後に入国した京極家の歴史。
さらには徳川時代になった田辺城主になった徳川譜代の牧野家の歴史についての展示がありました。

個人的にはこの辺りも非常に好きで詳しいのでよかったのですが、大半の方は牧野家?って感じですよね(笑)。

公園には子供のジャングルジムがありましたが、これが”お城型”。
結構ウケました(笑)。

そして公園の端には心種園という庭園があり、そこには”古今伝授の碑”もありました。

以上で舞鶴ツアーは終了。

16:00頃に舞鶴を出て、18:00頃に京都市内に到着して解散しました。
参加された皆様、お疲れ様でした。

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