もう何をするのも面倒くさくて・・・
庭の芝刈りもせにゃならん・・・・・
いつの頃までだろうか田舎のフェリー乗り場の裏山のつづら折れの石の階段を上って行くと白い灯台があった
灯台は明治の初めに建てられた物で眼下を見下ろすと太平洋の水平線が何処までも見渡せた
港の入り口には天然の良港を形づける葛島と言う小さな島があって嵐の日にも港に大波を寄せ付けない
港を出たフェリーボートは葛島を大きく左回りに回って大阪湾を目指す
灯台下の遊歩道に立つと赤い夕暮れと光る海、故郷を後にするフェリーボートの航跡
母も兄も姉もあの船に乗って故郷を出た
僕もあの船に乗っていつかこの町を出る、そこにどんな人生が待っているんだろう
僕の小さい頃、灯台の周りは素晴らしく手入れをされた公園のようになっていて
遠足やハイキングに町の人が灯台を目指した
灯台より一段高い広い敷地に灯台職員の平屋の官舎があって壁も柵も灯台と同じ白一色で塗られていて
広い庭は青い芝生が植えられていてまるで外国映画に出てくる家の様だった
ぷちアマルフィか
僕も将来、家を建てたら絶対芝生を植えようと思った
現在、あの白い灯台ジャングルの様な藪の中で崩れかかりつづら折れの階段は通行禁止
あのあこがれの官舎は廃屋になりました
外はまだシトシト雨が降っている・・歩道の水たまりに雨の波紋が・・
お客様は来ない
うちの田舎はとっくに田植えも終わった頃かな
農家の幼なじみは誰ももう田植えなんてしていない
あの頃、稲が青々と茂って稲穂が頭を垂れた田圃は雑草の蔓延る原野になって
崩れかかったあぜ道と周りの廃屋は典型的な限界集落だ
幾つの頃までか田舎の田圃の用水路には‘のっこみ,と呼ばれる鮒の遡上が見られたんだけれど
農薬のせいか中学生の頃には見られなくなった
僕の田舎は海と山に囲まれた小さな町で昔、山の麓にある八幡宮の周りは皆、田圃だった
田植えが終わって小雨降る日は蛙の声がゲコゲコとつづら折りの山道に響き渡る
小さい頃、山の上に養魚場があって鯉や金魚を育てていた
それで少し大きな雨が降るとその養魚場から田圃の用水路を通って麓の小川に逃げだすんだ
僕の家にはけっこう大きな池があったから
雨の降ったあくる日に僕は田圃そばの小川に逃げた金魚を捕まえに行った
学校が終わると小さな自転車にバケツとタモ網を持って
片方下がったランニングシャツに半ズボン、麦藁帽
ペダルをえっちら漕いで町はずれの小川に向かう
金魚の逃げ出すのは梅雨時が多くていつも小雨が降っていた記憶がある
小川の水面にぽつぽつと雨の波紋とアメンボの足がすべる小さな波紋
そして生い茂る萱の根元に金魚の赤いシルエットを見つけると驚喜した
タモを持って小川の水の中に入ると遠くの山から遠雷がゴロゴロと鳴って
「もうそろそろ帰るんだよ」と
親の代わりに雷が僕を迎えに来たんだ
友達と遊ぶより一人で海や山、川に行く方が好きだったから
おっさんになった今でも雨が降ると小さかった頃の光景が浮かぶ
あの日の少年はどこに行った
この連休中は断捨離三昧です
捨てて捨てて捨てまくっています
古い写真が出てきました、友人のアパートですね
18歳・・・の私です
大阪でパチンコばかり打っていました
19・・歳の私です
ジャニーズに入っていたらジャニー喜多川さんの魔の手から逃れられなかったでしょう
この写真を撮る前まで西成の釜ヶ崎の工事現場でずっと見張りをしていました
今で言う警備員ですね
蟻の町のマリア(誰?)ならぬ釜ヶ崎の豊川譲?と呼ばれていました
(ほんまか?)
40数年前のかわいい頃の私ですが
現在の私はそんじょそこらのホームレスより気合の入ったホームレスの‘なり,です。
清水寺の三年坂で桜の木が倒れて修学旅行の引率の教師が大怪我をしたと言うニュースがあった
三年坂・・産寧坂とも言うらしい
三年坂を初めて上ったのは確か姉が京都の大学を出た年
引越しの手伝いに行って母と一緒に三年坂を上った
音羽の滝の向かいにコシの抜けたうどんを出す店があって二人でうどんを食べたんだ
ちなみに今でこそ讃岐うどんに席巻されてコシが硬くなったけれど昔の京うどんは皆コシがふにゃふにゃだった
高校を出て大阪に住んだ
18歳の時知り合った女の子と初めてデートしたのが清水寺で三年坂を上った
「三年坂で転ぶと三年以内に死ぬねんで」とかしょうも無い事を話した記憶がある
彼女と四条大橋側のそば屋でニシンそばを食べたんだ
有名なそば屋で今でもそのそば屋を見るとその事を思い出す。
(その時以来食べた事が無いけれど・・・)
あくる年の19歳の時、四条河原町のパチンコ屋に嵌った
電車で30分程だったけれどパチンコ屋に通勤している感じだった
パチンコの合間によく三年坂を上った
清水の舞台から京都の町を見下ろして・・
(俺の将来はどないなるんやろ・・・)とか思っていたな
あくる年の20歳の時大阪から東京に出た
京都が遠くなった
それでもちょくちょく帰省の途中とかに京都に寄って三年坂を上った
女房と上った
娘達も上った
18歳の僕は初老になった
そば屋もうどん屋も清水の舞台から見下ろす京都タワーもあの頃のままで
自分だけがどんどん老けて行くんだよ
5年ほど前になるか両親が老人ホームに入居して田舎の古い屋敷を残された
いずれは壊さなければならないので解体費用の見積もりを取ってもらったら
300万~700万円掛かると言う
そんなお金は無いので僕だけで田舎の実家に帰ってほそぼそと整理しようかと思った
それでも古い母屋が二棟、コンクリート造りの納屋が二棟
とてもじゃ無いが自分の力では無理だ
途方に暮れていたところ、うちの家を購入して宿泊施設にしたいと言う奇特な人が現れて
タダで引き取ってもらったけれど解体費用が浮いた
クソ田舎なので広い敷地を持っていたって税金を取られるだけじゃ
ただ環境は抜群に良い
遠浅の白い砂浜まで徒歩3分、この時期周りの山に山桜が咲き誇ってまるで桃源郷の様
リニューアル出来たみたい
(写真は会社のホームページよりお借りしました)
和室の床の間とガラス障子は昔の家の物をアレンジしてあって
涙ちょちょ切れですわ
今度帰ったら泊まろうっと
一棟貸しなんでけっこういいお値段ですね
今日は寒いね・・・
どこかに出掛けようと思っているんだけれど・・こう寒いと出足が鈍るね
暇だからネットを見ていたら他所さんのブログに下町の長屋の写真が出てた
随分前だけれど夏の暑い盛りに谷中の狭い路地裏を歩いていたら、
幾人かの観光客が足を止めて長屋の小さな庭を覗いていた
何だろうな?と思って僕ものぞいてみたら
縁側のある座敷のガラスを開け放してステテコ姿のお爺さんが寝ているんだ
ステテコ1枚で寝ているお爺さんが谷中の路地裏の景色に溶け込んでいい味を出してる
ステテコのお爺さんが本人は意識していないけれど観光客にとってのノスタルジーに一役買っていた
もう月末だね
事務仕事をしなくっちゃ
事務仕事たってほとんどお客さん来てへんがな
開業34年目でまたまた過去最低の売り上げを更新
もう赤字の垂れ流し
もうやる気が無いんだからお客さんにも分かるわな
34年前と言うと住宅ローンの固定金利が最高だった
8パーセント越えだよ現在は何パーか知らないけれど
我が業界もそうだけど世の中はまだバブルの余韻に浸っていた
初めて業界の支部会なるものに参加した時
支部会はとっとと終わらせてから場所を変えて
移った所が料亭で芸者さんを呼んでいた
(芸者さんだよ)
その後の支部会は毎回コンパニオンさんに変わったけれど
支部長は芸者さんとコンパニオンクラブに顔の効く夜のドンと呼ばれてた
支部旅行の夜の宴会でもその土地々のコンパニオンを呼ぶんだけれど
茨城のコンパニオンは東京に出そびれた赤いほっぺの女の子が多くて
千葉のコンパニオンは反対に東京から戻って来て普段は畑仕事をしているおばはんが多かった
茨城のかわいいコンパニオンが・・
「私、原宿に行ってみたい」
って言うので
「僕、あの辺詳しいから連れて行ってあげるよ」
ってうちの電話番号教えて実際に案内したことがある
(いい時代やったな、まだ20代だったし)
開業をする時に師匠?が
「黒字にするには一日にお客が最低30人来無いといけないから、」
「30人来るまで9時でも10時でも店を開けとけ」
と言われたことを覚えてる
30人はあっという間に超えたけれど
現在、一人でやっている所でお客さんは30人はおろかせいぜい10人くらいだろう
うちなんかそれ以下だ
現在の支部会はコンパニオンどころか水も出ない
もう目の前に印籠がぶら下がってまんがな
今朝ラジオをつけたら・・・
「幾つの歳に戻りたいか」と言う事を出演者に尋ねていた
(戻って見たい歳)
僕にとって戻りたく無い歳は
13~4歳の中学1~2年生の頃だな
毎日部活の先輩(この先輩て言う言葉は嫌い)に殴る蹴るの暴力を受けていた
授業中も荒れていて授業をまともに聞いている奴なんていなかった
唯一、安岡君が真面目に聞いていて授業中は安岡君と科目の教師とのマンツーマン状態だった
問題を指名されるのも安岡君だけ・・
「これは何だ?はい安岡」と教師が聞くと
「はい何々です」と安岡君が答える
延々と二人のやり取りが続く
そんな授業風景を僕がぽかーんと見ていたら急に教師が・・
「はい!ひろ造」と急に僕を指名して来て
「分かりません」と答えると
また教師は
「はい!安岡」とまた二人だけのやり取りが続く
安岡君はそれでいてけんかも強かったから誰もとやかく言う同級生はいなかった
教室の後ろの方では言葉に言う尽くせないような‘いじめ,が行われていて
僕もうかうか出来ないポジションだったので
見て見ぬふりをしていた
生徒たちは教師を馬鹿にしていたが部活の監督?には従順だった
僕はそんな中学生活の日常に悩んでいた
思春期と言う時期だったのか
木の枝のご神木?を自分で作って毎日部屋を暗くしてご神木を拝んでいたりした
そんな暗い時期だったね