今朝ラジオをつけたら・・・
「幾つの歳に戻りたいか」と言う事を出演者に尋ねていた
(戻って見たい歳)
僕にとって戻りたく無い歳は
13~4歳の中学1~2年生の頃だな
毎日部活の先輩(この先輩て言う言葉は嫌い)に殴る蹴るの暴力を受けていた
授業中も荒れていて授業をまともに聞いている奴なんていなかった
唯一、安岡君が真面目に聞いていて授業中は安岡君と科目の教師とのマンツーマン状態だった
問題を指名されるのも安岡君だけ・・
「これは何だ?はい安岡」と教師が聞くと
「はい何々です」と安岡君が答える
延々と二人のやり取りが続く
そんな授業風景を僕がぽかーんと見ていたら急に教師が・・
「はい!ひろ造」と急に僕を指名して来て
「分かりません」と答えると
また教師は
「はい!安岡」とまた二人だけのやり取りが続く
安岡君はそれでいてけんかも強かったから誰もとやかく言う同級生はいなかった
教室の後ろの方では言葉に言う尽くせないような‘いじめ,が行われていて
僕もうかうか出来ないポジションだったので
見て見ぬふりをしていた
生徒たちは教師を馬鹿にしていたが部活の監督?には従順だった
僕はそんな中学生活の日常に悩んでいた
思春期と言う時期だったのか
木の枝のご神木?を自分で作って毎日部屋を暗くしてご神木を拝んでいたりした
そんな暗い時期だったね
職場の有線放送からイルカの雨の物語が流れて来た
僕が何歳の時だろうか
母に強請って雨の物語のシングルレコードを買って来た
ワクワクしながら家に帰ってプレイヤーで聞いてみたら
レコード板にけっこう大きな傷がついていて歌の途中で針が飛ぶんだ
歌の途切れる曲なんて聞いていられない
しかし気が小さな僕はレコードを返しに行かれない
それにレコード屋は町の有力者の店で絶対に店の落ち度は言わないだろう
それで泣き泣きプツンプツンと歌が途切れる雨の物語を聞いていた
今でもナツメロでこの曲が流れてくると思い出す
今朝も寒いね
午後には雨が雪に変わると言う
初めて本格的な雪を見たのは10代最後の冬
大阪で過ごした最後の年
数日前からおもちゃ問屋の倉庫番のアルバイトを始めて
その日は社員のセールスドライバーに助手として京都方面におもちゃの配達に行った
嵐山の土産物屋におもちゃを降ろしてから京都市内で幾つかのおもちゃ屋を回り
名神高速道路を東へ東へ
琵琶湖バレイの看板が見えて来た辺りで
急に強烈な寒さを体に感じた
その時、空から白い大きな粒の雪が降って来た
白い塊の集団は車のフロントガラスめがけて吹き寄せ
やがて道路をガードレールを標識をすべて白い世界に覆いつくしてしまった
その日から2~3日して
おもちゃ問屋の倉庫番はクビになった
仕事が5時までの約束でバイトを始めたんだけど
バイト代が出るのが5時までで
仕事は7時までやれと言われた
2時間はタダ働きやと言う
(そんなあほな)
5時にとっとと帰ったらクビになった
あくる年、上京した
もうやる事なす事、おっくうでおっくうで・・・
やらなきゃならん事がすごいプレッシャーで・・
思い起こせば、ものごこころ付いた頃にはもう怠け者だった気がする
40年以上も前・・18歳の時
土方助手のアルバイトをしていた・・
現場が釜ヶ崎の三角公園横で公園は多くのホームレスが寝ていて
僕は役立たずだったので昼休みに土工連中が昼飯の時間、現場の見張りをさせられていた
その時間、ぼくはずっと公園の住人の観察をしていた
公園は強烈な乾いた小便の臭いがしていて住人の動きは極めて緩慢だ
やる事の無いおっさん連中が市場のまぐろのごとく大勢横たわっていて
公園の端の方の人だかりはコイコイ博奕
肺病病みはコンコンと乾いた咳をして
咳をしちゃー酒をあおっていた
酒の中身は捨てられた酒瓶の残りを集めた物
それでも嬉しそうにクビクビと飲んでいた
おもむろに立ち上がって小便をする
そばでおっさんが寝てるやん
もうほとんど人間を捨ててる
僕はぽかーんとその光景を見ていた
僕自身がホームレスと変わらない汚い作業着だったから
公園の連中から見ると別に違和感は持たれなかっただろう
それでも目つきの悪い何人かはあきらかに現場の工具を狙っていた
住人が大きな声で‘ホラ話,をしている
「わしの生まれた家には女中の5人もおってよう」
「もう上げ膳据え膳、おんぶにだっこ」
「ほいて気が付いたら釜ヶ崎」
ははは!住人が笑う
つられて僕も一緒になって笑う
僕はその時ふと思った
ここはわしの性格に合ってる
この自由さと何事にも縛られない幸福
人間が人間を捨てたら幸せになれる・・
・・とか思ったね
それから何十年かして隅田川に青テントが出現した時
休みのたんびに隅田川に遊びに行った
住人と同化しに
今では隅田川の青テントは撤去され
釜ヶ崎は綺麗に?なり
B級グルメのユーチューバーが闊歩する街になった
わしはこの先どこに行こう
北風がピューピューと吹き寄せ
カタカタと重い鉄枠の窓を揺らした
三畳一間の部屋はスースーと隙間風が入って
万年床で膝を抱えて震える夜を過ごした
おっとり起きると窓側の便所の手洗いほどの小さな台所の水道が凍っていた
固まった窓をコジ開けると割れた塩ビのトタンの雨除けの隙間から
隣の広い空き地の向こうに鉄橋を渡る茶色い電車が見えた
ゴーとまるでこちらに向かってくるかのように
右に行くのは梅田行き
左に行くのは京都四条河原町行き
(お客さんは学校に行くのか会社に行くのか)
(皆、目的があって電車に乗ってるんやもんな)
(俺は毎日何の目的も無いから電車に乗られへんな)
とか思っていた時期が昔々あった
ふっ!
昨日、オンデマンドに昭和54年の新日本紀行をやっていて題名が「千里ニュータウン」
案内役が若き日の正司照枝さんだった
「うちら陽気な~♪かしましむすめ~♪」の照枝さんももう90歳なんだ
千里ニュータウンと言ったらうちの田舎の出身者が大勢団地に住んでいて
良く遊びに行ったけれどもセルシー広場も無いんだ
山口百恵の「潮騒」をあそこの映画館で見たけれど
百恵演じる初江が友和演じる新治の母親にいびられる場面があるんだけど
そうしたらスクリーンを見ていた高校生?の女の子たちがスクリーンに向かって
「あほーっ!」って画面の母親にむかって怒るんだ
叔父さんが一家がニュータウンに住んでいて
伺うと水洗トイレにユニットバス部屋は狭くて2DKだったか
道路が広くて公園がいっぱいあって
万博公園も近くて
憧れだったな
僕も大きくなったらニュータウンの団地に住んで
垢ぬけた都会人になって田舎に帰省するんじゃ・・
って思った
その頃のわしの将来の夢って・・
小さ~~~
40数年前に大阪から上京した
大阪の阪急沿線の小さな駅から花の東京に出たんだ
実家は未だコンビニも一軒も無い四国の鄙びた過疎の町
東京の住まいはおしゃれな代官山でバイト先の虎の門へは銀座線で通勤した
ふっ!おどろいたね東京のうどんは汁が黒いし
電気屋でまけてくれって店員に言ったら店員が怒るんや
それとお茶の水の駅に初めて行ったら駅前にニタニタ笑うた男が大勢立っていて
皆、キャッチセールスマンで田舎から出て来た田舎者を騙してやろうと狙ってるんだ
こりゃ東京は油断の出来ない所やと正直思うた
夜間の骨接ぎ学校に行ったんだけど
日本中から田舎者のもっさりした連中が集合してたね
あの頃、骨接ぎ学校って世間にあんまし無かったからな
もう生徒が柔道バカばかりで教室中が汗臭いんだ
昼間の職業がおまわりさんが多かった
あと柔道部関係
それに弟子
一つ下の学生で毎日同じジャージで通学している貧乏くさいおっさんがいて
聞いたら昼間はバイトでトラックを運転してるんだと
それから10年後ぐらいかな・・・
偶然、そのおっさんに船橋であったんだけど
BMの850に乗ってた
ハンドルが左だったんで
「高速の料金所どうやって払うんですか?」って聞いたら
「いつも隣は女が乗ってるんでそいつが払うんだよ」
って言うてた
その時は幕下の相撲取りを何人か連れていた
タニマチって奴だな
タニマチ=胡散臭い奴
ハハハ!
これもホネホネ伝説だな
そうそう入学してひと月もしない頃か
同級生で昼間は日大?の柔道部の監督かコーチをやってる人が
何人かの田舎者の若い連中に・・
「知り合いが表参道にスパゲッチィの店を出したから連れて行ってやるよ」
表参道・・
スパゲッチィ・・
田舎者は行って驚いたね
テーブルと椅子が店の外にあって
男の店員が前垂れしていて
雰囲気が外国映画で見たパリのシャンゼリゼかニューヨーク?のティファニーか
新世界の串カツやとえらい違いやな
それに表参道を歩いてる若者の身なりが違うんだ
あの頃からだよ着る服が段々と派手になって来たのは
女の子が数十万出して毛皮のコートを着だした
今、あんなもん着て歩いていたら笑われるけど
もう世の中が派手になってその最先端がその頃の表参道辺り
そうそう
スパゲッチィ
いまのパスタだな
・・
昼にオリーブの丘に行ってこよっと
19歳の時か・・
現場で一つ年上で社員で先輩土方の丸山にいつも虐められていた
「われ!ショウレン、とれっ言うたんが分からんのか!」
「ぼくぅ~ショウレンなんて知りませんもん」
「ショウレン言うたらこの鉄の棒じゃ!」
(そんなん分かるかい)
丸山はなおもひつこく僕を睨みつけて手にはスパナを持って迫って来た
弱虫で気のちっちゃな僕も・・
(やったらあ~)
と睨み返した
そんな時先輩土方の西山さんが間に入って
「まあまあええやないか」
・・と丸山をなだめて納めてくれて
「ひろ造くん今度の土曜の晩、暇か?」と聞くんで
「暇ですよ」と言うと
「わしのアパートに遊びに来ぃへんか?焼き肉食べに連れてったるわ」
「行きます行きますわ」・・
僕は吉野家には入った事があったけれど焼き肉屋には入った事が無かった
と言う事で次の土曜の晩に西山さんのアパートに行った
アパートは環状線の玉造にあって鶴橋の近くだ
西山さんの部屋に入ると
数人の男女の若者が手を合わせてごにょごにょと何や分からんお経をあげていた
僕も座敷に座ると西山さんがおもむろに
「ひろ造くん君なんや悩みがあるやろ?」
「僕ぅ~悩みなんてありませんけど」
「いや!君はなんぞ悩んどる」
「この場で言うてみぃ皆で聞いたるから」
男女の若者の視線が僕に集中した
「いや・・・」
その後の成り行きはすっかり忘れてしまったがいよいよ焼肉屋である
(美味いなぁ~こんな美味いもんが世の中にあったんやな)
僕は焼き肉屋の焼肉に感動した
ふと周りの部屋でお経をあげていた男女を見たらほとんど焼き肉を食べてない
(こんな美味いもんなんで食わへんのやろ?)
ほとんど僕しか焼肉に手を付けてない
後で気が付いたんだが彼らは貧乏でお金が無かったんだ
その後、西山さんが僕を誘う事が無かった
何年か後、大阪に行くたんびに鶴橋によって焼き肉屋で豪遊した
どう言う訳か玉造の駅に差し掛かるたんび胸の奥で・・
(ふん、あほんだら)とつぶやくんだ
今朝もさぶいね
季節はもう秋から冬に
そう言えばこの時期、昔住んでいたアパート近くの西郷山公園から眺める富士山は綺麗だったな
高台の公園から目黒のビル群を見下ろして夕日の赤に富士山が映えていた
学校が夜間だったので公園に行くのは早朝か休みの日
誰もいない早朝の冷えた公園がええんじゃ
昭和57年、好景気が日本を包み込もうとした頃
アパートを出て坂道を上り商業高校を過ぎると右に折れ旧山の手通り通称大使館通りに出る
信号の一角に林があってそっと覗くと芝生の庭で数人の白人の女性がビキニで日光浴をしていた
この時期に
ここはアメリカの航空会社の社宅で仕事合間のスチュワーデスさん達だ
信号を渡りきるとヒルサイドテラス
僕の向かいの部屋に美人の陶芸家の仕事部屋があってその陶芸家の方のお店もあった
休みの日はここでモーニングコーヒーを飲むのが楽しみだった
公園に向かって歩くと島田順子さんのブティック
その先にデンマークやイラク、エジプトなどの大使館があった
今は代官山蔦屋書店がある辺りだろうか旧山の手通りに面して大きな敷地の古い木造アパートがあって
専門学校の花田ともう一人は忘れたが九州出身の二人の同級生が住んでいて
花田が実家から送って来た‘明太子,を大家さんにおすそ分けした
その明太子を大家のお婆さんがアパート前の敷地で七輪で焼いていたんだが
うちわで炭を扇ぐもんだから山の手通りに明太子の焼ける臭いが漂っていた
現在あんな好立地な場所に住んだら家賃をどれだけ取られるだろうか
もうその頃には巷でおしゃれな場所として話題にはなって来ていた
今は航空会社の社宅も古いアパートも無くなり
素晴らしい環境の通りになった
西郷山公園の夕日に富士山の見える景色
ふとたまに思い出すんだよな
寒いせいか今晩は何故か秋刀魚の塩焼きが食べたい
前の家は広かったので庭の七輪で秋刀魚を焼いたんですが
今は狭い台所で焼くと部屋中に臭いがこもってしまいそれにIHだと風情が無いな
・・・
もうすぐ冬ですね
20歳の頃、虎の門の病院で働きながら夜間の専門学校に通っていた
専門学校は渋谷の桜ケ丘の坂の上にあって授業は夜6時からだ
夜間の医療系の学校に通う連中が大勢いたので晩御飯は病院で出た
授業が終わるのが9時半で大部分の学生はまた帰りの電車に乗るんだけど
僕のアパートは学校から徒歩5分の場所だった
渋谷駅から桜ヶ丘の坂道を上った逆方向に道を下りまた坂道を上ると鉢山町と言う地区があり
隣は南平台に猿楽町に代官山、代官山の駅にも近かった
アパートの住所は鉢山町、アパートの玄関に立つと同じ目線の高さに桜ヶ丘のビル群があった
もうその頃の僕は毎晩のように飲み歩いていた
渋谷の繁華街には徒歩7分ぐらいだったけれど友達が一緒の時以外はほとんど行かなかった
もっぱら飲みに行ったのは徒歩10分の中目黒のガード下だ
大使館通りと呼ばれる各国大使館や高級ブティックや外車専門店が店を構える旧山の手通りに出て
また大きな坂道を下ると東急東横線の中目黒の駅に着く
その頃の中目黒の駅はガード下に小さな飲み屋がひしめき合っていた
ガード下に着くのはだいたい夜の10時頃
いつもポケットに2000円を入れて馴染みの店に入る
馴染みはその頃東京では珍しかった大阪の串カツの店だ
愛想のよい御夫婦でやられていてカウンターには食べ放題の新鮮なざく切りのキャベツ
天ぷらネタも新鮮だ
僕はいつも揚げたて熱々のイカに鯵、それに鳥のささ身を頬張りながら
おもむろにキャベツのざく切りをアルミ缶に入ったソースにたっぷり浸してアテにする
もちろん2度漬け禁止だ
しだいにメインのアテは‘タダ,のキャベツに集中する
お酒は熱燗
酩酊した20歳の僕はめいっぱいおっさん化する
二合の熱燗2~3杯飲んで帰るんだけど
これで2000円出しておつりが来た
(アテがタダのキャベツが主だからな)
けっこう頻繁に通ったんだけど
いっこうに僕と数人の関西人の常連さん以外お客が増えないんだ
関西人がそれほど串カツを食べるかと言うとそうでも無くて
ましてや東京で受け容れられなかったんだろうな
串カツ屋は開店1年持たなくてあえなく止めてしまった
常連の客もキャベツばかり食べてる貧乏人ばかりだったし