皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

柚餅子と脱酸素材

2018-11-03 22:47:13 | 食べることは生きること

先月の茂木町への旅でお土産にした柚餅子。東北や関東では柚子よりもクルミを使った餅菓子が多いとされている。由来は鎌倉時代まで遡る。米の収穫時にできる壊れた米を米粉にして醬油や砂糖を合わせて蒸したものだ。蒸す前に2本の指でぎゅっと押したことから「ゆべし」と名付けられたという。

 ところで道の駅やサービスエリアを始め地元の和菓子を大量に販売するところでは、多くの種類の菓子類が賞味期限もある程度長く設定されている。流通販売にとって在庫を抱えながらロスも抑えるのに販売期限は長い方が扱いやすい。多くの商品が日持ちさせるため個々の菓子を個別包装し、酸素を取り除くことで酸化を防ぎ商品劣化を防いでいる。脱酸素材といわれるものだ。

密閉した容器に混入し鉄の酸化を利用して酸素を吸収したり、糖などの酸化反応を利用したりする有機系のものも開発されている。

今回使われていたものはアイリスのサンソカット。しかしそのシェアナンバーワンは三菱ガス化学の「エージレス」。1977年に商品化され安全性が確認されると仙台銘菓「萩の月」に同包され、保存料を使わない生菓子が賞味期限を延長し贈答、土産用として販路を拡販すると、食品と脱酸素材を同包する方法は一気に広まったという。

以前菓子原料の流通に関わっていたころ、エージレスを始め、上野製薬の「オキシーター」、日本化薬の「モデュラン」など様々なメーカーが開発販売していることを知った。またエージレスの様に先行開発メーカーの優位性を現場で肌で感じることができた。人に先んじて作り出すことに価値があるのだろう。やはり脱酸素材といえばエージレスだ。

食べ物だけではなくその保存方法が進化して、より価値のある物が多くの人に届けられていく。購入してひと月近く立った柚餅子の食感もなかなかのものだった。

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真名板高山古墳と薬師堂②

2018-11-03 20:32:07 | 史跡をめぐり

真名板の地には江戸時代「花蔵院」という真言宗のお寺があったという。明治になって廃寺となり現在は薬師堂を残すだけとなっている。

本像が残っており埼玉県の文化財に指定されたのは平成17年3月。銅の滑らかな質感とうつむき加減静かな面立ちが特徴で両手が失われていることから「手無し薬師」として地域の信仰を集めているという。そばに立つ石碑と同じ鎌倉時代の作とされる。

この薬師様は金剛仏で高さ九十四センチもある立派な姿で、その重さから「金」がたくさん入っていると思われていた。江戸の昔お堂に泥棒が入り薬師様を盗み出してしまったという。江戸で売り出されてしまった薬師様には手がなく、仏像としては売り出すことができない。そこで古物商は「金」を取り出すために鋳物師に送ってしまった。鋳物師はその盗まれた仏像の由来を知らずに、金を取り出そうと仏さまを七日七晩寝ずに鞴にかけたという。ところがいつまでたっても仏さまは溶け出さない。それどころか鋳物師はもちろん、家族をはじめ周囲の者みな高熱にうなされるようになってしまった。そこで祈祷師に見てもらったところ「これは北の方にあった霊験あらたかな薬師様で早くお返ししないと萱場の町一帯が熱にうなされる」ということで町中で薬師様の出所を探し回ったという。それが真名板薬師様で萱場の人々から大層な見送りをされて行田の地に戻ったという。その時に寄進されたのが立派な山門とお堂であるという。また萱場町でも悪霊消散の記念として薬師堂が建立され「萱場町薬師堂」として残っているという。

無事に戻った薬師様であったが、真名板の地では鍛冶屋鋳物屋が薬師様に近づくと手足が動かなくなり、終には夜逃げをするようになったという。以来「薬師様は鞴(ふいご)が嫌い」といわれるようになり鋳物師たちは遠くに仕事場を遷したという。

行田市の天然記念物に指定された樹齢700年を数える3本の大銀杏に囲まれるように、美しい山門は今日も真名板の町並みを静かに見守っている

 

 

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真名板高山古墳と薬師堂①

2018-11-03 16:51:32 | 史跡をめぐり
行田市真名板にある高山古墳。高校生の時にはこの前の道を毎日のように自転車をこいでいた。小針のクリーンセンターから太田西小学校まで、延々と続く田んぼ道だ。加須市との境の手前に立派な山門が建っている。郷土史に興味のなかった高校時代、その姿を毎日目にしても何も感じず通り過ぎていた。前長100メートルを超える前方後円墳の脇にはこれも立派な板碑が建っている。鎌倉時代のもので市の文化財に指定されている。
真名板高山古墳の被葬者は利根川の水運を掌握していたと考えられていて、その古墳の規模からもかなりの有力な氏族であったと思われている。現在古墳は一基だけしか残っておらず、関東造盆地運動という地盤変動や古利根川などの河川の氾濫の影響を受けたと考えられている。
真名板という変わった地名の由来についても、『マナ』は小石や砂利の意味から来ているようで川の流れが連想される。
古墳に寄り添って建つ薬師堂には不思議な逸話が残っている。
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行田電燈株式会社跡

2018-11-03 00:14:02 | 行田史跡物語

行田市郷土博物館駐車場に建つ『行田電灯株式会社跡』石碑。明治末期にここ行田の地で電力自給の取り組みがされた歴史を知ると、当時の人々の活気や行動力に驚くばかりだ。忍町の将来構想を検討する行田倶楽部(明治41年)の中心メンバーだった今津徳之助氏が発起人となり、資本金10万円で設立されたのが行田電灯株式会社。火力発電によって電灯と電力の供給を行い、独自の事業展開を目指した。

 当時すでに熊谷町や羽生町には電灯が提供されていたという。熊谷までは高崎水力電気が遠距離送電線を用いて送電していたが、忍町でもっ利用者を募り送電線の延伸を依頼したが、断られてしまったという。ならば自力でという当時の忍町事業者の気概が感じられる一面だ。

高崎水力電気が断った理由は、行田倶楽部が志向した産業電力の送電要請が設備投資高騰を招き採算上の支障になったからだという。(高圧だったため)

こうして明治四十三年、県内では川越電灯に次ぎ先駆け的な電灯会社が事業化された。

この電力提供が大きく寄与したのが行田足袋の生産で、明治42年には800万足、大正12年には1200万足、同6年には3200万足と足袋の生産は大きく伸びている。足袋製造が機械化されただけではなく、電灯のおかげで夜間製造時間のが延長でき、所謂夜なべ仕事が可能となったからだ。人、物、エネルギーが三つ巴となって、当時の需要にこたえたのだという。

 当時の人は電灯とはこんなに明るいものだと喜んだという。また当時の逸話に夕方暗くなるころ、表通りに出て『俺のてばたきで電灯がつく』といって何度も何度も皆で手を叩いて、明かりがつくと万歳三唱をして喜んだという。

 その後昭和十七年戦争のため、国家総動員法により東京電燈に強制買上げ合併を命じられ、行田電燈は34年の輝かしくも短い歴史に幕を下ろしている。

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