堤根の地名は天正十八年石田三成忍城攻めに際し、久下の堤を切って荒川の水を引き入れるために作った堤の下に開かれた地であることに由来する。現在は国道17号バイパスが通り、広大な田園地帯を多くの車が行きかう場所になっている。
享保十年に神祇官吉田兼敬(かねゆき)より正一位を賜り、この時贈られた神爾箱は現在も本殿に祀られているという。
神祇官吉田兼敬は初名を兼連(かねつら)と名乗り姓も卜部と称した。京都吉田神社の神官で公卿、歌人としても活躍している。寛文五年諸社禰宜神主法度が発布され吉田家の権威が確立され、吉田家当主として礎を築いた。
この卜部兼連の名で神道裁許状を皿尾久伊豆大雷神社は受けており、その書面自体も現存している。
この裁許状は巫女に対する神楽舞の許状で元禄七年のもの。享保十年に贈られた神爾箱が見られれば、兼連から兼敬に改名し、歳を重ねた神祇官の書跡の違いが見ることができるかもしれない。
本殿前には伊奈利社の神使である狐の石が構える。七月には獅子祭りとして、年番が騎西玉敷神社から獅子を借りて各戸を巡回し、村昌で清めを行う。現在でも稲作の盛んな区域で神社周辺には田んぼが多く残っている。
境内地前も田んぼが広がっており、稲刈り後しばらくたった現在、刈った後に芽が出て穂が付くほど稲の生命力を感じさせてくれる。元荒川流域であったことから水害を回避できるよう社殿は盛り土の上に建てられていて、洪水にあたっては神社が避難所となっていたことがうかがえる。