長瀞方面から美の山公園を目指し、蓑山を登る山中に小さな神社が鎮座している。善女竜王社と記されていた。
秩父郡の延喜式内社は二社で一社が皆野町の椋(むく)神社とされている。同名社が郡内五社あり、いづれも自社がその椋神社であるとの主張しているという。社記によれば十二代景行天皇の御代、日本武尊が東国平定に際し、知知夫国を巡った時にこの地に至り御矛をたてて猿田彦命、大己貴命、八意思兼命(やごごろおもいかねのみこと)の三柱の神を祀り、椋宮(くらのみや)=倉宮明神と称したと伝えられている。後に畠山重忠や阿部豊後守、松平下総守らの崇敬を受けたとされる。明治に別当の配下から離れ村社となり、多くの神社を合祀したが、蓑山に鎮座する蓑山神社だけは由緒の古いことから椋神社奥社として残されたという。
蓑山神社社記によれば「当奥社は蓑山上にありその昔秩父彦命開発之際、たまたま霖雨あり人民大いに困苦するにより、衆人率いて蓑山に登り清地を求め神籬を立て祈晴祭を行ふにたちまち晴天となるにより傍の松樹に蓑を懸置たればこれを蓑懸松という」とある。
また山の中腹に鎮座する善女竜王社の由緒にはこう記されている。
平安の昔、京都醍醐の山で修業した歓喜坊という僧が武蔵国に下り、蓑山の中腹深い沢の地に庵を立てた。その庵の傍らには湧水の絶えない池があった。ある年日照りが続き、村人が困窮すると領主は歓喜坊に雨乞いを命じ、池のほとりに神籬をたてて龍神を招魂して祈念すると慈雨たちまち降り注ぎ万物が蘇った。土地の人々は池を龍神池と呼び社を建てて信仰するようになった。これが善女竜王社とされる。
明治の大火にて社殿焼失するも平成の御代に再建される。ご祭神は善女竜王。仏説によれば娑伽羅竜王の三女。降雨を祈祷する「請雨法」の本尊。
風土記稿によれば皆野村は陸田が多く用水は蓑山から湧き出る谷川の水とため池を利用したとされる。荒川沿いの水田はたびたび日照りによる被害をこうむったと伝えられている。このような土地であったことから古くから雨乞いは重要な行事とされ、人々の切実な願いを映しながら信仰として受け継がれてきたことが分かる。戦後になっても昭和三十一に雨乞い神事が行われたことが記されている。
紅葉の美しさと共に秩父路の歴史の息吹にふれられた貴重な晩秋の旅となった。