皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

佐間古墳群 大日塚古墳

2018-11-17 22:05:51 | 史跡をめぐり

行田市文化財埋蔵センター内にある史跡

大日塚古墳。6世紀後半の築造で直系18mほどの小さな円墳と考えられている。佐間古墳と呼ばれ、数基の円墳が存在していたことが分かっている。昭和52年の発掘調査で箱式石棺の上に粘土郭2基が検出されたという。粘土郭からは刀や鉄鍬、人骨片などが見つかっている。

築造時期が埼玉古墳群の稲荷山古墳と同時期とみられ、関連性があると考えられている。

かつて墳頂部にには板碑があり、大日種子板石塔婆と呼ばれ埼玉県有形文化財にしてされている。嘉禎2年(1236)に左近将監が父母の供養に造立したものとされる。板石塔婆は板碑と呼ばれ、鎌倉時代以降盛んに作られたという。秩父青石といわれる緑泥片岩を使った石碑で死者の霊を鎮めるための供養塔のようだ。埼玉古墳を中心として市内の所々に古墳が見られ、古代史に誘われる要素がこの地にはあふれている。

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佐間 諏訪神社

2018-11-17 21:18:55 | 神社と歴史 忍領行田

地名誌によれば佐間の地名はマは湖沼を表し、サは接頭語であることから、古来より沼地であったと考えられているようだが、佐間という地名がいつごろから用いられたかははっきりしないという。ただし埼玉古墳の北側に下ったところにある大日塚古墳にある板碑は嘉禎二年(1236)に左近将監が父母の供養に建てた石塔婆とされ、この地域が鎌倉期より開けていたことが分かっている。

佐間の神社といえば天神社で忍城佐間口の鎮守としてまた忍沼の樋の隠し場所として重要な位置にあったが、それより南1キロほどの所に小さな古墳上に社が隠れている。佐間の諏訪神社である。埼玉の神社に記載はなく、この地に諏訪社が祭られていることを知らなかった。

口碑によれば、成田氏長が天正年間創建したとされ、長野の諏訪大社に習い、下社として祀ったと伝えられている。当然上社は忍の総鎮守諏訪神社で、祭神は建御名方神。忍の諏訪神社が男神、佐間の諏訪神社が女神とされる。諏訪大社と同じく上社の男神が下社の女神の所に通う伝説が付随するという。

現地は文化センターみらいの裏にあり、周囲を住宅に囲まれるようにあるが、明らかに小高く盛られた区画にあり、小円墳であったことが分かっている。忍の諏訪神社ももとは持田村の沼尻にあったものを遷したと伝えられていて、成田氏の諏訪社への信仰の深さが見て取れる。

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ちはやふる!行田郷土かるた大会

2018-11-17 17:09:42 | 日記
第1回行田市郷土かるた大会に参加しました。主催は市教育委員会と青少年育成会連絡協議会です。行田市グリーンアリーナにて20チームが参加しました。競技かるたも近年盛んで『ちはやふる』というマンガが実写化され映画にもなっています。映画を見ていませんが、広瀬すずの番宣CMをよく目にしました。『ちはやぶる』は神に掛かる枕詞で、百人一首に出てくる句で『千早振る神代も聞かず竜田川から紅に水くくるとは』(在原業平)が有名です。競技かるた大会は各地で行われていて、午前中は同じグリーンアリーナで彩の国かるたの行田地区予選があり、代表になると県の大会に出られるそうです。
競技だけにルールも厳密です。札の並べ方、記憶時間など決まりがあります。特に読み手が『から札』を2回読んでから始まります。読み手の間が大事な所です。今回のから札は『日本一 足袋の行田の 名は高し』が用いられます。ひと札一点で故郷札、シンボル札という役札が揃うとプラス10点です。ルールというより作法と呼ぶ方がそれらしく聞こえます。
一枚でも多く取る事より、役札を揃えた方が有利です。そのため配ってから場所を覚え、役札をマークする戦術もあるようです。今回学校の教頭先生が良く指導してくれました。
1組4チームの総当たり戦で、得点の高いチームが優勝です。審判は中学のジュニアリーダーがつとめます。
残念ながらうちの子のチームは三戦全敗でしたが、役札が取れたときはとても嬉しそうでした。
競技が終わり散会になると、運動公園の遊び場は子どもたちで溢れていました。勝っても負けても、終われば皆同じ。子どもどうし走り回り、紅葉も美しい北武蔵の秋の一日をたのしんでいました。
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