三連休の中日、秋真っ盛りの24日(土)に、奈良市音声館で劇団
「良弁杉」の二十五年ぶりの新作の『麦わら一本嫁とり話』の
プレ公演11時の部に出かけました。道が混むといけませんから
早めに出ると10時には到着。![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/75/d7/430f07b83055aa8f9f0fc6f3e549f544_s.jpg)
早く着き過ぎ時間までどうすると、相方に問うと、
近くに中将姫伝説の地が三か所もあるのだとかで訪れようと。
このあたりは鳴川町といい、平城京の外京6坊大路で藤原氏の祖
・鎌足の曾孫で、「中将姫」の父でもある「藤原豊成」の邸宅跡
と伝承される一画になり、この上つ道(伊勢街道)を50mほど
南へ向かうと融通念仏宗「徳融寺」があり、1677年に高林寺
から移された藤原豊成公と中将姫、父子の墓がひっそりと。
寄せ集めて造られた石造宝篋印塔(鎌倉時代)になり、
中将姫にまつわる歌舞伎の演目を演じられる時、参られた
歌舞伎役者のお名前も二つ・・・。
豊成公
中将姫
なお本堂の御本尊は北条政子の念持仏とされる阿弥陀如来立像と
観音堂の聖母像のように子供を抱かれた「子安観音像」も必見に。
子安観音像
続いて100m程南へ、左側の空き地に中将姫誕生霊地の石碑が・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/33/b1/1a63b6785287cef6e0f31b1d011a4b2d_s.jpg)
堅く閉じられた門は浄土宗「誕生寺」で境内の井戸は産湯を使わ
れたとの言い伝えが・・・。4月13日・14日には開帳が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1e/29/dea278dd134f6adda94c996465ce81a2_s.jpg)
その手前に小さな北向きのお堂が佇み、「北向庚申堂」と・・・
厨子内に二童子を従えた六臂の青面金剛童子が収められ、
足許に三猿が座り、さらに薬師如来・弘法大師像も。
これより次の角を曲り東上すると100m程で細長いお寺の境内に
廻り込むと山門で、尼寺の『高林寺・高坊旧跡』と
『中将姫修道霊場、豊成卿古墳之地』の二つの石碑が
中将姫は、後に当麻寺で出家し一夜で当麻曼荼羅を織り上げたと
いう中将姫伝説の地の一つに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/df/1f80b18a37dd652933f799589edf4f3b.jpg)
またこんな逸話が『奈良坊目拙解』巻弐37に記されています。
1560年頃、松永久秀が奈良「多聞山城」を築く際、建材として
徳融寺に移された豊成公・中将姫の石塔を徴収しようとされたが
高林寺在住の連歌師、心前法師が「曳のこす花や秋さく石の竹」
の発句を贈ると”抜かずに残したセキチクが秋に花を咲かせる”
との意味を久永が悟られ残ったとの逸話に。
奈良坊目拙解
門前の案内板には、近年になり茶室「高坊」が建てられ、さらに
藤原豊成の古墳があり、元興寺塔頭「高坊」として守られてきた
が、安土桃山時代に「高坊一族」または「北の端」と称する茶人
・連歌師・医師の竹田一族らの数寄者が住みつき、茶道・連歌塔
を大いに興隆し奈良南の下町町民文化の一大中心地であった。
北の端宗棟(そうとう)‣里村紹巴(じょうは)‣高坊心前(しんぜん)
らが住し、 心前は堺の津田宗久に招かれて「天王寺屋会記」に
名を残し、「松屋会記」や北野大茶会にも奈良茶人三十六人衆の
一人として参加している。
クリックで拡大
奈良茶文化のもう一つの聖地になるのでしょうか
調べて、一度訪問したい茶室になりますね。
奈良市音声館まで戻らねばなりません。
孫の演技???、良かったです。でもまた大きくなったのかな。
劇団「良弁杉」の次回の公演は、
12月16日 東大寺開祖「良弁僧正」開山忌奉納公演
東大寺二月堂参籠者所(無料)
クリックで拡大
「良弁杉」の二十五年ぶりの新作の『麦わら一本嫁とり話』の
プレ公演11時の部に出かけました。道が混むといけませんから
早めに出ると10時には到着。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/75/d7/430f07b83055aa8f9f0fc6f3e549f544_s.jpg)
早く着き過ぎ時間までどうすると、相方に問うと、
近くに中将姫伝説の地が三か所もあるのだとかで訪れようと。
このあたりは鳴川町といい、平城京の外京6坊大路で藤原氏の祖
・鎌足の曾孫で、「中将姫」の父でもある「藤原豊成」の邸宅跡
と伝承される一画になり、この上つ道(伊勢街道)を50mほど
南へ向かうと融通念仏宗「徳融寺」があり、1677年に高林寺
から移された藤原豊成公と中将姫、父子の墓がひっそりと。
寄せ集めて造られた石造宝篋印塔(鎌倉時代)になり、
中将姫にまつわる歌舞伎の演目を演じられる時、参られた
歌舞伎役者のお名前も二つ・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/03/02/40b2ebfc8beb0c7393f8aefbeca2ec11_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5f/ea/82dc687e65b18aae174ee98d3cb6c896_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6e/a9/a9ac937958245aa8490491de998934a8_s.jpg)
なお本堂の御本尊は北条政子の念持仏とされる阿弥陀如来立像と
観音堂の聖母像のように子供を抱かれた「子安観音像」も必見に。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/43/ff/cc21fe2a87496951ebf2221e6f42cb74_s.jpg)
続いて100m程南へ、左側の空き地に中将姫誕生霊地の石碑が・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/33/b1/1a63b6785287cef6e0f31b1d011a4b2d_s.jpg)
堅く閉じられた門は浄土宗「誕生寺」で境内の井戸は産湯を使わ
れたとの言い伝えが・・・。4月13日・14日には開帳が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1e/29/dea278dd134f6adda94c996465ce81a2_s.jpg)
その手前に小さな北向きのお堂が佇み、「北向庚申堂」と・・・
厨子内に二童子を従えた六臂の青面金剛童子が収められ、
足許に三猿が座り、さらに薬師如来・弘法大師像も。
これより次の角を曲り東上すると100m程で細長いお寺の境内に
廻り込むと山門で、尼寺の『高林寺・高坊旧跡』と
『中将姫修道霊場、豊成卿古墳之地』の二つの石碑が
中将姫は、後に当麻寺で出家し一夜で当麻曼荼羅を織り上げたと
いう中将姫伝説の地の一つに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/68/fe/a6ea5faab5c52be9bd73dff9f7522021_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/df/1f80b18a37dd652933f799589edf4f3b.jpg)
またこんな逸話が『奈良坊目拙解』巻弐37に記されています。
1560年頃、松永久秀が奈良「多聞山城」を築く際、建材として
徳融寺に移された豊成公・中将姫の石塔を徴収しようとされたが
高林寺在住の連歌師、心前法師が「曳のこす花や秋さく石の竹」
の発句を贈ると”抜かずに残したセキチクが秋に花を咲かせる”
との意味を久永が悟られ残ったとの逸話に。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/de/5114bd6654a299edce65e15b712e2f66.png)
門前の案内板には、近年になり茶室「高坊」が建てられ、さらに
藤原豊成の古墳があり、元興寺塔頭「高坊」として守られてきた
が、安土桃山時代に「高坊一族」または「北の端」と称する茶人
・連歌師・医師の竹田一族らの数寄者が住みつき、茶道・連歌塔
を大いに興隆し奈良南の下町町民文化の一大中心地であった。
北の端宗棟(そうとう)‣里村紹巴(じょうは)‣高坊心前(しんぜん)
らが住し、 心前は堺の津田宗久に招かれて「天王寺屋会記」に
名を残し、「松屋会記」や北野大茶会にも奈良茶人三十六人衆の
一人として参加している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/28/22/15fe423491613220e7e370ac3941c1d1_s.jpg)
奈良茶文化のもう一つの聖地になるのでしょうか
調べて、一度訪問したい茶室になりますね。
奈良市音声館まで戻らねばなりません。
孫の演技???、良かったです。でもまた大きくなったのかな。
劇団「良弁杉」の次回の公演は、
12月16日 東大寺開祖「良弁僧正」開山忌奉納公演
東大寺二月堂参籠者所(無料)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2e/aa/5b78d0c29bb631133b45e7567376261b_s.jpg)