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千田嘉博先生の話「大和郡山城の天守は二条城へ」

2016-12-02 09:16:42 | 日記
温かい朝を迎え小春日和の中、朝一番の用事を済まし、
昼からは袴腰餅を作らなければなりません。
先日、城博士で有名な千田嘉博先生の「大和の城を歩く」と
題された講座へ参加してまいりました。
登壇されるなり、NHKの趣味どきっ!「お城へ行こう」同様、
軽快な話しぶりで、監修にあたられた「真田丸」の逸話を
”もう終わりですので、話ができるのですが”と言葉の端々に
織り込まれて、難しい話も飽きさせることなく、本当にお上手。
「大和の城」大和郡山城、信貴山城や高取城など多いのですが
荒れており、奈良県はお城の保存に関しては遅れているとの
苦言から始まり、これほどの天守を適切に整備できないとすれば
惜しまれると苦言で結ばれており、県民としては考えねば・・・
写真は大和郡山城の石垣ですが、石垣の間から草木が生え放題
11月下旬 三月下旬
大和郡山城は、日和見の筒井順慶が1578年から築城し始め、
1585年に豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が入城。この時の秀長は
百万石を領有し、天下人の城の格式を供えていたことが、
大和郡山市の天守台の発掘(全面発掘ではないと苦言)を含め、
明らかにされております。
 
五重の天守+付櫓で、花頭窓と高欄をもつ華麗な姿で、
郡山城CG再現プロジェクトをご覧いただければ。
でもこの天守、どこにいったのでしょうか。
壊された?、いえ当時はエコな社会ですから徳川の城へ
移築されており、それも二条城の天守に。それは・・・
一つ目は、大工さんの技術書であった「愚子見記」に記述
  大和郡山城⇒二条城(1602年)⇒淀城(1624年)
二つ目は、この淀城(1756年に落雷で焼失)天守台発掘と
  大和郡山城発掘の成果が合致し、
  さらに「淀城天守指図」との一致しているとのこと。
淀城天守指図
このことから「愚子見記」の記述が正しいことが証明され、
さらにこのことが、当時の一流絵師が描いた絵画資料から
も伺えるのだそうです。
岩佐又兵衛「舟木本洛中洛外図屏風」1615年の作で
五重付櫓の天守、花頭窓と高欄をもつ華麗な姿が描かれ、
舟木本洛中洛外図屏風の二条城
九州国立博物館「高津本洛中洛外図屏風」1624-1625では
二つの天守が描かれており、上が元大和郡山城天守で淀城へ
移築前、代わりに下が元伏見城の天守が移築されてきており、
二つの天守が並んでいます(本当)。

私もこれから城を愛する「城ガール」??に

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