今日正午から奈良では「おん祭」が始まっております。
餅飯殿通りにある大宿所では、のっぺ汁が振る舞われます。
もちいどのセンター街の皆さんが1度に200人前ができる大鍋で、
前夜に材料を切り準備して当日大鍋3つを並べ2回転、合計6杯、
1200人分を順々に炊いて熱いのっぺい汁を造られたそうです。
材料はごぼう、大根、にんじん、こんにゃく、あぶらあげ、
サトイモなどが入っており、しょうゆで味付けされており、
私が頂いたのは、油揚げがたくさんで美味しかったです。
この祭りの謂れは、春日大社HPによれば
”長承年間に長年にわたり、飢饉や疫病が蔓延したため
時の関白藤原忠通公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり
1135年に本社と同じ規模の壮麗な神殿を造営しました。
若宮の御神助を願い1136年祭礼されたのがおん祭の始まり”
この中で、『藤原忠通』とはいかなる人なんでしょうか?
百人一首で有名だが実は藤原家繁栄の礎となった関白との事
手元の「私の百人一首、白洲正子:新潮文庫」を手に取るも
目次の中に、藤原忠通(ただみち)の名前はありません?
さらに検索してみますと、
百人一首で随一の読みにくさ・長さの名で書かれている人の本名
なんと・・・76番に
「法性寺入道前関白太政大臣」=藤原忠通と
ほつしょうじのにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん
この季節の詩ではありませんが紹介いたします。
『和田の原こぎ出でてみれば久堅の
雲居にまがふ興津白波』
大海原に船で漕ぎ出し、ずっと遠くを眺めてみれば、かなたに
雲と見間違うばかりに、沖の白波が立っていたよ。(現代訳)
この本で、白洲正子は述べておられます。
”この歌は「詞花集」に、「新院位におはしまししとき、
海上遠望といふことをよませ給けるによめる」という詞書があり
いかにも太政大臣らしいおおらかな調べである。
新院とは崇徳天皇のことで1135年4月の内裏歌合に詠んだと
伝え、当時、忠通は関白であった。
百人一首もようやく院政時代に入り、芸が細かくなって行く
中で、このような歌に出会うと、ほっとした気分になる。”
1162年に出家して、法性寺入道と呼ばれたが、
和歌に優れていただけでなく、書道も巧みで法性寺流の祖と、
日本の文化史上、忘れることのできない人物で、「今鏡」は
「和田の原」の歌をあげて、「人丸が、島が暮れゆく舟をしぞ
思ふ、など詠めるにもはぢずやあらむとぞ人は申し侍りし」
帰宅し「べっぴんさん」の録画を観終わると、続いて
「八百万の神がすむ山河、村治佳織・白洲正子祈りの道を往く」
が始まりました。BS3、9時からの録画、相方の仕業。
村治さんのアルハンブラの調べと「かくれ里」に記された
16世紀作者不明の「日月山水図屏風」天野山金剛寺が・・・
来年の5月頃、伺って観たい作品の一つになりました。
餅飯殿通りにある大宿所では、のっぺ汁が振る舞われます。
もちいどのセンター街の皆さんが1度に200人前ができる大鍋で、
前夜に材料を切り準備して当日大鍋3つを並べ2回転、合計6杯、
1200人分を順々に炊いて熱いのっぺい汁を造られたそうです。
材料はごぼう、大根、にんじん、こんにゃく、あぶらあげ、
サトイモなどが入っており、しょうゆで味付けされており、
私が頂いたのは、油揚げがたくさんで美味しかったです。
この祭りの謂れは、春日大社HPによれば
”長承年間に長年にわたり、飢饉や疫病が蔓延したため
時の関白藤原忠通公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり
1135年に本社と同じ規模の壮麗な神殿を造営しました。
若宮の御神助を願い1136年祭礼されたのがおん祭の始まり”
この中で、『藤原忠通』とはいかなる人なんでしょうか?
百人一首で有名だが実は藤原家繁栄の礎となった関白との事
手元の「私の百人一首、白洲正子:新潮文庫」を手に取るも
目次の中に、藤原忠通(ただみち)の名前はありません?
さらに検索してみますと、
百人一首で随一の読みにくさ・長さの名で書かれている人の本名
なんと・・・76番に
「法性寺入道前関白太政大臣」=藤原忠通と
ほつしょうじのにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん
この季節の詩ではありませんが紹介いたします。
『和田の原こぎ出でてみれば久堅の
雲居にまがふ興津白波』
大海原に船で漕ぎ出し、ずっと遠くを眺めてみれば、かなたに
雲と見間違うばかりに、沖の白波が立っていたよ。(現代訳)
この本で、白洲正子は述べておられます。
”この歌は「詞花集」に、「新院位におはしまししとき、
海上遠望といふことをよませ給けるによめる」という詞書があり
いかにも太政大臣らしいおおらかな調べである。
新院とは崇徳天皇のことで1135年4月の内裏歌合に詠んだと
伝え、当時、忠通は関白であった。
百人一首もようやく院政時代に入り、芸が細かくなって行く
中で、このような歌に出会うと、ほっとした気分になる。”
1162年に出家して、法性寺入道と呼ばれたが、
和歌に優れていただけでなく、書道も巧みで法性寺流の祖と、
日本の文化史上、忘れることのできない人物で、「今鏡」は
「和田の原」の歌をあげて、「人丸が、島が暮れゆく舟をしぞ
思ふ、など詠めるにもはぢずやあらむとぞ人は申し侍りし」
帰宅し「べっぴんさん」の録画を観終わると、続いて
「八百万の神がすむ山河、村治佳織・白洲正子祈りの道を往く」
が始まりました。BS3、9時からの録画、相方の仕業。
村治さんのアルハンブラの調べと「かくれ里」に記された
16世紀作者不明の「日月山水図屏風」天野山金剛寺が・・・
来年の5月頃、伺って観たい作品の一つになりました。
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