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藤原忠通はどこ?「私の百人一首」白洲正子

2016-12-15 15:50:03 | 書籍
今日正午から奈良では「おん祭」が始まっております。
餅飯殿通りにある大宿所では、のっぺ汁が振る舞われます。
もちいどのセンター街の皆さんが1度に200人前ができる大鍋で、
前夜に材料を切り準備して当日大鍋3つを並べ2回転、合計6杯、
1200人分を順々に炊いて熱いのっぺい汁を造られたそうです。
材料はごぼう、大根、にんじん、こんにゃく、あぶらあげ、
サトイモなどが入っており、しょうゆで味付けされており、
私が頂いたのは、油揚げがたくさんで美味しかったです。

この祭りの謂れは、春日大社HPによれば
”長承年間に長年にわたり、飢饉や疫病が蔓延したため
 時の関白藤原忠通公が万民救済の為若宮の御霊威にすがり
 1135年に本社と同じ規模の壮麗な神殿を造営しました。
 若宮の御神助を願い1136年祭礼されたのがおん祭の始まり”
この中で、『藤原忠通』とはいかなる人なんでしょうか?
百人一首で有名だが実は藤原家繁栄の礎となった関白との事
手元の「私の百人一首、白洲正子:新潮文庫」を手に取るも

目次の中に、藤原忠通(ただみち)の名前はありません?
さらに検索してみますと、
百人一首で随一の読みにくさ・長さの名で書かれている人の本名
なんと・・・76番に
法性寺入道前関白太政大臣」=藤原忠通
ほつしょうじのにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん
この季節の詩ではありませんが紹介いたします。
和田の原こぎ出でてみれば久堅の
          雲居にまがふ興津白波


大海原に船で漕ぎ出し、ずっと遠くを眺めてみれば、かなたに
 雲と見間違うばかりに、沖の白波が立っていたよ。(現代訳)

この本で、白洲正子は述べておられます。
”この歌は「詞花集」に、「新院位におはしまししとき、
 海上遠望といふことをよませ給けるによめる」という詞書があり
 いかにも太政大臣らしいおおらかな調べである。
 新院とは崇徳天皇のことで1135年4月の内裏歌合に詠んだと
 伝え、当時、忠通は関白であった。
 百人一首もようやく院政時代に入り、芸が細かくなって行く
 中で、このような歌に出会うと、ほっとした気分になる。”
1162年に出家して、法性寺入道と呼ばれたが、
和歌に優れていただけでなく、書道も巧みで法性寺流の祖と、
日本の文化史上、忘れることのできない人物で、「今鏡」は
「和田の原」の歌をあげて、「人丸が、島が暮れゆく舟をしぞ
思ふ、など詠めるにもはぢずやあらむとぞ人は申し侍りし」

帰宅し「べっぴんさん」の録画を観終わると、続いて
「八百万の神がすむ山河、村治佳織・白洲正子祈りの道を往く」
が始まりました。BS3、9時からの録画、相方の仕業。
村治さんのアルハンブラの調べと「かくれ里」に記された
16世紀作者不明の「日月山水図屏風」天野山金剛寺が・・・
来年の5月頃、伺って観たい作品の一つになりました。

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