「このアカデミック!」
1924年(大正13)26歳の佐伯祐三は、ヴラマンクにこんな言葉を投げつけられました。佐伯は相当な衝撃を受けたでしょうが、その後に発奮し、我が道を切り開いたことは言うまでもありません。この展覧会で富貴の夫で画家の陽(よう)の絵を見たときに、私は佐伯のこのエピソードがふいに頭の中をよぎりました。
関谷富貴(ふき)は、美術学校を出たわけでもなく、画家だったわけでもなく、明治から昭和を生きた1人の女性です。1950年頃から絵を描き始めますが、その絵を公募展に発表するのでもなく、ただ自分の楽しみのためだけに描いていたようでした。また、周囲の人にも制作する姿を見せなかったと言いますから、まさに「秘密」の絵だったわけです。
富貴の絵は、パウル・クレーを彷彿とさせる線(あるいは記号)と赤、青、緑を主とした多種多様な色の構成から成り立ちます。一般論で言えば、これだけの色彩を用いると、画面が粗雑になりやすいものですが、富貴の絵にはそうしたところはあまり見られません。確かに一見とっつきにくい絵ではありますが、徐々に慣れてくると、その世界の中へ入り込んでいる自分に気付きます。
富貴が絵を描くようになった理由。これは私の予想ですが、おそらく夫である陽が絵を描く姿を見ていて、自分もやってみようと思い立ったのでしょう。それに作品を見ていくと、やはりクレーの絵が残像として移るので、、夫が持っていた画集を眺めたりして、実践していったのだと考えられます。そうして描き始めていったら、いつしか夫の絵を突き抜けてしまった、といったところ。少なくとも、私には陽の絵よりも富貴の絵のほうが魅力的に感じます。
陽は美術学校出身の画家であり、富貴はそうした専門的な教育は受けてはいない。それなのに、この差は一体何であるのか。陽と富貴の絵を展示したこの展覧会、大きな問いかけがなされているように感じました。
1924年(大正13)26歳の佐伯祐三は、ヴラマンクにこんな言葉を投げつけられました。佐伯は相当な衝撃を受けたでしょうが、その後に発奮し、我が道を切り開いたことは言うまでもありません。この展覧会で富貴の夫で画家の陽(よう)の絵を見たときに、私は佐伯のこのエピソードがふいに頭の中をよぎりました。
関谷富貴(ふき)は、美術学校を出たわけでもなく、画家だったわけでもなく、明治から昭和を生きた1人の女性です。1950年頃から絵を描き始めますが、その絵を公募展に発表するのでもなく、ただ自分の楽しみのためだけに描いていたようでした。また、周囲の人にも制作する姿を見せなかったと言いますから、まさに「秘密」の絵だったわけです。
富貴の絵は、パウル・クレーを彷彿とさせる線(あるいは記号)と赤、青、緑を主とした多種多様な色の構成から成り立ちます。一般論で言えば、これだけの色彩を用いると、画面が粗雑になりやすいものですが、富貴の絵にはそうしたところはあまり見られません。確かに一見とっつきにくい絵ではありますが、徐々に慣れてくると、その世界の中へ入り込んでいる自分に気付きます。
富貴が絵を描くようになった理由。これは私の予想ですが、おそらく夫である陽が絵を描く姿を見ていて、自分もやってみようと思い立ったのでしょう。それに作品を見ていくと、やはりクレーの絵が残像として移るので、、夫が持っていた画集を眺めたりして、実践していったのだと考えられます。そうして描き始めていったら、いつしか夫の絵を突き抜けてしまった、といったところ。少なくとも、私には陽の絵よりも富貴の絵のほうが魅力的に感じます。
陽は美術学校出身の画家であり、富貴はそうした専門的な教育は受けてはいない。それなのに、この差は一体何であるのか。陽と富貴の絵を展示したこの展覧会、大きな問いかけがなされているように感じました。