近年のテレビ、新聞、本、そしてインターネットに流れる情報は、私たちに何者かになることを要求するものが多くなりました。それらは、例えば、自分の好きなことをやれ、人生を変えろ、考えるより行動しろ、人生には教養がないとダメ、などと、やたら命令調の言葉によって表されます。
私は、2011年に東日本大震災を経験し、その多くの犠牲者を知ったとき、人間はいつ死ぬかわからないのだから、何か大きなことをやりたい、何者かになりたいと強く思いました。それからは、時間の無駄を極端に嫌い、前述した言葉を信じ、毎日何かに追われ、好きだった小説は読まなくなり、サッカーや野球などの観戦も止め、友達と関わることも少なくなりました。そのうち、体と心はとうとう悲鳴を上げ、慢性的に調子が悪くなっていったのです。でも、そうまでして私は一体何になりたかったのでしょうか?あれから10年が経ち、自分の年齢を考えたときに、ようやく何者かになることをあきらめることができるようになり、少しずつかつて好きだったものを楽しむ時間を取り戻しています。
いま、前述したような言葉がもてはやされる時代にあって、それが必ずしも間違いであるとは思いませんが、私にとってはあまりにも強い力を持つ言葉であり、それを真正面から受け過ぎたのかもしれません。人生は好きなことばかりやらなくてはいけないわけでもないし、人生を変えなくてもいいし、行動する前にきちんと考えてもいい。これからは何かに追われることなく、以前のように毎日を大切にして過ごしていきます。そんな私の「何者にもならない」宣言でした。
私は、2011年に東日本大震災を経験し、その多くの犠牲者を知ったとき、人間はいつ死ぬかわからないのだから、何か大きなことをやりたい、何者かになりたいと強く思いました。それからは、時間の無駄を極端に嫌い、前述した言葉を信じ、毎日何かに追われ、好きだった小説は読まなくなり、サッカーや野球などの観戦も止め、友達と関わることも少なくなりました。そのうち、体と心はとうとう悲鳴を上げ、慢性的に調子が悪くなっていったのです。でも、そうまでして私は一体何になりたかったのでしょうか?あれから10年が経ち、自分の年齢を考えたときに、ようやく何者かになることをあきらめることができるようになり、少しずつかつて好きだったものを楽しむ時間を取り戻しています。
いま、前述したような言葉がもてはやされる時代にあって、それが必ずしも間違いであるとは思いませんが、私にとってはあまりにも強い力を持つ言葉であり、それを真正面から受け過ぎたのかもしれません。人生は好きなことばかりやらなくてはいけないわけでもないし、人生を変えなくてもいいし、行動する前にきちんと考えてもいい。これからは何かに追われることなく、以前のように毎日を大切にして過ごしていきます。そんな私の「何者にもならない」宣言でした。