私はある学誌の美術部門を担当させていただいていて、今、3件の論文について査読を進めています。査読とは、文章の内容を査定することで、それが学誌に掲載するのに問題がないかをチェックすること。
自分のような者が査読をするなどと、大変恐れ多いことなのですが、何事も経験と思って、4年程前から引き受けています。美術部門という大きな枠のなかを担当しているため、自分の専門分野以外の部分もチェックしなければならず、なかなか骨が折れますが、学生時代に戻ったつもりで、日本美術史や各分野ごとの研究を再勉強して対応しています。自分が査読を受けていたときには、指摘されたところに弱点があって、それを補うために勉強をしたものですが、査読をする立場になると、当然それなりの責任が生じて、やはりきちんと指摘するためには勉強は欠かせない。査読を引き受けたことが、自分にとってもまたいい刺激になっています。また、その論文自体から色々と吸収できることもあって、内容そのものから新しい視点が学べるとともに、人それぞれの筆の運び方や文体も参考になります。査読を通し、自分が論文を書くときにも、できるだけ客観的な視点を持つ、という意識づけが得られている気がしています。とてもありがたいことです。
ただ、こうした査読で多々感じることがあって、その論文の目的や先行研究の問題や課題が明確にされないまま、突如として文章の書き出しが始まるケースが多いこと。少なくとも、論文とは筆者のなかに何かの目的意識が生まれ、それを明らかにしたいという思いで書かれるものですから、それをはじめにきちんと書いておく必要があります。論文は書き出しから始まる、が私なりの考え。他者が読んで、スッと納得できるような筆の進め方が大切かな、と思うわけです。
さて、かくいう私も今は原稿を執筆中。今日は査読をしつつ、自分で原稿を書く仕事に取り組む予定です。皆さま、良い一日を。
自分のような者が査読をするなどと、大変恐れ多いことなのですが、何事も経験と思って、4年程前から引き受けています。美術部門という大きな枠のなかを担当しているため、自分の専門分野以外の部分もチェックしなければならず、なかなか骨が折れますが、学生時代に戻ったつもりで、日本美術史や各分野ごとの研究を再勉強して対応しています。自分が査読を受けていたときには、指摘されたところに弱点があって、それを補うために勉強をしたものですが、査読をする立場になると、当然それなりの責任が生じて、やはりきちんと指摘するためには勉強は欠かせない。査読を引き受けたことが、自分にとってもまたいい刺激になっています。また、その論文自体から色々と吸収できることもあって、内容そのものから新しい視点が学べるとともに、人それぞれの筆の運び方や文体も参考になります。査読を通し、自分が論文を書くときにも、できるだけ客観的な視点を持つ、という意識づけが得られている気がしています。とてもありがたいことです。
ただ、こうした査読で多々感じることがあって、その論文の目的や先行研究の問題や課題が明確にされないまま、突如として文章の書き出しが始まるケースが多いこと。少なくとも、論文とは筆者のなかに何かの目的意識が生まれ、それを明らかにしたいという思いで書かれるものですから、それをはじめにきちんと書いておく必要があります。論文は書き出しから始まる、が私なりの考え。他者が読んで、スッと納得できるような筆の進め方が大切かな、と思うわけです。
さて、かくいう私も今は原稿を執筆中。今日は査読をしつつ、自分で原稿を書く仕事に取り組む予定です。皆さま、良い一日を。