みなさんは鷹見泉石(たかみ せんせき)をご存知でしょうか。歴史に詳しい方なら古河藩家老として、美術なら渡辺崋山の描いた肖像画の人物として、名前が知られているのではないでしょうか。私はといえば、やはり後者の方でこの肖像画にはリアリズムが…と出て来るわけですが、鷹見泉石がどんな人物だったのかはそれほど詳しくは知りませんでした。
今日、茨城県の古河へ往く機会があって古河歴史博物館を訪れました。博物館では鷹見泉石のコーナーが充実しており、そこではかなりわかりやすく鷹見泉石の実績が紹介されています。箇条書きにしてみましょう。
1.フランス語、ロシア語、オランダ語などに多言語に精通
2.蘭学者、藩士、絵師、外国人まで交友があり、人的ネットワークが多岐に及ぶ
3.古河藩家老として藩主土井氏を支え続け、藩の財政もまとめた
4.幕府に意見書を提出し、間接的に幕政にも関与した
5.オランダの地図を独自作成、日光社参の宿間の距離を計測した乱数表作成
6.大塩平八郎の乱で、乱を鎮圧して平八郎を捕縛した人
要するに只者ではない。特に海外への興味・関心が高かったようで、情報を収集するだけでなく、洋食器や石版画などもコレクションしていたようです。彼が生まれ変わって、現在の日本に生まれたとしても、十分にグローバルな人材として活躍するでしょう。
さらに鷹見泉石が仕えていた藩主の土井利位(どい としつら)も面白い人物。彼は大坂城代、京都所司代、老中と幕府の重役を担っています。その一方で、雪の結晶を顕微鏡で観て、その美しさに惚れ込み、自分の書状に結晶の判を押したり、結晶をあしらった訪問着を作らせるなどデザイナーのようなことをしていた藩主でした。そのセンスがものすごくいい。
幕末の古河藩は、こうした藩主や家老を筆頭にして、谷文晁、高久靄厓系の絵師牧田水石と岡野竹癡、河鍋暁斎、奥原晴湖など、書では小山霞外がおり、相当な人材を有していたようです。古河藩、スゴい…。
こちらは博物館の向かい側にある鷹見泉石記念館。鷹見泉石が最晩年を送った隠居所です。
もちろん茅葺の屋根です。定期的に葺き替えが必要なので、手入れとコストが大変だと思うのですが、やはり雰囲気が出ますね。葉が紅葉を始め、古河にも秋の訪れがやって来たようです。
古河は城郭こそ残っていないものの、江戸時代の入り組んだ道路が残っていますし、近代と思われる赤レンガの建物や大谷石の蔵なども多々見られます。今度、ゆっくり町並みを散策してみたい街でした。
今日、茨城県の古河へ往く機会があって古河歴史博物館を訪れました。博物館では鷹見泉石のコーナーが充実しており、そこではかなりわかりやすく鷹見泉石の実績が紹介されています。箇条書きにしてみましょう。
1.フランス語、ロシア語、オランダ語などに多言語に精通
2.蘭学者、藩士、絵師、外国人まで交友があり、人的ネットワークが多岐に及ぶ
3.古河藩家老として藩主土井氏を支え続け、藩の財政もまとめた
4.幕府に意見書を提出し、間接的に幕政にも関与した
5.オランダの地図を独自作成、日光社参の宿間の距離を計測した乱数表作成
6.大塩平八郎の乱で、乱を鎮圧して平八郎を捕縛した人
要するに只者ではない。特に海外への興味・関心が高かったようで、情報を収集するだけでなく、洋食器や石版画などもコレクションしていたようです。彼が生まれ変わって、現在の日本に生まれたとしても、十分にグローバルな人材として活躍するでしょう。
さらに鷹見泉石が仕えていた藩主の土井利位(どい としつら)も面白い人物。彼は大坂城代、京都所司代、老中と幕府の重役を担っています。その一方で、雪の結晶を顕微鏡で観て、その美しさに惚れ込み、自分の書状に結晶の判を押したり、結晶をあしらった訪問着を作らせるなどデザイナーのようなことをしていた藩主でした。そのセンスがものすごくいい。
幕末の古河藩は、こうした藩主や家老を筆頭にして、谷文晁、高久靄厓系の絵師牧田水石と岡野竹癡、河鍋暁斎、奥原晴湖など、書では小山霞外がおり、相当な人材を有していたようです。古河藩、スゴい…。
こちらは博物館の向かい側にある鷹見泉石記念館。鷹見泉石が最晩年を送った隠居所です。
もちろん茅葺の屋根です。定期的に葺き替えが必要なので、手入れとコストが大変だと思うのですが、やはり雰囲気が出ますね。葉が紅葉を始め、古河にも秋の訪れがやって来たようです。
古河は城郭こそ残っていないものの、江戸時代の入り組んだ道路が残っていますし、近代と思われる赤レンガの建物や大谷石の蔵なども多々見られます。今度、ゆっくり町並みを散策してみたい街でした。
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