主人公イスラエル・アームストロングは、アイルランドの片田舎ラスケルテアル市に職を得て、ロンドンから遠路はるばるやってきた。が、職場になるはずの市立図書館の分館、タムドラム地区図書館の前に立ち、呆然とした。閉館する旨のはり紙が目に入ったからだ。
ここから、主人公がこうむる数々の苦難・・・・というよりテンヤワンヤがはじまる。
憤慨した主人公は、ただちにロンドンにとって返そうとしたが、同市の図書館主管課、娯楽・レジャー・地域サービス課のリンダ・ウェイ副課長に言いくるめられてしまう。「移動学習センター」という名の移動図書館の「出張サポート職員」に就くことになるのだ。
と・こ・ろ・が、閉鎖された分館のなかに足を踏みいれたところ、蔵書1万5千冊の影も形もない。
「蔵書まるごと消失事件」は、主人公が赴任する前の事件である。当然、主人公に責任はない。と・こ・ろ・が、またしてもウェイ副課長に言いくるめられてしまうのだ。司書は図書館のあらゆる本に対して責任を負う、ゆえに消失した蔵書の発見は主人公の責任である、うんぬん。
かくして、にわか仕立ての図書館探偵によるジダバタ調査と迷推理がはじまるのだが、詳細は本書に委ねよう。
それにしても、主人公の頼りないこと、はなはだしい。
イスラエル君は、本の読みすぎで、「知的、内気、情熱的で繊細、夢と知識にみちあふれ、豊富な語彙をもつ大人に育ったが、あいにく世俗的なことではまったく誰の役にもたたなかった」のだ。
そもそもまともにディベートできない。やり手のウェイ副課長には、まず「私たちの」と共同責任を負わされ、ついで「あなたの責任」に限定されてしまう。唯一の部下、運転手のテッド・カーソンには、ズケズケ言われるだけではなく、徹底的にからかわれる始末。「神に見捨てられた不毛の地」の「おんぼろ農家」に下宿するのだが、女主人ジョージ・ディヴァインには、けんつくを食らいっぱなし。
ひとり車をころがして家を訪ねるに当たり、路傍の住民に道を尋ねても必要かつ十分な情報を引きだせず、うろうろする。
もっとも、住民はひとクセもななクセもある男ばかりだ。カフェであいている席の隣人に座ってよいかと問えば、老人は疑わしげな目で見て「自由の国だからな」と答えたりする。ここに浮き彫りされるのは、アイルランドの片田舎に住まう男たちに独特の偏屈ぶりだ。もっとも、女だって油断できない。あまり飲めない主人公がパブでテッドを待ち受けていると、女性バーテンは言葉たくみに主人公をたちまち酔っぱらわせてしまう。
要するに、主人公は代々の名探偵のパロディでなのだ。その迷推理たるや、いずれも針小棒大な論法で、ことごとく論破されるのは当然だ。快刀乱麻を断つタルムード的論法で事件を解決する名探偵、デイヴィッド・スモールを生んだハリイ・ケメルマンが本書を読んだら、ガックリするだろう。
足をつかって調べてまわればドジを踏んでばかりの主人公に、フレンチ警部とおなじ国民とは思えない、と慨嘆する向きもあるだろう。
つまり、主人公イスラエル君は、とうてい名探偵とはいえない私であり、あなたである。取り柄は本に対する情熱しかない。
しかし、ショーペンハウエルもいうように、愚行も徹底すれば偉大にいたるのである。主人公の猪突猛進は、意外な結果をうむ。
キーワードは地域社会である。ラビ・シリーズのユダヤ人社会に対応するのがラスケルテアル市タムドラム地区である。
生き馬の目をぬく面々に揉まれているうちに、イスラエル君はだんだんタムドラム地区とその住民に愛着を覚えるようになる。そして住民もまた、イスラエル君という異邦人を信頼してよいと理解するにいたる。その結果、事件の真相は忽然と明らかになるのだ。それは、ひとりの異邦人と片田舎の住民の双方にとって、新たな出発の合図であった。
ミステリーにおける人間関係は、とかく閉鎖的になりがちなのだが、この点、本書は風とおしがよい。
学校を出たての新人もフリーターも、酸いも甘いもかみ分けた苦労人も本書を楽しめる。切れ味のよさをオブラートに包んだ会話が、テンポよく、読者をして冒頭から結末まで一気に読みとおさせてしまう。
□イアン・サンソム(玉木亨訳)『蔵書まるごと消失事件 -移動図書館貸出記録1-』(創元推理文庫、2010)
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ここから、主人公がこうむる数々の苦難・・・・というよりテンヤワンヤがはじまる。
憤慨した主人公は、ただちにロンドンにとって返そうとしたが、同市の図書館主管課、娯楽・レジャー・地域サービス課のリンダ・ウェイ副課長に言いくるめられてしまう。「移動学習センター」という名の移動図書館の「出張サポート職員」に就くことになるのだ。
と・こ・ろ・が、閉鎖された分館のなかに足を踏みいれたところ、蔵書1万5千冊の影も形もない。
「蔵書まるごと消失事件」は、主人公が赴任する前の事件である。当然、主人公に責任はない。と・こ・ろ・が、またしてもウェイ副課長に言いくるめられてしまうのだ。司書は図書館のあらゆる本に対して責任を負う、ゆえに消失した蔵書の発見は主人公の責任である、うんぬん。
かくして、にわか仕立ての図書館探偵によるジダバタ調査と迷推理がはじまるのだが、詳細は本書に委ねよう。
それにしても、主人公の頼りないこと、はなはだしい。
イスラエル君は、本の読みすぎで、「知的、内気、情熱的で繊細、夢と知識にみちあふれ、豊富な語彙をもつ大人に育ったが、あいにく世俗的なことではまったく誰の役にもたたなかった」のだ。
そもそもまともにディベートできない。やり手のウェイ副課長には、まず「私たちの」と共同責任を負わされ、ついで「あなたの責任」に限定されてしまう。唯一の部下、運転手のテッド・カーソンには、ズケズケ言われるだけではなく、徹底的にからかわれる始末。「神に見捨てられた不毛の地」の「おんぼろ農家」に下宿するのだが、女主人ジョージ・ディヴァインには、けんつくを食らいっぱなし。
ひとり車をころがして家を訪ねるに当たり、路傍の住民に道を尋ねても必要かつ十分な情報を引きだせず、うろうろする。
もっとも、住民はひとクセもななクセもある男ばかりだ。カフェであいている席の隣人に座ってよいかと問えば、老人は疑わしげな目で見て「自由の国だからな」と答えたりする。ここに浮き彫りされるのは、アイルランドの片田舎に住まう男たちに独特の偏屈ぶりだ。もっとも、女だって油断できない。あまり飲めない主人公がパブでテッドを待ち受けていると、女性バーテンは言葉たくみに主人公をたちまち酔っぱらわせてしまう。
要するに、主人公は代々の名探偵のパロディでなのだ。その迷推理たるや、いずれも針小棒大な論法で、ことごとく論破されるのは当然だ。快刀乱麻を断つタルムード的論法で事件を解決する名探偵、デイヴィッド・スモールを生んだハリイ・ケメルマンが本書を読んだら、ガックリするだろう。
足をつかって調べてまわればドジを踏んでばかりの主人公に、フレンチ警部とおなじ国民とは思えない、と慨嘆する向きもあるだろう。
つまり、主人公イスラエル君は、とうてい名探偵とはいえない私であり、あなたである。取り柄は本に対する情熱しかない。
しかし、ショーペンハウエルもいうように、愚行も徹底すれば偉大にいたるのである。主人公の猪突猛進は、意外な結果をうむ。
キーワードは地域社会である。ラビ・シリーズのユダヤ人社会に対応するのがラスケルテアル市タムドラム地区である。
生き馬の目をぬく面々に揉まれているうちに、イスラエル君はだんだんタムドラム地区とその住民に愛着を覚えるようになる。そして住民もまた、イスラエル君という異邦人を信頼してよいと理解するにいたる。その結果、事件の真相は忽然と明らかになるのだ。それは、ひとりの異邦人と片田舎の住民の双方にとって、新たな出発の合図であった。
ミステリーにおける人間関係は、とかく閉鎖的になりがちなのだが、この点、本書は風とおしがよい。
学校を出たての新人もフリーターも、酸いも甘いもかみ分けた苦労人も本書を楽しめる。切れ味のよさをオブラートに包んだ会話が、テンポよく、読者をして冒頭から結末まで一気に読みとおさせてしまう。
□イアン・サンソム(玉木亨訳)『蔵書まるごと消失事件 -移動図書館貸出記録1-』(創元推理文庫、2010)
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