水木しげるの故郷、鳥取県境港市の水木しげるロードには、134体の妖怪ブロンズ像が設置されている。このたび、また一体がくわわった。水木しげる夫妻のブロンズ像である。
2010年3月8日、ちょうど88歳の誕生日を迎えた水木しげるは、除幕式に細君とともに出席した。天下晴れて、夫妻ともども妖怪の仲間に加わったのである。
仲間入り? いや、妖怪は、もともと水木しげるの仲間だったのだ。
むしろ、水木しげる自身の分身である、といったほうが妥当だろう。
たとえば、ねずみ男。
水木しげるは、本書で、「ヒル寝は自然の掟である」と断じ、「睡眠は百薬の長」と宣言する。グータラなねずみ男が水木しげるの分身であることは明かだ。
もっとも、昼寝は水木しげる独りの特徴ではない。南国の民は、公然と、かつ、さかんに昼寝する。スペイン語圏では、シエスタと呼ばれる午睡の習慣がある。
地球の裏側まで行かずとも、本書によれば、ニューギニアをはじめとする「南方」の人は、自然の知恵に身を任せて暑ければ眠り、餓えない程度に働けばよいらしい。すくなくとも、戦時下に訪れた水木しげるにはそう見えた。
本書には書かれていないが、マレーシアには「山には果実があり、海には魚がいる。何をあくせくすることがあろうか」ということわざがある。
とはいえ、鬼太郎をはじめ、かずかずの妖怪を量産(または発見)した水木しげるが、昼寝ばかりして1世紀ちかくを過ごしてきたはずはない。
じじつ、本書には、締切に追われるその先には「人生の締切」が待ちかまえている、という考察もある(「締切病」)。
してみれば、妖怪は、水木しげるにとってあり得たかもしれないもう一人の自分であり、こうありたかった別の自分である、とも言える。これはこれで、また、水木しげるの分身である。
さればこそ、水木しげる描くところの妖怪は、タマネギの皮をむくように実人生の垢を剥いでいって、なお残る精気のようなものなのだ。飄々として、稚気さえある。番町皿屋敷のお化け、「一枚、二枚・・・・」の怨念はない。
じじつ、本書には、「素直に一枚づつ皮をはぐように生きながら死んでゆき、最後にぼけるというのは最高の死に方だろう」などとも書かれている。ハイデガーのいわゆる「死に向かう存在」のようには堅固ではなく、構えていない。死も冥界も日常生活の延長にあり、生活の一部だ。
水木漫画の妖怪が、老いたるにも若きにも幼きにも愛される所以だろう。
本書は、1970年代から随所に書かれたエッセイを収録する。おはこの妖怪談義のほか、少年期や従軍期の回想、人生論などテーマは雑多だ。
なお、各エッセイの初出の時期が明記されていないのは、時空を超越する妖怪的な演出・・・・ではなくて、ねずみ男的編集者の単なる怠慢だ、と思う。
□水木しげる『妖怪天国』(筑摩書房、1992)
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2010年3月8日、ちょうど88歳の誕生日を迎えた水木しげるは、除幕式に細君とともに出席した。天下晴れて、夫妻ともども妖怪の仲間に加わったのである。
仲間入り? いや、妖怪は、もともと水木しげるの仲間だったのだ。
むしろ、水木しげる自身の分身である、といったほうが妥当だろう。
たとえば、ねずみ男。
水木しげるは、本書で、「ヒル寝は自然の掟である」と断じ、「睡眠は百薬の長」と宣言する。グータラなねずみ男が水木しげるの分身であることは明かだ。
もっとも、昼寝は水木しげる独りの特徴ではない。南国の民は、公然と、かつ、さかんに昼寝する。スペイン語圏では、シエスタと呼ばれる午睡の習慣がある。
地球の裏側まで行かずとも、本書によれば、ニューギニアをはじめとする「南方」の人は、自然の知恵に身を任せて暑ければ眠り、餓えない程度に働けばよいらしい。すくなくとも、戦時下に訪れた水木しげるにはそう見えた。
本書には書かれていないが、マレーシアには「山には果実があり、海には魚がいる。何をあくせくすることがあろうか」ということわざがある。
とはいえ、鬼太郎をはじめ、かずかずの妖怪を量産(または発見)した水木しげるが、昼寝ばかりして1世紀ちかくを過ごしてきたはずはない。
じじつ、本書には、締切に追われるその先には「人生の締切」が待ちかまえている、という考察もある(「締切病」)。
してみれば、妖怪は、水木しげるにとってあり得たかもしれないもう一人の自分であり、こうありたかった別の自分である、とも言える。これはこれで、また、水木しげるの分身である。
さればこそ、水木しげる描くところの妖怪は、タマネギの皮をむくように実人生の垢を剥いでいって、なお残る精気のようなものなのだ。飄々として、稚気さえある。番町皿屋敷のお化け、「一枚、二枚・・・・」の怨念はない。
じじつ、本書には、「素直に一枚づつ皮をはぐように生きながら死んでゆき、最後にぼけるというのは最高の死に方だろう」などとも書かれている。ハイデガーのいわゆる「死に向かう存在」のようには堅固ではなく、構えていない。死も冥界も日常生活の延長にあり、生活の一部だ。
水木漫画の妖怪が、老いたるにも若きにも幼きにも愛される所以だろう。
本書は、1970年代から随所に書かれたエッセイを収録する。おはこの妖怪談義のほか、少年期や従軍期の回想、人生論などテーマは雑多だ。
なお、各エッセイの初出の時期が明記されていないのは、時空を超越する妖怪的な演出・・・・ではなくて、ねずみ男的編集者の単なる怠慢だ、と思う。
□水木しげる『妖怪天国』(筑摩書房、1992)
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